第15話
緑の石の研究は、モルトレール農園で密かに始まった。シルベスターとヘラは、その研究の協力者として、自由に農園に立ち入る許可が下りた。と、言ってもヘラは平日仕事があるし、王都で暮らしているので、王都の西にある農園にはそう気軽に通えるものではなかった。その代わりにシルベスターは司教から馬が与えられ、農園に足しげく通うようになっていた。彼がよく出かけるようになったからか、週末屋敷に行くことが少なくなった。
緑の石の発見でフローリア計画がどうなるかと見守っていたが、しばらくは予定通り続行することとなった。
ヘラが仕事に追われている間に、シルベスターと司教が話し合い、次の奇跡を決めていた。前回、前々回と派手で大々的な奇跡を行ったが、今回は至って慎ましい、言ってしまえば地味な奇跡だった。
「こんな内容で大丈夫ですか?」
「問題ありませんよ。最近は実験を兼ねたものが続きましたからね。原点回帰を図ろうと思いまして」
つまり、神々しさとか、救いを前面に押し出した奇跡というわけだ。
今回の奇跡は王都の片隅で、人々の憩いの場になっていた大木が枯れてしまったので、魔法で回復させるという実に簡単なものだった。下準備も特に要らないささやかなもの。ヘラの魔法の腕が上がるにつれて、奇跡の下準備が減っていった。ヘラの魔法、ヘラの腕一つで、奇跡を仕立て上げられるのだ。
そしてあまりに簡単な奇跡は、おつかい感覚で終わり、次の日にはやったことさえ忙しさで忘れてしまった。
○
今回の奇跡、魔法の規模では緑の石はできないと思っていた。それに、王都のように人が多く行き来するところでは緑の石はどうやら出来難い様だった。
シルベスターはただ近くを通りかかったという理由で、気まぐれにその奇跡の大木のところに足を向けた。そして、意外な人物を見つけて息をのむ。
あれが噂の審問官ですか。
シルベスターは審問官ガルニエの顔を知らなかった。でも王国人と顔立ちが違うし、司祭の格好をしていても細部が違う。海の向こうの総本山の意匠と考えれば納得だ。雇い主である司教からは計画に支障があるといけないから関わるなと言われていたが、シルベスターは興味があった。だから、つい声をかけていた。
「こんにちは。もしかして、国外からいらした方でしょうか?」
○
突然声をかけられた審問官ガルニエは怪訝な顔で振り返る。
「あなたは?」
ガルニエは相手を探るように頭の上から足の先まで見回した。身なりは良いので、良家の子息か何かかと思われる。馬にも乗らずに、下流市民の住むようなところにいるのもおかしいが、巡礼の途中だと考えられる。
「初めまして。私は貴族に雇われ、学者をしておりますシルベスターと申します」
「ほう、学者を!」
ガルニエの顔がパッと明るくなった。
この国では識字率が低く、聖典の内容を知る者も少ない。ガルニエにとって、王国は貧しく未開の土地だった。
それでも極わずかに知的階級に属する人はいて、そういった人と会話をしたいと思っていた。簡単に言うと、一年以上も異国にいて、寂しかったのだ。
シルベスターは一見して、ガルニエの望む知的な会話ができそうな男だった。これは久しぶりに有意義な時間を過ごせそうだ。
「どうですか、少し話しませんか。海の向こうの話をぜひ聞かせていただきたい」
「いいでしょう」
ガルニエは快諾し、シルベスターの馴染みの店だというところに案内された。上流階級向けの店が立ち並ぶ地区の、裏通り。看板も立っておらず、ただ扉があるだけの店だった。
お忍びの店というわけですか。
彼がそういう店を選び、ホッとした。司祭の格好をして、高級な店に入るのは憚られたのだ。シルベスターはこの店に来慣れているのか、店員と親しげな様子。そして、静かに会話をしたいと伝えると、店の奥へと通された。
案内された席は質素でありながら品があり、卓上は丁寧に食器が並んでいた。
「ここは国外のお酒を取り扱っているのですよ」
シルベスターが言った。
「本当ですか?」
ガルニエは試しに総本山の自室でこっそりと嗜んでいた、王国では一度も目にしたことのない銘柄の酒の名を口にすると、素早く「こちらでお間違いありませんね」と持ってきた。
「見事なものです」
驚きつつも、満足げなガルニエのグラスに、黄金色の酒が注がれる。いつの間にかシルベスターのグラスにも飴色の酒が注がれていて、彼はグラスを掲げた。察したガルニエもそれに倣う。
「出会いに感謝して」
「この素晴らしい時に」
グラスに口を付け、酒を流し込むと、忘れかけていたほどよい渋みのある酒がじわりと口に広がる。そしてアルコールの匂いが鼻をつきぬけた。
「いや、実にいいものですね」
「そうでしょう? この店は料理も絶品なのですよ」
「それは楽しみです」
王国は、貧しいところだから食事もいいところを選ばないとひどい目に遭う。
元々この国は海上の灰大陸と呼ばれていて、この国を取り囲むように大陸が広がっているが、どこの国もまるでないかのように取り扱っていた。ひどいところでは世界地図から消して、海にしているところだってある。
ガルニエ自身、この国に上陸し、一年以上過ごしたが、この国はまるで世界から切り離されたかのように悲惨なところだった。今は早く調査を切り上げて、国を出たいとすら思っていた。だがガルニエは真面目な男で、フローリアという少女を見極めて、しっかり結論を出そうと考えていた。そのためには奇跡とやらもしっかり調べたいし、今の調査結果で判断を下すのは不可能だった。それでも、この国に嫌気が差して、適当な結論(もちろんフローリアを聖女として認めず、奇跡とやらは集団ヒステリーにしてしまおう)を出して、本国に引き上げてしまおうという不誠実な考えが頭を過ぎることもある。
「どうですか、ガルニエさん。海外からいらしたあなたから見て、この国は」
「敬称はいりません。どうぞ呼び捨てください。私は一介の司祭でしかありませんから」
そう、今のガルニエは審問官ではない。審問官ということを明かさない方がいい。旅の司祭ということにしておけば、面倒ごとは避けられる。
「分かりました。ところで今、お酒を飲まれましたが、大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよ、少しぐらい。神も見逃してくれるでしょう。それに、他の者は怪しげな薬に手を出していたりするのです。そしてそれを知っていて誰も止めないのですよ? 私の飲酒をいちいち咎めるのもおかしな話でしょう」
「全くですね」
「それで、そうでしたね。この国のことでした。率直なことを申し上げれば、この国はまさに聞いていた通りのところでした」
「聞いていた、とは? 大陸での話ですよね?」
「もちろんです」
「どのようなものがありますか」
「お聞きになりますか? この国の方にとってはあまり良いように聞こえないでしょうけれど……」
「構いません。どうぞお話ください。私は海の向こうの人がどんなことを考えているのか、とても気になっているのです。ほら、この国はあまりにも貧しいでしょう。国外の人と会うことは滅多にありませんし、その人たちがどのようなことを考え、どんな生活をしているのか、知りたいのです」
「いっそこの国を出られたらどうですか。その目で見るのが一番でしょう」
「それは少々難しい話ですね。実はとても恩のある方がいらしまして……。その方のことを思うと国を出るとはとても考えられないのです」
「なるほど。それではしかたありませんね。いいでしょう。私の知る限りのことをお伝えいたしましょう」
「ありがとうございます」
丁度そのとき料理が運ばれてきて、二人の前に綺麗に切りそろえられた野菜が並ぶ前菜が置かれた。
食材の扱い方といい、素材の新鮮さといい、なるほど、この店はよほど良い料理人が腕をふるっているようだ。
「私は総本山に所属する者として、この海の向こうの大陸の国々を渡り歩いておりました。この国に来たのも、仕事だからですね。そのうちまた外の大陸に戻ります。外の大陸ではいろいろなところに行きましたよ。北は陸の果てから、南は落船の湖まで」
「へぇー、落船の湖ですか! さぞ大きいことでしょう?」
「はい、まるで海のような広大な湖でした。昔の人々はとんでもなく、それこそ月のような船で渡ってきたと伝えられていますが、どうやらそれは本当のことのようです。聖典に描かれている舞台に立てて感動で震えました」
「そうでしょうね」
「大陸を南下しているときです、獣人の居住区に入りましてね」
シルベスターはガルニエの語る異国の話にすっかり夢中となっている様子だ。ガルニエも、自分の話を熱心に聞いてくれることが嬉しくて、ついつい酒が進む。
そして、酒が回ったからだろうか、ついこんなことを言い始めた。
「そういえばはじめの頃、あなたはこの国がどうだ、と聞きましたね」
「そういえば、そんなことも尋ねましたね」
ガルニエの語る異国の話に夢中となり、シルベスター自身、記憶が曖昧となっていた。魅力的な異国の話と貧相な自国の話では、比べ物にならないだろう。
「あくまで私の感想なのですが、この国は……いや、この大陸はまるで死んでいるようですね。灰の大陸というのは、あながち嘘ではなさそうです。ここはまるで墓場のようですよ」
「灰に、墓場……ですか」
シルベスターの美しい青の瞳がサッと覚めていくのが分かった。
そんな彼の様子を見て、失敗したとガルニエは直感した。もう少し言葉を選ぶべきだった。失敗を犯したことで、ガルニエも酔いが醒めてゆく。
「あっ、いいえ。何でもありません」
シルベスターが取り繕うように笑った。
「灰だ墓だと言っていると、まるで呪(まじな)いをする魔女のようだと思いまして!」
「ハハッ、魔女ですか」
シルベスターに合わせて無理に笑ったが、酔いは完全に醒めた。失敗したことだけではない。ある話を思い出したからだ。
あるとき、たまたまある村の悲惨な話を耳にした。今から七、八年前のこと、王都からそう離れていないところにある村に、魔女がいるとして周りの村の人々がたった三人の司祭にそそのかされて、焼き尽くされてしまったということだ。
長い困窮により、人々の心は追い詰められていたのだろう。顔見知りの女性が、世界を呪い、食糧難を引き起こすような人ではないと分かっていても、ちょっとした可能性があっただけで、そう思い込んでしまったのだ。人々が信じ込んでしまったのにはもう一つ理由があるようだ。話を詳しく聞いてみると、魔女とされた女性の目は変わった色をしていたという。
ガルニエにはその変わった色の目に引っかかった。
以前に東方人の血を引く娘を保護したことがある。彼女は東方人だけが持つ魔法を自在にし、その目の色は東方人のそれと同じものであったという。
まさか東方の地から遠くはなれたこんなところで、その目を持つ人がいるとは思いもしなかった。
つまり、あの村に魔女がいたのは事実だが、世界を呪っていたのは大嘘である。いくら魔法でも世界を呪うなんてことはできるわけがないのだ。
いや、そういいきれるのはガルニエが魔法を知っているからだ。知らない人が見れば魔法は恐ろしい未知の現象そのもので、世界を呪っていると言われたら信じてしまうだろう。事実、村人たちは信じてしまった。
さらにガルニエはもう一つのことを聞いていた。
その魔女には娘がいて、その娘はどうやら助かったらしいということだ。
シルベスターの魔女という言葉を聞いてから、まるで天啓のようにあらゆることが頭の中で繋がった。閃きにも似たそれは実に爽快で、導き出された答えは驚くほど説得力のある結論だった。
二人の男は早々に話を切り上げ、別れを惜しみ、店の前でそれぞれ別の方向に向かうことになった。
「シルベスター、美味しいお酒とご馳走をどうもありがとう」
「いいえ、こちらこそとても有意義な時間を過ごせました。またぜひこうした時間を持ちたいものです。では失礼」
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