隠れ鬼.二
雨は嫌いだ。
夏の晴れた日は、それはそれで暑くてかなわないが、雨に比べたら断然ましというものだ。
いつからだろうか、雨を嫌いになったのは。
やはり、一人になったあの日からだろうか。
だが、雨の日に限らず、近頃は毎日のように思い出してしまう気がする。
理由なんてものはもうわからなくなっていた。
ヒノトとツヅミが雨漏りを見てはしゃいでいる。雨粒がレンさんの置いた鍋に、かつん、かつん、と落ちる様が可笑しくてたまらないらしい。何がそんなに可笑しいのだろうと、そっちの方が可笑しく思う。
子供は不思議だ。大人ならば目にも留めないようなことに興味を持ち、執着する。幼い時分の俺には、果たしてそんなことがあっただろうかと考えを巡らせるが、すぐに断念した。こんなことを思い出したからといって何だっていうのだ。下らない。
やはり雨の日には他にやることが無い分、いらぬ考え事ばかりする。
それも嫌いな理由の一つなのだろう。
「キョウちゃーん。来て来てー」
「きてきてー」
そら見たことか。
雨水に夢中になっていたのも束の間で、すぐに遊びの対象を探し出す。そして最終的に行き着くのは大概俺だ。こんな日は特に、鬱陶しいったらない。
「キョウちゃーん」
こういう時は寝たふりに限る。雨の日は体が重い。それは家の中にいても不思議と変わることはない。室内にまで流れ込んでくる雨音や、雨の日独特の匂いの所為だろうか。不快極まりない。目に見えぬ瘴気のような類のものが戸の隙間から入り込んで、体に纏わり付いてくる錯覚さえ覚える。これは最早病気かもしれない。
「キョウちゃん起きてるんでしょ!」
「がふっ!?」
しまった、声を出してしまった。だが、寝そべっている俺の脇腹に子供とはいえ、いきなり二人分の体重がのしかかったのだ。これでは手心を加えられるまでもなく、誰も俺を咎めることはできないだろう。どうしても無理な時とはあるのだ。
俺は悶絶しながら二人を見上げる。ふと二人の背後にもう一人大人の人影が見えた。
「な? 起きていただろう?」
見上げた先にあったミの表情は、何故だか酷くこちらを見下しているように見え、屈辱的であった。
「ほんとだー。みーちゃん凄いね。何でもお見通しだね」
「そうだよ。わたしは凄いんだ」
「馬鹿言え! あんなことされたら寝てても起きるわ! 阿呆が」
「ごろごろとしているくらいならヒノト達の相手をしてやれ」
「ならばお前がしてやればいいだろう。なんだって俺に」
「わたしは……ほれ、今忙しいのだ」
ミは手に持っていたおたまらしきものを示した。さすがに今日は丈の短い着物は着ておらず、初めて川のほとりで出会った時の格好であった。しかし、相変わらず上半身は紐でたすき掛けにしている。だが今回に限ってそれは恐らく料理の為であろう。
「今レンさんからおいしい煮物の作り方を教わっているのだ。前々からご教授願いたかったのだがな。今日はこんな天気だし良い機会だと思って」
「ちっ」
「まあ、そういうことだ。諦めろ」
そう言うとミは踵を返し台所へと戻ろうとした。
俺はそれを慌てて呼び止める。
「そうだ! あの鬼のガキ共はどこ行った。まさか外でもないだろう」
「それならまだ二階にいるよ。でも何やら話し込んでいたようだし、邪魔はしない方が――」
「知るか。おいガキ共、二階に遊び相手がいるぞ。行って来い」
「キョウちゃんも行こー」
「俺は後から行くから、ほら早く行って来い」
「はーい」
ヒノトとツヅミは素直に階段の方へ駈けて行く。階段のぎゅっ、ぎゅっと、軋む音を耳にすると、安心してまたすぐに横になった。
ミはその様子を見て呆れたように溜息を吐くと、再び台所へ向かって歩みだした。
俺達が紗千と出会ってから数日が過ぎた。しかし相変わらず四人でこの家に世話になっている。ミは小屋が直ったのだし、紗千に至っては村へ帰ると言っていたのだが、レンさんの、山を越えようにもここ最近は天気が悪いからしばらく泊っていきなさいという、わけのわからない理由で引き止められている。だが、ヒノトとツヅミは元より、以前と比べてレンさんやばあさんが妙に明るくなった様子を見ていると、それが単なる下らない言い訳だということは判然としてくる。
そういえば、台所から香ばしい匂いが漂っている。ミは煮物を作っていると言っていた。そろそろ昼飯時だろうか。
「おい、醤油」
「はい」
俺はミから受け取った醤油を卵焼きに掛けた。
それを見てミが眉を顰める。
「邪道だな」
「は? 何がだ」
「そのままで十分おいしいだろう」
「勿論そのままでも食う。だが掛けてもうまい」
ふと視線を前にすると、紗千が醤油の小瓶を片手に固まっていた。そして視線に気付いたかと思うと、急いでそれを食卓の上に戻す。持っていた位置で考えると、どうやら卵焼きに掛けようとしていたようだが。
「なっ! 何よ! ただ見てただけよ!」
急に耳を真っ赤にしてうろたえだす。
「別に何も言っとらんだろう」
「…………」
「どうしたんだい雷華ちゃん。元気ないね」
無言で箸を進める雷華を心配してか、レンさんが声を掛けた。俺とミからすれば、先程二階で話し合っていたことが原因だということが瞭然であった。もしヒノト達の邪魔が入らなかったならば、紗千の説教はいつまで続いていたのだろう。
「わたしとみーちゃんの料理を食べても元気出ないかい?」
「そ、そんな! 凄くおいしいです」
顔を上げると雷華は無理矢理笑顔を作った。
「ならよし」
レンさんはそれ以上の笑顔を投げかけて雷華に応じると、再び箸を進め始めた。
顔を上げた雷華の目元には泣き腫らした形跡があからさまに見えていたが、レンさんは全く気が付いていないかのように、触れないでいた。
「ふんっ」
と、紗千が面白くなさそうな表情を見せる。
「ところで、雷華ちゃんとさっちゃんはご近所なの?」
レンさんは紗千のことをさっちゃん呼ぶ。紗千ちゃんと発音しにくいからだろう。初めてそう呼ばれた時は当然驚いて、何か言いたげに口をパクパクとさせていたが、結局何も言い返す言葉が見つからなかったようだ。相手がレンさんのような人であれば、それは仕方のないことだろう。
「近所と言えば近所ね。まあ関係無いけど。わたし達の家同士は仲が悪いのだし」
紗千は何か怒ったように淡々とものを言う。
「でも小さい頃はよく一緒に遊んでいたんですよ?」
紗千の言い草にレンさんを気遣ってか、雷華が口を挟む。小さい頃といっても、今だって十分小さいのではないかと思う。俺からしてみればヒノト達と同じガキという認識でしかない。しかしその二人の口からジュソ退治だの、仕事だのという言葉が出るのだから妙であった。実際に目の当たりにした今でも俄かに信じ難い。
「遊んでないわよ! 何言ってるの? あなた」
「だってよく遊びに誘ってくれたじゃない」
「あれはわたしが一方的にあなたをいじめてただけ!」
「確かによく泣かされてたけど……」
二人は昔話でもしているつもりだろうが、その様子がありありと目に浮かんだ。
「ねぇねぇお母さん。おじちゃんに会いたいなー。おじちゃんの話が聞きたい」
「はいはい、もし明日雨が止んでたらね」
レンさんは軽く受け流すように答えた。
「あんな得体の知れん他所者、関わることはない」
ばあさんが吐き捨てるように言った。
「おばあちゃん、佐久間さんは良い人ですよ。心配なさらなくても」
それを聞いてレンさんは窘めるように言う。
佐久間とは俺と同じく本島からこの島に渡ってきた人間だ。俺よりも一足前からいたらしいのだが、俺は会ったことも顔を見たこともない。確かにこのばあさんの言う通り、得体が知れない。だが、レンさんはそうは思っていないようだ。何でも、その佐久間という男は手先が器用らしい。壊れた台所用品を持っていくと、いとも簡単に直してしまうのだ。それでいて金は取らず、畑で採れた少しばかりの米や野菜を持っていくと喜んで受け取るのだそうだ。それでこの界隈の主婦連中からは割と親しまれているらしい。壊れたものを、本島から持って来たのであろう、見たこともない道具でもって直すところも見物だとか。
得体は知れないが、レンさんがヒノト達を安心して遊びに行かせるのだ、少なくとも危険な男ではないのであろう。
「余所者であることには変わりない。本島の話が聞きたければ、ほれ、そこの馬鹿から聞けばいいじゃろ」
「ばばあ、俺も本島の人間だぞ」
この島からすれば俺も余所者だ。
「佐久間とかいう奴は一度目にしたことがあるが、どうも信用ならん。あれは無駄に知恵を持っとる人間の顔じゃ。ああいう人間は何を考えているかわからんもんじゃ。昔からな。その点お前は馬鹿だ。知恵も何も無い、刀を振るうしか脳のない大馬鹿者じゃ。同じ余所者ならお前さんのような馬鹿の方がうんとマシってもんよ」
ミがくすりと笑ったのを見逃さなかった。後ろで正座をしているヒナまで同じように笑っている。さて、この老人は今俺に向かって、何度馬鹿と言っただろうか。
「ばばあ、大概にしとけよ」
「なんじゃ、褒めとるのに」
もう我慢ならん。
俺が思わず、食卓に拳を叩きつけようと両腕を振り上げたところで、横から「んん」と露骨な咳払いが聞こえた。我に返り視線を向けると、そこには突き刺すような眼光があった。
レンさんならばたとえジュソのような化け物に出会ったとしても、その目付きだけは劣ることはないのかも知れない……。
「だってキョウちゃん嘘吐きだったしー」
「だったしー」
「お前らまだ言うか」
「だって佐久間さんから〝デンワ〟見せてもらったけどキョウちゃんが言ってたのとは違かったよ?」
「〝デンワ〟だあ? そんなものこの島に持って来ても意味無いだろう。誰と話すってってんだ」
「本島の人と話すって言ってたよ」
「話せるわけがないだろう」
「話せるって言ってたもん」
「なら実際に話せたのか?」
「んーん。なんか〝デンパ〟ってやつが無いと駄目なんだって」
「はっ、そんなところだろうと思った。でたらめだ、そんなもん」
「違うもん!」
ヒノトは珍しくムキになって反論した。そこまでその男を信頼しているのであろうか。俺のことは嘘吐き呼ばわりするくせに。そう思うと何とも遣り切れない気持ちになった。
いつもならば面倒なところだが、どの道ジュソ退治には出れそうにもない天気だ、今日はとことん相手をしてやろう。柄にもなくそう考えてしまった。
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