ジュソ祓い.四

 店を出て、帰路に付く頃にはすっかり日が暮れてしまった。

 田の畦道を四人連れだって歩く。

 ふと、こんなことをしていて良いのだろうかと考えてしまう。

 実は先程森から出た時も考えそうになり、しかし今日のところは忘れようと必死に頭から消していたのだ。いや今日だけではない。自分の村を出てからはいくらでも考えたことだ。

 立ち止まりそうになる足を何とか動かす。

 わたしは本来、こんな環境から逃げる為に家を出たのだ。

 最初レンさんの家に厄介になっていた時も、このままでは駄目だと思い、目的を見失いどっち付かずになることを恐れて、自ら森に籠ることを決めたのだ。

 しかし、中々上手くはいかない。

 どこにいようと人と繋がってしまう。繋がりができてしまう。それが嬉しい半面もどかしくもある。村に残してきた人達に申し訳なくも思う。

 それは、わたしの心が弱いからであろうか。

 どっち付かずと言うならば、もう既にどっち付かずなのかもしれない。いっそのこと楽になってしまえば良いと思う。しかしそれができないでこんな中途半端な位置にいる。本当にもどかしかった。忘れてしまえればどんなに楽であろうか。

 わたしがちゃんと拒絶できる人間ならば、それに越したことはない。きっとこんなことで悩むこともないのだ。もっと楽に自分の道を進めただろう。

 だがそれだけではない。

 わたしの心が弱い。

 それもあるであろうが、それだけではない。

 この村には、島には、良い人が多過ぎるのだ。呪いだのジュソだの言うけれど、この島は本当に良い所だ。外の世界を見たことはないけれど、この島の人々の心はどこよりも平和な筈だ。

 だから縋りたくなる。弱いわたしはすぐに。

 しかしだからこそ、だからこそだ。

 だからこそ忘れてはならないと思った。

 家を出ようと決めたあの日の気持ちを。

 今度こそ守りたいと思ったあの日の気持ちを。

「あ」

 つい声に出してしまう。

 考え事が過ぎたようだ、先を行く三人と少し間が空いてしまった。

 それをぼんやりと眺めていると、雷華が心配そうに何度も振り返った。勿論キョウと紗千は構わず先を行く。それを見て自然と口元が緩んだ。

 でもあと少しくらいならこうしていてもいいかな。

 やはりわたしは弱いのだな。

 そう思った矢先であった。

 わたしの口元から一瞬で笑みが消え失せる。


「おい」


 先頭を歩いていたキョウは突然歩みを止めると、右手でわたしたちを制した。左手は既に鞘を掴んでいる。

「ああ、わかっている」

 わたしは声を押し殺してキョウに応じる。

 風も無いのに、道の傍らの木々がざわついているのがわかった。辺りが不気味な程に静まり返る。何処へ行ってしまったのだろうか、ひぐらしも蛙も蟋蟀もすっかり鳴りを潜めている。胸騒ぎだけが大きくなる。

 ヒナが怯えてわたしの着物の帯を、ぎゅっと掴んだ。

 不意に木々のざわめきが収まる。

 そして、遠くの木々の隙間から、この薄闇の中でも存分にわかるような漆黒の巨躯が姿を現した。そしてその化け物は辺りを見回すような素振りを見せると、わたし達の方を向いた。

 腕の長さが左右で不釣り合い。間違いない。あの時の、キョウと出会った時に襲ってきたジュソだ。

 日は暮れたとはいえ、まだ周囲を見渡せる程には明るい。こんな時間からあのような大物が森から姿を晒すとは、わたし達を狙って来たのか。腕を奪ったわたし達を。

 ここからでは上手く確認できないが、あの時の黒く濁った瞳はわたしたちを確実に捉えたであろう。そしてのらりくらりとこちらへ向かって来る。

 わたしとキョウは小刻みに震える雷華の前に、互いに申し合わせることなくゆっくりと歩み出ると、得物の用意をする。わたしはヒナから手渡された大鋏を、キョウは腰に差した刀を。

 キョウが緩慢な動作で鞘から刀を引き抜き、その決して心地よくない耳鳴りのような音が耳に届いたその時であった。


「待って!」


 背後から声がした。振り返る。雷華は相変わらず青白い表情で俯いている。どうやら声を発したのは紗千のようだ。

 キョウが怪訝そうに眉根を寄せる。もしかしたら、わたしも同じような表情をしているのかもしれない。

「あなた達、鬼のことをあまり知らないようだから見せてあげる。鬼がどうやってジュソを祓うのかを。どうせその子の時は何もできずに助けを求めただけでしょうし」

 紗千は得意げに言った。

「あ、いや、ちょっと待て。あれは、あのジュソは」

 あの成長したジュソは普通のジュソとはわけが違う。私は慌てて口を挟んだ。

「何? わたしはジュソ祓いの専門家よ? あなた達のようなならず者とは違ってね。まあ見てなさい」

 そう言うと、徐にずいと進み出る。

 横でちんと、涼しげな金属音がした。キョウが刀を収めたのだ。

「おい! キョウ!」

 思わず声を荒げる。

「本人があれだけ言ったんだ。見てやろうじゃないか。俺が相手をするのはあいつが殺された後でいい」

「キョウ! 言っていたことが違うぞ! あれはお前の獲物じゃなかったのか! それをみすみす横取りされて、それでいいのか!」

 わたしは必至でキョウを挑発した。手負いの相手とはいえ、あの化け物相手に人を一人庇いながら戦うことは、わたしにはできない。必ずどちらかが傷を負ってしまう。それも致命傷かもしれない。だから今はキョウの助けが必要だった。

「さあな、そんなこと言ったか? それに俺はあいつが殺された後でいいと言ったんだぞ?」

 そんなわたしの思いも何処吹く風と、キョウは意地の悪い笑みを見せた。

 覚悟を決める。わたしがやるしかない。そしてゆっくりと歩み寄ってくる化け物を前に、大鋏を握りしめた。

「邪魔をしないで。あれはもうわたしの獲物よ」

 それはいつしかあの川のほとりで耳にした、キョウの言葉と同じものであった。

もし、このような状況でなければ、その言葉を聞いて、ああやはりこの子はどこかキョウに似ているなと、取るに足らない感想の一つでも漏らしていたであろう。


高天原たかまのはら神留かむづます、皇親神漏岐すめらがむつかむろぎ神漏美かむろみ命以みこともちて!!」


 数度、ゆっくりと深呼吸を繰り返したかと思うと、紗千が何やら難解な言葉を口にし始めた。右手にはいつしか四、五枚のお札らしき紙があった。体を半身に構え、指の間に挟んだお札のようなものを化け物に向ける

八百萬神等やおよろづのかみたち神集かむつどへにつどたまひ、神議かむはかりにはかりたまひて………」

 化け物は未だゆっくりとこちらへ向かって来る。しかし、紗千は毅然とした様子で言葉を紡ぎ続ける。

「過ち犯しけむ種種くさぐさの罪事はあまつ、罪國つみくにつ、罪み許許太久ここだく罪出つみいでむ、く出でば、あまつみ宮事以みやごともちて、あま金木かなぎ本打もとうちち切り、末打すえうち断ちて!!」

 より一層大きな声を上げたかと思うと、手にしていたお札の一枚を化け物目掛けて投げつける。

 お札は見事なまでに真っ直ぐに飛んで行くと、怪物の額に張り付いた。

「ぐ、ぐおぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」

 途端、化け物が苦しみに悶え始めた。足を止め、その場で両腕を着く。左右で腕の長さが違う為、不恰好に体を傾けて。

彼方をちかた繁木しげきもとを、焼鎌やきがま敏鎌以とがまもちて………」

「ぐおぉぉぉぉ、ぐるるるるるる」

 口から泡を噴き、身動きが取れずにいる化け物の目だけが、ぐるりぐるりとわたし達を見回している。

 その目を見ていると、ああわたしは恨まれているのだなと、わけも知らず身を切られる思いになる。

「打ち掃ふ事の如くのこる罪は在らじと…………っ!?」

 これまで淡々と言葉を発していた紗千の声が急に止まった。

 化け物が再び前進を始めたのだ。

 苦しみの断末魔を上げながら、震え、血反吐を吐き、それでも確実にこちらへ這って来る。

「なんてやつ……? やっぱりここまで成長すると一筋縄ではいかないようね」

 言って、手に残った残りのお札をすべて化け物に投げつけた。

「そう、出し惜しみなんてできる相手じゃないってことね! 祓へ給ひ清め給ふ事を!!」

 飛んで行ったお札は、まるで見えない糸に引かれたかのように、化け物の腕に、足に、胴体に張り付いた。

 再び化け物は動きを止め、今度は耐えきれずその場に崩れ落ちた。

 なおも紗千の言葉は続く。

佐須良さすらひ失ひてば、罪と言ふ罪は在らじと、祓へ給ひ清め給ふ事を、あまつ神、くにつ神、八百萬神等共よほよろずのかみたちともに、聞こしせとまおす!!」

 紗千が言葉を終えると化け物はより一層の苦しみを見せ、やがて動かなくなった。だが、消える気配は無い。よくよく目を凝らすと、手足の先がひくひくと微かに痙攣を見せているのがわかる。

 それに気付いたのか、紗千はちっと小さく舌打ちをした。

「ここまでさせておいてまだ動けるの?」

 白衣の懐から新しく一枚の札を取り出す。

「召鬼一式、羅刹!」

 そう言ったかと思うと、手の中で札が弾け、薄い白煙と共に大きな鎌が現れた。

 大きな大きな黒い鎌。

 その長さは恐らく、紗千の背丈よりも長いだろう。そしてその刃も柄と同じくらいに長かった。だが、そんなことよりも目に付いたのは、その鎌の意匠だ。刃以外のすべての表面を蔦が絡みつくように、あるいは脈打つように禍々しい装飾が施されていた。その禍々しさたるや、ヒナの持つ大鋏に負けず劣らない程だ。

 紗千は鎌を片手で下に構えると、大股で化け物に近づいて行く。化け物は最早声を発しない。微かに残る夕日に照らされてぬらりぬらりと光る刃。鎌の柄に装身具がぶつかる、ちゃりん、ちゃりん、という、小気味良い音だけが耳に届いていた。

 わたしは動かなかった。もう、動かなくてもよいことがわかっていたからだ。あるいはただ動けなかったのか……。

 紗千が大きく振り被った刃で化け物の首を刎ねたのを見届けて、ようやく肺の中身を吐き出すことができた。

 キョウはというと、あの不敵な笑みからつまらなそうなものを見る表情へと変わっていた。本気で紗千が殺されてしまうことを期待していたのだろうか。まさか。わからない。わたしは少しだけ、この男のことがわからなくなる。

 気が付けば、夕日はとうに沈んでいる。

 上を見上げると月が爛々と照らし、周囲の夜空を不気味な程群青に染めていた。

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