3章 その5

 十五年前、この喫茶店で僕とリュシールは出会った。僕は当時薬について学ぶためにこの街の大学に来たばかりで、まだ右も左もわからない田舎者だった。君も知っての通り、僕の生まれは君と同じセプテ村だ。セプテ村からこの街へ来て、大学を出てからしばらくここで働いて、その後村へ帰ったんだ。まあ、その話は本筋からそれるから詳しいことはちょっと省くよ。とにかく、僕がまだこの街に馴染んでいないときだった。まだ電気とか機械もそれほど多くないし、ここまで沢山の人混みもなくて今ほど栄えちゃいなかったけど、それでも田舎からやってきた僕にとっては十分過ぎるほど都会だった。


 大学の講義が終わった後、この喫茶店で勉強するのが僕の日課のようなものだった。この店もまだ開店したばかりの頃で、建物も今より少し狭かったと思う。さっきは一方的に僕をからかってきたマスターだけど、彼の慣れない接客もちょっと面白かったと僕は思うね。ああ、リュミエールにも見せてやりたかったな。

 そして、僕と同じように客としていつもこの店を利用していたのが君の母親、リュシールさ。彼女はこの街に住む漁師の娘で、よくここに来ていた。最初はお互いに偶然この店に訪れた客の一人としてしか思っていなかったけど、何度も店を訪れるうちに常連だとわかり、顔も覚えていった。彼女はいつも決まった時間にコーヒーを飲みに来るだけだったけど、なんとなく気になっていたんだ。コーヒーを飲んでいるときのあの落ち着いた感じ、というのかな……とにかく、それが僕を引き付けたのかもしれない。彼女と一度話をしてみたいと思った。とはいえ、あのときの僕はどっちかというと人見知りの性質だし、なかなか話しかけられずに半年くらい彼女を横目で見るだけの毎日だった。


 まあ、そんなふうに思い煩っていたんだけど、ある日の散歩中、街はずれの公園で彼女を見かけたんだ。店の外で見るのはそのときが初めてだ。彼女はこれまで僕が抱いていた落ち着いたイメージと裏腹に、意外にも子供たちと一緒にはしゃぎまわっていた。子供たちがきゃーきゃーと叫びながら走り回り、彼女はまてまてー、と言いながら彼らを追いかけていた。その様子はいつもと違うものだったけど、僕はそのギャップは逆に興味を一層引き立てた。僕は次に会うときこそ彼女に話しかけようと決心した。

 そして、次喫茶店で彼女を見かけたとき、声かけ作戦を実行しようとしたんだ。僕は席を立って、コーヒーを飲んでいる彼女にはじめて歩み寄ったんだ。脂汗がたらたらと流れて、心臓がバクバク鳴って気持ち悪かったのをよく覚えているよ。でも、そのときちょっとした事故が起こってね。彼女に話しかけた直後、あまりの緊張に僕の足が彼女の近くの椅子に引っかかってね。それで僕は派手に転倒。あれほど見事に転ぶ人はそうそういないだろう。逆に僕自身を褒めてやりたいくらいの転びようだった。まあ、そのせいで彼女の座っている席に倒れこんで、カップの乗った机を倒してしまって。当然コーヒーもひっくり返り、彼女はとっさに立ち上がってそれを避けようとしたけど、避けきれずに少し手にコーヒーがかかってしまった。結構熱々のコーヒーだったから、彼女は火傷して痛かっただろうね……あのときは流石に申し訳なく思った。僕は真っ青になった。彼女に怪我を負わせてしまって、始まる前からもう終わりだと思った。一瞬茫然としてしまったが、マスターが慌てて彼女の元に飛んできた。それを見て僕はハッと我に返り、大丈夫ですか声をかけながらコーヒーがかかった彼女の手を拭き、マスターの協力もあって氷水を迅速に用意して、患部を冷やした。その甲斐あってか火傷をしてしまったものの軽くて、とくに痕が残るということはなかった。この点については、僕はマスターには感謝してるよ。あのとき言ったから今更言わないけどね。

 でも、そのせいで彼女の僕に対する第一印象は最悪だった。「いきなり何てことしてくれるのよ!」と、彼女の第一声はそれだったよ。まあ、そりゃ当然の結果だ。誰だって怪我させてきた男に良い印象を持たないだろう。彼女は僕をキッと睨んだよ。それはいつものカフェでの落ち着いた表情とも、公園で子供たちと追いかけっこをしていたときの表情とも全く違っていた。僕はとんでもないことをしてしまった。まともに会話する前に嫌われてしまった。火傷の応急処置が終わった後に必死で謝ったのだけど、まあ許してはくれなかった。彼女は怒って店を出て行ってしまったし、僕はがっくりと肩を落として家に帰って一日中布団にくるまっていたよ。


 彼女はもうこの店に来ないかもと思っていたけど、意外にもその後も店に通い続けた。ただ、できるだけ僕と顔を合わせないようにはしていたけどね。僕は事故があった翌日に彼女を見かけたとき、許してください、って言いたくて近づこうとした。でもやっぱり彼女は当然僕と話してはくれなかった。何度も謝ろうとしたんだけど、近づくと僕を避けるようにスタスタとどこか遠くへ行ってしまう。でも僕は諦めずに何度も話しかけようとした。このまま終わるのも悔しいから。まあ、今思えばストーカーみたいだけど、ここで諦めてたら彼女と仲良くなることもなかったし、君も生まれなかっただろうね。

 一週間くらい続けたら、ついに彼女は反応してくれた。


「あなた、何なんですか。この間からずっとあたしの周りをウロチョロして何がしたいの?」


 完全に拒絶的な反応だった。僕はお詫びにと用意していたお茶用の乾燥したカモミールを持参して渡そうと思っていた。でも、その様子を見ていたら、渡す勇気が萎んでいってしまったよ……自分でもわかるくらいに。僕はそこで一旦諦めてしまった。そのときは「ごめんなさい」と小声で言って逃げてしまった。

 僕は自分自身が情けなくなって、彼女がいないときにマスターに愚痴っていた。どうすれば彼女に謝ることができるだろうか、そんなことできるわけがない、と。マスターはあの事故の一部始終を見ていたから、同情してもらえると思った。でも、マスターは逆に突き放してきた。


「馬鹿野郎、そんなんで女を射止めることができると思っているのか!」


 そう、マスターは昔から熱血漢だったな。彼女と付き合いたいなんてことまで言ってなかったのだけど、心の中ではそんな下心があることを僕は否定できなかったし、マスターに心の中を見透かされたような気分になった。僕はグウの音も出ずに黙りこくってしまった。そこでマスターはさらに追撃してきた。


「ほら、そういうところがダメなんだよ。言われたら言い返さなきゃ。黙ってても何も解決しやしないぜ。そりゃあんなことがあったんだ。嫌われるのは当然さ。でもな、俺はいつもお前ら二人の様子を見守ってるから知ってるけど、「あたしに近づかないで!」とまでは言われてねえだろ? 彼女がこの店に通うのも止めてねえ。俺だったら、そんなやつが毎日通ってる喫茶店なんざ通わねえからな。だからまだ希望はある、捨てちゃいけねえ。諦めるな。そういうグズグズしたところが嫌なんじゃねえかな? そら、わかったらちゃんと話してこい。今すぐにだ」


「今すぐ? 彼女はここにはいない。どこにいるかわからないよ」


「心当たりはあるだろう? 彼女は結構規則正しく行動するタイプだ。何度か話したが、自分でそう言ってたぜ。もし違ったらまた戻ってくればいいだけだ。とにかく、早く行動しろ。迷ってちゃダメだ。いいな!」


「わ、わかった。マスターありがとう」


 僕はマスターに激励されて、彼女を探しに出かけた。本当に心当たりがあるか、と言われれば怪しいものだった。まずこれまでまともに彼女と話をしたことがない。心当たりと言えるほど確かなものはなかったから。でも、わずかに思い当たる手がかりを頼りに、彼女を探した。


 僕は以前彼女を見かけた公園まで来た。心当たりと言われて思い浮かんだ場所はここしかない。だから真っ先にここに来た。果たして、その思惑通り彼女はその公園の噴水の前に一人佇んでいた。

 僕は彼女に少し速足になって近づいた。彼女は僕に気付いて、手の包帯を撫でながらこちらを向いた。あ、ちなみに、この手を手当てしたのが、オランドさんだ。彼と知り合ったのもリュシールが縁なんだよ。

 それはともかく、彼女は僕を無視することはなかったけど、不機嫌そうに言った。


「何か用かしら」


 相変わらず拒絶的ではあったけど、マスターの言うことを信じるなら、まだ完全に関係を切るほど嫌われてはいないと思った。


「僕は……」


 僕は言いかけて一瞬ためらった。流石に怖かった。かろうじてつながっている糸が切れるんじゃないかってちょっとだけ思ったんだ。でも、それくらいで切れる糸なら所詮それまでのものだ。いっそ思い切ってハサミを入れてみよう、と勇気をだして声を出した。


「あなたとずっとお話がしたいと思っていました。だから、こんなものしかないですが、受け取ってください!」


 僕はカモミールの入った袋を渡した。僕は言った傍から一体何を言っているのだと思った。まずは謝罪すべきではないか、と。でも、咄嗟に口から出たのは僕が常に思っていることだった。


「それで許してもらおうっていうの? 女の子に火傷をさせといて?」


 彼女はそう言いつつ、ひったくるようにそれを受け取った。反応は良くなさそうだが、僕は受け取ってもらえただけでも飛び上がるほど嬉しかった。その後、続けて僕は言った。


「僕はあなたのことがずっと気になっていました。その……この間のことは本当にごめんなさい。火傷させるつもりはなかったのです。ただあなたに近づきたくて……。もし嫌なら、僕はこれっきりにして諦めます。でも、もし嫌でないのならば、もっとお話ししたいです。だから、お付き合いいただけませんか」


 彼女は渡した袋と僕とを交互に眺めた後、突然プッと噴出した。


「アハハ、アハハハハハ! あなた面白いわね! 喫茶店でよく見かける人だとは思ってたけど、こんな人だったなんて。いいわ、火傷のことは許す。そんな重い火傷じゃなかったしね。この袋に入ってるのは、何?」


 彼女は僕に訊ねた。そういえば、何を渡したか言ってなかった、ということを思い出した。


「カモミールです……煎じてお茶にして飲んでください。効用は……」


「ああ、そうなの! へえー、いいね。ありがとう。他にもあるの?」


「あ、今はこれしかないです……」


「ということは、家にはあるとか?」


「あっ、はい」


「じゃ、今度そういうのも見せてほしいな。あたし紅茶とかそういうのも好きなのよ。ね、いいでしょ?」


「はい……はい! もちろんです」


 僕は喜んだ。つまり、またハーブを見せてほしいということは、また僕と会ってもいいってことだ。僕は心の中で小躍りしたよ。


「決まりだね! ところで、名前をまだ聞いてなかった。あたしはリュシールっていうの。あなたの名前は?」


「僕は、バジルといいます。あの……許してくれて、ありがとうございました」


「もうそれはいいの! 終わったことなんだから。それじゃ、あたしはこれから用事があるから、またね。喫茶店でまた会おうね!」


 それが僕とリュシールの出会いだったよ。考えてみれば、このときから僕は彼女のあっけらかんとしたところに救われていたんだね。まあ、そこから普通にお話できるようになるのはもうちょっと先だ。僕の方が意識してしまって、上手く話せなかったんだ……マスターがさっき言ってた話はそういうところを見られていたからだね……。でも、そのうち普通に話ができるくらい仲良くなった。お食事に誘ったり、喫茶店以外で会うことも増えた。楽しかったな、あの時間は。まあその後もいろいろあって、結婚することになった。そして、君が生まれることになったんだ。

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