最後の夜の願い

つっちーfrom千葉

第1話


 広大な砂漠の真ん中にひとつの小さな国家があった。この話は、その刑務所での出来事である。この刑務所は世界的な物差しで見れば、中規模に属するものであったが、その牢屋の多くは、決して許されざる大罪を犯した受刑者のみで埋め尽くされていた。牢獄の岩壁には、それぞれの刑が終わる日まで続けられる、厳しい労役に疲れ果てた囚人たちの汗が染みとなってこびりついていた。床には砂塵と埃と汚染された泥土が、幾重にも積み重なっていて、それが多くの害虫を呼び寄せ、例えようもないほど汚れきっていた。とっくの昔に未来への希望を失った人生の敗北者たちの獣のような叫び声はやがて唄となって、監獄の内部の隅々まで響き渡っていたが、それが分厚い壁の向こう側にまで響くことはなかった。牢屋は細く長い通路を境に、多くの十字路が展開して奥へと続いていき、重い判決の下された囚人ほど、より奥の暗く湿った監房を割り当てられることになっていた。その一番奥にある特別監房には、自身の処刑日を明日に控えた、ひとりの若い囚人が囚われていた。


 その罪深き男は、今、暗がりの中で地べたに這いつくばり、両手で頭を抱え、額にはびっしりと汗をかき、浅く早く呼吸をして、数秒おきに足音を立てて迫りくる死の恐怖と戦っていた。極刑の宣告を受けてからの毎日は、失望と後悔と祈りと懺悔の果てもない繰り返しであった。しかし、とにもかくにも、明朝を迎えれば、その想像を絶する苦悩からは解放される。この世のあらゆる悦楽は、今後は味わいようもないわけだが、解放という概念で考えれば、確かにそうである。


 この世での最後の一日は、自分の過去の大罪を今一度思い返し、過ちを真摯に反省し、無念の内に世を去る羽目になった、今は亡き被害者たちの霊を弔い、明日には地上の人ではなくなる自分のためにも、ひたすら天に祈りを捧げることで過ごした。しかし、時の流れは非情なものである。いや、時間という概念ほどに非情なものが他にあるのだろうか? 幸福だった時期は、緩やかに流れていたはずの時間は、その日が近づくごとに速度を上げて過ぎゆき、やがて、この砂漠には最後の絶望の夜が来た。長い年月の経過により、改心に至ったとはいえ、その冷酷な運命は動くことはない。どれだけ神に祈ったところで、太陽が今一度、天に向かって昇り輝けば、彼のやせ細った身は、ここからたちまちにして引きずり出され、衆目のもとで縊り殺されるわけである。男は窓の鉄格子越しの月を眺めながら、しばし深い思いに耽っていた。


『今からでも、自分に出来ることは無いのだろうか?』


 ふと、こちらに向けて廊下を歩いてくる、控えめな足音が聴こえてきた。死刑囚は深い思考から覚めて顔を上げると、ここに留置されてからの十三年の間、毎日世話をやいてくれた看守がそこに立っていた。彼は冷徹と憐れみとを帯びた表情で男の様子をしばらく伺っていた。囚人は頭を軽く下げて、いつもの通り、気のおけない挨拶をした。看守は頑強な鉄扉の二ヶ所に設置されている鍵を、慣れた手つきで開けると、監房の中に入ってきた。もはや、単なる世話人という言葉を乗り越えて、盟友とも表現できた。


「どうだい、気分は悪くないか? いよいよ、明日だな」


「ええ、あなたには長きに渡り本当にお世話になりました。最後に丁重なお礼を申し上げたいのですが、今はもう言葉にもなりません」


 男はすっきりとした表情でそう笑った。死という概念を眼前に控えながらも、その声には、一切の動揺や畏怖が感じられなかった。長い苦痛きわまる裁判を戦い抜き、牢獄に入れられてからの貴重な体験がなかったなら、今夜のような澄み切った気持ちは、決して生まれなかったはずだ。


「それで、今夜はどうやって過ごすつもりなんだ? これまでの毎日と同じように、神にひたすら許しを乞い、祈りを捧げようというのか?」


「そうです。自分の愚かな行為のために、かけがえのない命を失ってしまった被害者の方々のために、ただひたすら祈りを捧げていました」


 そんな言葉を聞かされると、看守は心からの同情を隠せず、囚人の思いを少しでも汲んでやろうと、少しうつむいて、この場に必要な言葉を、何とか紡ぎ出そうとしていた。残酷な刑罰とは無縁といえ、自分の人生とて楽ではなかった。いつ気をおかしくして暴れ出すかも分からぬ、徒刑囚たちの世話を淡々とこなす毎日。最初の半年も耐えられずに職を放棄した同僚も数知れず存在した。そのなかで、この仕事が誇りとなるまで続けてこられたのは、眼前のこの囚人との関係があったからこそである。いつ訪れるかも分からぬ死と向き合いながらも、決して目を逸らすことなく、それと戦う彼の姿が自然とそれを見守る自分の励ましにもなっていた。いわば、互いの心を助け合いながら、今夜まで生きてきたのである。


「確かに殺人は許されることではない。しかしな、もう遥か昔のことでもある。時の流れが罪を薄める、などと言うつもりはない。しかし、この牢屋に入れられてからの日々、おまえさんは自分が殺めた命の重みを理解できるようになるために、様々な種の勉学を積み重ねてきた。そして、自分に足りない道徳の教育を受け、改心を得るために神父さんに諭される日々、少しずつ、命の重さという概念を身につけながら、毎日のように被害者の魂に向けて祈ってきたじゃないか。法に係らぬ罪を重ねながらも、死の意味など何も考慮に入れず、街中を平然とぶらついている市民たちと比べてどうだろう? 今の君の姿の方が立派ではないのかな。その成長した姿を見れば、天国にいるはずの被害者の方々の御霊も、おまえさんの心に新たに生まれたその苦悩に気持ちを傾け、許してくれているはずさ……」


 囚人はそのように慰められても、到底納得はできない様子で、頑なに首を横に振るばかりだった。


「いいえ、この私に対しては、そのような温かな同情は無用です。確かに、自分で企画した犯罪とはいえないものでした。それに、犯行当日はいくつもの複雑な要因が絡んでしまい、本来は組織の一番手下であったはずの私が、殺めるつもりもない生命を、この世から消してしまうことになりました。被害者の方に恨みがあったわけでもなく、欲に目が眩んだわけではなく、すべては偶然と出来心の範疇なのです。しかし、結果的としては、三人もの重い命を残酷な手段で殺めることになってしまいました。これは、私が主軸となって行われた犯罪であると、そう判断されても無理はありません。弁護の余地がまったくないとまでは言えませんが、裁判官から頂いた厳しい判断は至極適切なものであり、今となっては、受け入れる他はないと思っています」


 看守はその目に大粒の涙を浮かべながらも、健気に語る囚人の声を聴いて、すっかり感じ入ったように大きくため息をついた。


「死刑というのはどう考えても不思議な制度でな。いくら冷酷な殺人犯が存在するとはいえ、人間が同じ人間を裁くわけだからな。法律を深く学んだ学識者の中には、死刑廃止論者も多い。「国家が人を殺めていいのか」と主張する人も多くいる。実際には冤罪を恐れ、人権を重視する方針により、死刑を廃止する国も徐々に増えてきているわけだ。長年、君に寄り添ってきた自分としては、この死刑制度に対して複雑な思いもあるし、犯罪者の首を平然と刎ねていく我が国の司法のやり方を支持するつもりもない。実をいえば、上司に直訴することで君を救ってやれればと思ったことも、何度となくあるんだ。十三年間も朝昼晩と一緒に生活をすれば、これはもう兄弟と同じだからね」


 その言葉で囚人の涙は嬉し泣きへと変わっていった。握りしめた右手で、静かにその涙を拭った。


「お気持ちはこの上なく嬉しいのですが、私は法律や判決文を恨んではいません。この十三年間、反省に反省を重ねてきたことで、自分が無慈悲にも殺めてしまった相手方の気持ちに深く思い至りました。自分たちの心の傷を慰めるためには、どうしても犯人に死んで貰わねばならない、と願う被害者の親族の訴えもよくわかります。多角的に見ますと、理論上は難しい制度なのかもしれませんが、それ以上に、私はこの地上に存在してはならない人間なのです」


 このような議論はふたりの間で、毎夜のように行われており、看守はその意を十分に汲んではいたが、ここは囚人を慰めてやろうと、彼の肩をぽんと叩いた。


「今夜はふたりにとって最後の夜だ。ようし、それなら、私としても出来るだけの力を尽くして、おまえさんの願いを叶えてやろうじゃないか。明日を忘れるために、この世へのすべての未練を消し去ろう。どうだ、何か願い事はないのか? 私にもそこそこの人脈はある。もし、おまえさんが望むのなら、可能な限り、何でも叶えてやるぞ」


 その申し出に対して、かなりの時間、囚人は考え込んでしまった。重い責任を背負った身として、反省の遂行とまだ心に残る欲望の達成とを秤にかけていた。頭の奥でどのように結論を出したのかは伺い知れぬが、しばらくすると、囚人の表情は、すっかり吹っ切れたような嬉しそうなものに変わっていた。


「極刑を待つ身としましては、にわかには信じがたいほどのお申し出です。本当にどのような願いでも叶えてもらえるのでしょうか?」


「ああ、今夜だけは何を言われようとも、受け入れるようとも。遠慮はするな。最後で最大の欲望を絞り出せ。どんなことでも言ってこい」


 看守は男の願望をさらに勢い付けようと、そう答えた。


「それでは…、この夕食が私の人生において最後の食事になりますので、何を差し置いても、やはり美味いものが食べたいですね。砂漠の王者でさえ見たことの無いような、贅の限りを尽くした料理をご用意して頂けませんか」


 男は相手に言われた通り、何の遠慮もなしに、そう主張した。看守はこれまた気持ちのいい笑顔によりそれに応じた。


「まったく、筋の通った要求だ。これまでにも多くの死刑囚がそのように答えたものよ。よくわかった。すぐに食事の用意をさせるから、待っていろよ」


 看守はそう述べると、一度足早に牢屋の外へ出ていった。囚人が格子越しに覗いてみると、彼は携帯電話を用いて、どこか別の部署へ連絡を取り始めた。すると、彼の独断でこれが行われているわけではないらしい。それから二十分ほども経つと、白い割烹着に身を包んだ料理人たちが、どやどやと慌ただしく押しかけてきた。どうやら、付近の街にある有名料理店のコックが、一同に集って来たらしかった。料理人は客を選ばず、国境などもない、とでも言わんばかりである。ここが死刑囚の独房だと知らされても、怖気付く様子もなく、調理に一心に集中している様子だ。


 それから半刻も経った頃、彼らは独房の床に座り込む男の前に、美しい真っ赤なペルシャ絨毯を敷いてみせた。次に、世界各国の有名料理をその上に並べてみせた。北京ダックや仔羊のステーキはもちろん、近海もののオマール海老の姿煮や白トリュフのスープもそこにはあった。もちろん、これまで社会の底辺で生き永らえてきた、この哀れな囚人は、このような豪勢な料理を目のあたりにするのは初めてなので、ただ驚く他はなかった。はるか昔、娑婆の労働者であった頃も、執事が付き添うような豪華な食事には、縁遠い生活を送ってきたのだから。


「これはすごい、本当にこの王侯貴族の料理を、私のような者が頂いてもよろしいのでしょうか? 明日の早朝、執行人の持つ刃により、私の首が飛ばされた瞬間に、胃袋にあるこの食事も、すべて無駄になるわけですが」


「もちろんだ。これこそは、この世での僅かなひと時を惜しむ、おまえさんのために用意された料理なんだからな。さあさあ、これが一生で最後の口福だ。遠慮なく全部食べ尽くしてくれ。人生の最後の一瞬には利益も不利益もない。まったくもって、何の気兼ねもいらんのだ」


 看守は余裕の表情でそう答えると、囚人をさらにけしかけた。この国の常識で語れば、処刑の迫る囚人に対して、多くの食事を振る舞う必要は無いという考えが一般的であり、事実、日頃の手抜き料理によって、男はすっかり腹を空かしていたわけである。しかし、今さら、出されたものに不審を抱く必要もない。手元に置かれている料理から手当たり次第に口に運ぶと、捕えられた鹿の肉に群がるハイエナのように、十人前はあった豪勢料理を、ものすごい勢いで食い尽くしていった。たった一時間弱で、ほぼすべての料理を無きものにしていた。男はまるでマハラジャのように、食後の高級フランスワインをガブガブと飲んでいた。看守もその側に立ち、満足そうにその様子を眺めているのだ。


「ああ、こんな贅沢を味わったのは、生まれて初めてです。しかし、こんな凄い料理を食べてしまいますと、逆にこの世に未練が生まれてしまうでしょうね。せっかく、先ほどまでの長い祈りによって心が落ち着き、死へと向かう覚悟が着々と整っていたというのに……。いえ、別に死にたくない、などと今更言い出すつもりはさらさらありませんが」


 男は赤い顔を緩ませ、微笑みながら、冗談混じりにそう言った。その余裕の笑みは、死刑囚の顔とはとても思えなかったし、よもや、たったの一時間で、自分の思想信条を根底から覆す人間がいるはずはなかった。


「何も罪悪感を感じることは何もないんだぞ。おまえさんは明日の朝にはこの世から消えてしまう身の上なんだ。この世でもっとも大切なものが時間であるなら、おまえさんは、地上でもっとも恵まれない立場にいると、そう表現してもいいくらいなんだ。このぐらいの贅沢であれば、天界におられる神々も、きっと許してくれるさ」


「それはその通りです。これは文字通り最後の晩餐ですからね。貴方の仰る通り、地上にあってもっとも不遇な位置にいるこの私が微かな幸福を味わえることは理に叶っています。しかし、少し不思議に思うことがあるのです。この料理を用意するには、それなりの費用がかかっているのではないですか? 我が国を統べる官僚の方々が、死刑囚の私に対して、これだけの予算を用意してくださるとは、とても思えません。いったい、どうやってこの料理の費用を捻出したのですか?」


 看守はそのきわめて妥当と思える質問に対して、一度、意味ありげに首を振ってから、にこやかにこう答えるのだった。


「いいか、これはおまえさんにとって最後の贅沢なんだ。お金の出どころなんて気にしなくていい。いや、どうでもいいと表現しようじゃないか。天上から届けられた粋な計らいに対して、すべての疑念は不要なんだ。私としては、ただ、この貴重な時間を、おまえさんが思うさま楽しんでくれれば、それでいいのだ」


 囚人はもっとも信頼している看守に言われるままに、あまり深く考えることなく、そのありがたい申し出を受諾するのだった。ただ、この世で最も汚れた場所のど真ん中に置かれている自分の命に、まだ、それだけの価値があるのだろうかと疑問に思ったことは事実である。


「さあ、他に何か願いはないのか? まだ、空には無数の星が輝いている。夜明けまでには、相当な時間がある。追加の願い事があるなら、それも叶えてやるぞ」

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