第12話 僕は、いきたい

 その女は僕の耳元に顔を近づけ、頬を擦り付け、耳に柔らかい唇を当てながら囁く。

「誰? わたしのプリンを勝手に食べたのは……」

 女は僕の耳の穴に舌を滑り込ませ、身体をくねくねと背中にこすり付け、両手を使って身体中をまさぐった。


「ぼ、僕はプリンじゃありません。僕は国平成明、19歳の学生です……」

「それで?」

「僕には、彼女がいません」

「だから?」

 女はさらに激しく僕の身体を弄んだ。彼女の息遣いが激しくなっていく。

「だから、僕は、まだ……」

「まだ、なに? どうしたの」

「童貞のまま、死にたくありません」


 女は一瞬ビクっと反応し、そして動きを止めた。


 街の景色はいよいよ雪が本格的に積り、無機質な美しさが僕の心に刺さる。


 嗚呼、世界は美しい


 この美しい景色を観ながら、童貞のまま死んでいくんだ。


 女の身体が小刻みに揺れる。

 怒っているのだろうか。

 だとしたら、僕は八つ裂きにされるのだろう

 確か吸血鬼の腕力は、屈強な軍人が斧を振り下ろした手を取り、握りつぶすくらいあると書いてあった。


 次の瞬間、僕は女が発した大声で気を失いかけたが、それが笑い声だと気づいたとき、もっと気を失いそうになった。

「面白いことを言うやつだ。随分昔にも、同じことを言って命乞いをした奴がいたが、昭和、平成と時代は移り変われども、男は変わらぬということなのか」


 僕は腰から雪の積もり始めた地面に崩れ落ちた。一日に何回、尻もちをつけばいいのか。お尻が嫌な感じで湿っている。


「振り向いちゃだめよ、童貞坊や。わたしの姿を見たとき、坊やの命は……」

 女が僕の耳にふっと息を勢いよく吹きかける。

「ろうそくの炎のように吹き飛ぶわ。まぁ、もっとも、すでに命がある存在かどうかと言えば、それはそれで微妙なところなのだけれども」


 風が吹き、女の髪の毛の一部が僕の頬をかすめる。

 いい香りがする。

 そしてその髪の毛の色は金色だ。

 間違いない。

 僕の背後にいるのはカーミラだ。


 なんてことはない。

 僕はダリオに騙されたのだ……いや、果たしてそうなのか。

 ダリオはこうなることを予測していたのは確かだろう。

 僕をこんな目に合わせるために嘘をついたのか。

 或いは僕がカーミラの餌になることを事前に防いだというのだろうか。


 僕はすっかり混乱し、怯えることも忘れていた。


「どうやら先客がもう一人……いや、もう一匹と言うべきかしら。わたしと同じ化け物が、ここにいたようだけど、坊やはここで、誰に何をされたのかしら。そして何を知っているのかしら」

 声を押し殺した低い声と息を抜くような高い声の囁きは、僕に抗いようにない快感を与える。


「事と返答によっては、もっと可愛がってあげてもいいし、すべてを終えてもいいし……」

 僕の望みはただ一つ。

 何事もなかったように自分の部屋に戻り、この感触が残っているうちに自ら果てることだ。

 生も死もかんけいない。

 依頼も命乞いも関係ない。

 この悶々とした欲動を解放したいだけだった。


「僕はいきたい……」

 思わずそう口走り、そして思い出す。僕がダリオに言った言葉――"死にたくない"


「正解だ。小僧」

 ダリオの声だ。

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