綺譚集

古池 鏡

長い土手の先には

 長い土手を歩いていた。あたりは薄暗く、ぼんやりと私の周りだけ浮くように、光があった。

 どこかで悲鳴のような警笛が聞こえてきた。空はどんよりと曇っていて、分厚い雲が広い空に蓋をしたように被さっている。その雲が空に蓋をしているせいか、音はいつまで消えないように思われた。


 強い風が吹いた。

 私は外套の襟を立てて、首を縮めた。

 秋の天気とは思えないほど、どんよりと嫌な天気であった。

「貴方はどこへ行きますの」

 肩を叩かれて振り向くと女がいた。

 長い髪で、赤い浴衣を着たその女の唇は、真っ赤に染まっていた。白い肌にある赤い唇が、闇の中に浮いているよう思われる。女は傘をさしてたり、畳んだりしながらついてくる。

「わからない」

 事実、私はどこを歩いているのか、どこを目指しているか、検討もつかなかった。

「わからないのに、歩いているの」

 女は重ねて聞いた。

 私はふと考えた。どうして歩いているのだろうか。しかしいくら考えても答えは出てこないような気がした。

 土手の横に川が流れていた。私はそれに初めて気がついた。さらさらと流れる川は、きらきらと輝いているように思われた。

 明かりがないのにどうして輝くのだろうかと考えると、

「鯉よ」と女が云った。

「コイ」と私は聞き返した。

「そうよ、鯉、ほら見て。あれは真鯉。あれは緋鯉。それでね、あの黒いのは緋鯉、黒い緋鯉もいるの」

「それはおかしいよ、それじゃ、黒い鯉は緋鯉か真鯉かわからんじゃないか」

「ええ」

 女はころころと笑った。


 私は馬鹿馬鹿しくなって歩き出した。

 あたりはいっそう暗くなったように感じる。その分、川が輝き、女の唇がはっきりしていくように感じた。

 秋の暮れなのに、気温が徐々に上がっていくように感じられた。そうしてそれは歩くごとに強くなった。

 しばらく歩くと、あたりは夏のように暑くなった。

 女はしかし涼しそうについてきた。ときおり私の周りを跳ねるように、くるくると回った。赤いスカートの裾が金魚の尾のようにひらひらと舞った。

 暑さが尋常じゃないほどになった。喉が焼けるように熱い。私は水をもとめて、土手を転がり下りた。

 水は本当に鯉のせいで輝いているようであった。ぬめりぬめりと鱗を輝かせて、ぷかぷかと浮かんでいた。気味が悪くなって、私は水から離れようとしたが、喉の渇きがそれを押しとどめた。

 一口だけ飲もうと決心して、手を水に入れた瞬間、痛みが走った。そうしてしばらくして、それが熱さからくるものだとわかった。


「このくらいの温度がちょうどいいの」

 と女が云った。

 私は気味が悪いので答えない。

「ほらご覧」

 女はそう云って、傘を川に突き立てた。

 傘をあげるとそこに鯉が刺さっている。

 鯉は水の熱さに堪り兼ねて踊るように、跳ねている。

「これは緋鯉よ、黒いけれど……、けれどもだめ。緋鯉はまずいの」

 女は鯉を川に投げた。鯉はべちょりと音を立てて川にぶつかって、ぬめりと消えた。

 女は再び川に傘を突き立てて、鯉を取った。それは大きく、傘の先で、びちびちと動いた。

「ほら、こんなに元気のいいのが真鯉よ」

 そう云って女は真鯉に噛り付いた。真鯉はびくっと動いて、浅黒い血が落ちた。女の唇はぬめぬめした鱗と血で、よりいっそう闇の中に際立った。

 女は再び鯉に口をつけて、鯉の体液を吸うようにしゃぶった。

「鯉の血ほど美味しいものはないわ」

 私は汗をかきながらそれを見た。あまりの暑さに、倒れそうになっていた。

「そんなにうまいのか?」

 喉がかぴかぴに渇き、血が出ているように思われた。

「ええ」

 そう云った女の唇は鯉の血で、禍々しいほど赤い。私にはそれがとても美味そうに感じた。

「少しくれないか」

「いやよ、そもそも貴方に食べる資格はないわ」

「鯉を食べるのに資格なんていらないだろう」

「貴方は常識知らずね」

 女はころころと笑った。

 ぶくぶくと音がした。

 辺りを見渡すと、横の川が沸騰しているらしい。

 鯉が腹を向けて浮かんできた。何匹も何匹もいるので、川はより光り始めた。女の顔がはっきりと見えた。

 私は女をどこかで見たことがあるような気がする。

「あら、いけない」

 女はそう云って傘をさして、顔を隠した。

 どこかで会っただろうかと聞こうとしたが、もう声が出ない。私は女の唇から垂れる鯉の血を飲もうと、唇に噛り付いた。

「あらっ」

 女が声を上げたが、構わない。女の唇を、その全てを吸い取ろうとした。女は私の頭を肩を、胸を叩いた。

 鯉の血は比類ないうまさであった。私はどんどんそれを欲した。女の唇からそれが、いくらでも吸える気がした。

 女の叩く力が弱くなった。唇を吸い込みながら顔を見ると、真っ白に血の気が失せている。しかし唇だけは真っ赤で、私はその顔を美しく思った。

 ぐったりとした女から唇を離すと、女は砕けるように倒れた。そうしてぴくりとも動かない。落とした傘は川に落ちて、流れていった。

 いつの間にか川はもうぶくぶくと沸騰していない。そもそもあたりはしんと涼しく、さっぱりした秋の天気そのものであった。

 歩いていた土手は、家の裏手の通りで、いつもと同じ景色が広がっていた。ただ違うのは、私の前に真っ白な顔をした女が倒れている。それは知らない女であった。

 風が吹いた。

 私は外套の襟を立てて、首を縮めた。

 この通りの先には墓がある。

 私は女を担いで、歩き出した。

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