第8話
季節は巡り、乾いた冬が去り、長い春が終わり、もうすぐ実りの秋になろうかというとき、司教の下に一人の客人が現れた。
その客人を、司教はようやく来たかとうんざりした気持ちを抱きつつ、決して表に出さず、笑顔で迎えた。
「ようこそ、審問官様」
海の向こうの大陸の、北東の端にある総本山に奇跡の少女フローリアのことを報告したのはもう一年も前のこと。
審問官が来るまでに、新たに雇ったシルベスターの実力、発案力を確かめるために二度の奇跡を起こした。すでにフローリアは司教の手の内にいて、突然現れるということはなく、神の言葉を聞いたとして聖堂騎士を伴って現場を訪れ、奇跡を起こした。これまでと違って奇跡を事前に予告できるので、現場には奇跡を一目見ようとする見物人が押し寄せ、人員整理のための騎士を追加派遣しなければならないほどだった。
そしてどちらの奇跡も大成功を収め、人々は聖女フローリアにますます酔いしれた。
人々は聖女を救いと信じて疑わず、地盤は磐石だといえた。
「大変待たせたようで、申し訳ありませんね」
審問官は無愛想にそう吐き捨てた。
「いえいえ、気にしておりません。聖女認定のために、私どもは審問官様に全身全霊で尽くさせていただきます」
「あなたがたが協力するのは当たり前のことですよ。立場は私のほうが上なんですからね」
司教の笑顔が固まった。
「ところでお一人ですか? もう一人のお方はどうされましたか」
司教は一度総本山に留学していたことがあり、審問官が聖王の管轄の役職だと知っていた。そして、審問官は常に二人一組で行動するものだとも知っていた。
しかし目の前には背中に聖なる刻印を背負った者が一人だけ。
この審問官の態度からして、貧国の、下らない与太話に付き合わされたので、司教に会うのは一人で十分だと言い捨てられてもおかしくない。
が、答えは意外だった。
「おりません。私は常に一人で行動しておりますから。ああ、安心してください。私一人でも認定調査には問題はありませんから」
「わかりました。それでは審問官様の滞在先についてですが……」
「結構です。あなたのように生家と縁の切れぬ方が用意されたところでは、寝首を掛かれそうですからね」
審問官は鼻を鳴らす。
「まずはそのフローリアとかいう娘と会わせてください」
「生憎のことなのですが、聖女様は」
「まだ認定していないので聖女ではありませんよ」
司教の言葉を審問官は鋭く切った。
「失礼しました。フローリア様は神のお言葉を聞くのに集中したいから、あちらが望まない限り、面会も手紙も受け付けていないのです。私もほとんど会えない状況でして……」
「修道院にいるのでしょう? 場所を教えてください」
「申し訳ございません。フローリア様の祈りを妨げたくないので、お教えできません」
「会わずにどうやって調査をしろと?」
「フローリア様が神のお言葉を聞き、奇跡を起こされるとき、私と聖堂騎士団が協力しておりますから、必ず声をおかけになります。そのとき審問官様にもお伝えいたします。いかがでしょうか?」
「私は直接問答を行いたいのですが、その奇跡とやらを起こすときにやらせてもらえるということですか?」
「それは答えかねます。フローリア様は奇跡を起こされると、たいてい意識を失い、目覚めるまでに二、三日かかりますから」
「ふん、面倒な人ですね。調査に時間がかかりそうです。ですが、一応あなたの方から審問官が問答を行いたいという希望を伝えていただけますか?」
「はい、必ずお伝えいたします」
「そうですね、あとは今までその娘が起こしたという奇跡についてすべて詳しく教えてください」
「それはすべてまとめてあります。審問官様に時間を取らせるのは申し訳ありませんから」
司教は用意していた分厚い紙の束を審問官に示す。これまでのフローリア計画の経過でもあった。
「ではそれはお借りいたしましょう。滞在先が決まりましたら後ほどお伝えいたします」
審問官は司教から分厚い紙の束を軽々と受け取ると、さっさと大聖堂を後にした。
審問官が見えなくなって、司教は表情を思いっきり渋らせる。審問官が来るだろうと予想していたが、よりによってあの男だとは。審問官は名乗りもしなかったが、司教は彼のことをよく知っていた。
司教はもっと若い頃三年間だけ総本山に留学していた。そのときに、実に様々な噂を耳にして、その中の一つにガルニエという敏腕であるが、人嫌いの審問官のものもあった。彼は若くして、その優れた才能を認められて審問官になったが、人嫌いゆえに誰と組んでも必ず破綻するというとんでもない人物。仕事はできたが、その性格故にかなり疎まれていたという。時の聖王が悩みに悩んで、結局彼は一人で仕事をすることになったという。
最も来て欲しくない人物が送られてきてしまった。なぜ彼がここに送られてきたのだろうと考えれば、真っ先にここが総本山から離れていて、海の向こうにあるということだ。海によって切り離されたこの地にガルニエを一時的に追いやったのだろう。
総本山のクソどもめ。
司教はとめどなくわき上がる怒りを鎮めるために何度も深呼吸を繰り返した。
ともかく、来てしまったものは仕方ない。彼にフローリアを本物だと認めさせればいいのだ。あのガルニエが、これまで一度も聖人も聖女も認めていない彼が認めれば、フローリアの影響力は大きくなる。総本山の気もひきつけられる。
ただ、ガルニエの目は鋭い。これまでとは段違いの慎重さが要求される。
全く、楽園の主は罪深い人間に試練ばかりを与えるものだ。だが、同時に乗り越えられない試練は決して与えないのだ。
○
「そういえばこれまで奇跡は王都を中心に起こしていましたよね?」
シルベスターがこれまでの奇跡をまとめた資料に目を通しながら、ヘラに言った。司教が審問官ガルニエに渡した資料と同じものだった。もともとこの資料はシルベスターが求めて、司教が作らせたもの。ガルニエに渡したのは、ある意味ついでだった。
「ええ、私も学校とか仕事とかありますし、準備する騎士たちもやりやすいですから」
「でも王都ばかりで奇跡が起きていたら逆に怪しいですよね」
「そうでしょうか?」
「もう少しばらつきがあったほうがいいかと。それに、もう少し範囲を広げるといろいろなことが試せますね」
シルベスターの狙いは後者だろう。シルベスターは奇跡を魔法の実験というように捕らえており、以前と同じように人々に救いを与えることは変わりなかったが、探求心が滲みつつあった。この変化が計画に影響がなければいいのだけれど。
また、シルベスターは根っからの学者だった。魔法という異国の秘術にすっかり魅了され、知的好奇心が突き進むまま、魔法を調べていた。彼は観察眼に優れ、分析力も持ち合わせており、それまで魔法を使っていたヘラでも気付かなかったことに気付いた。
そして、彼のおかげでヘラの魔法はメキメキと上達し、今までより魔法の種類が増えた。新たな魔法が使えるようになった、というより、使える魔法の別の使い方が分かったというものがほとんどだった。
ヘラはシルベスターの屋敷の裏庭で、摘んだ花を手折り、編む。そうして数本の花で蝶の形を作り上げた。そしていつかアシュリーと会ったときにしたように、その花の蝶を舞わせる。ヘラは蝶が好きだった。だからハンカチを蝶にしようと思ったのだ。
「その蝶はいいですね」
振り返ると、シルベスターはいつの間にかお茶をすすっていた。
世話焼きのあの三人の女性のおかげか、シルベスターの身なりはずいぶん良くなった。今では一見すると良家の子息のように見える。実際はどうなのか分からないけれど、初めて会ったときとは大違いである。
そして、この屋敷のあの三人の女性はヘラが魔女であると知っても顔色を変えなかった。おそらく司教の計画を察してはいるだろうけれど、何も言わなかった。お互いに司教に仕える間柄だったので、暗黙の了解のようなものがある。
ヘラは手を差し出して、花の蝶を止まらせた。
「これですか?」
花の蝶はゆっくりと花弁でできた翅を動かした。茎でできた体は細く、呼吸をしているように膨らんだり閉じたりする。花の蝶はハンカチの蝶より本物に近く、目を惹く華麗さがあった。
「ええ、実にいい。それがフローリアの周りに舞っていたら、素敵だと思いませんか?」
「それなら水でできていた方が綺麗じゃないですか? 透き通っていて、神秘的でしょう?」
「それも面白いですね」
シルベスターは何かを思いついたのか、手を打った。
「そうだ、その蝶を先導者にするのはどうでしょう。聖女が蝶を追う、人々が聖女を追う。面白いじゃないですか」
「でも今までフローリアは神の言葉を聞いて、奇跡を起こしてきたのですよ? 急に蝶を出したら不自然ではないですか」
シルベスターは考えて、それらしい答を出す。
「救いが迫っている、というのはどうですか。だから神も使者を遣わした」
「うーん、神の使者ならやっぱり天使ですよ。そのほうが分かりやすいです」
「天使……。鳥の羽根でやってみますか?」
「できないことはないですけど、蝶の形にするのが難しいですよ」
「何か形を成していなくてもいいのでは? フローリアの前を導くように舞っていたら、一度も地面に落ちなかったら、不思議で面白いでしょう?」
「それならできますけど……」
シルベスターの屋敷で過ごす休日、というのはたいていこうやって過ぎていく。次の奇跡のことだったり、魔法のことだったりを話し合って、大半は忘れたり司教に却下されたりするのだ。
魔法のことを隠さず話せる相手、というのも悪くなかった。ただ、その相手は魔法にのめりこみ過ぎているのが気になるけど。
「シルベスター様、手紙ですよ」
屋敷の女性から手紙を受け取ると、シルベスターはその場で開けた。ヘラは慌てて目を逸らすが、シルベスターは朗らかに笑い、「見ても構いませんよ」と中身を見せた。
しかし、中身はヘラの読める字ではなかった。字が下手とかそういうわけではなく、普段使っている言語ではなかった。ヘラは仕事上、他国の文字を目にする機会に恵まれているが、それでもそこに書かれた文字は知っているものと違った。
「どこの文字なんですか?」
「どこの文字ってわけじゃないです。暗号文ですよ」
「そうなんですか?」
「ええ、内容が内容なのでこういう形を取ったんです。ほら、これなら読めないでしょう?」
ヘラはもう一度手紙を見遣るが、確かに全く分からない。
「これ、読めるんですよね?」
「ええ、簡単です」
シルベスターは手紙に目を通した。そして、言った通りに簡単に読んでしまった
「どうやら審問官がいらしたようですね」
「ついに来たんですね」
司教がフローリアのことを報告して大分経つはずだ。総本山まで遠いとは思うが、一年もかかるとはさすがに驚いた。
「でも、どうやらその審問官は厄介な人のようでして、念のためにヘラさんはその人に接触しないようにと書いてあります」
「分かりました」
とは言っても、その審問官がどんな人か分からなければ対策のしようがない。でも休日はシルベスターの屋敷に居たり、家の近くで買い物したりするぐらいだし、平日は仕事で会社にいたり、各官公庁を回っていたりするので、審問官に会うことなんてまずないだろう。
「そういえばヘラさんは今日ここに泊まっていきますか?」
ヘラがこの屋敷を訪れると、シルベスターに必ずそう尋ねられた。やらしい意味は全くなくて、明日も魔法の研究に付き合ってくれるかどうかを確認しているのだ。ヘラは働いているので、協力してもらえるのが休日だけ。なので、その貴重な時間がどれだけ取れるかが重要だったのだ。
ヘラにとっても毎回のことだったので、断るのは何だか申し訳なく、できるだけ休日をこっちで過ごせるように調整していた。何より、休日をこっちで過ごすのはヘラにとっても都合のいい事がある。
マイルズの会社に勤め始めてから、ヘラは部屋を借りて一人暮らしをはじめたのだが、家事が面倒だったのだ。屋敷に来れば管理人兼使用人の三人の女性がやってくれるし、食事まで出して貰える。しかもその食事にかかる費用も手間もすべて司教にふっかかるとなれば、喜んで屋敷にお世話になろうという気になった。
何より、司教の新しい指示、審問官に接触するなという言葉を守るなら、屋敷にいるのが安全だ。
ヘラは新しい理由も見つけて、シルベスターに明後日自宅に戻るつもりだと答えた。
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