1.入口

 そろりと、手を伸ばす。

 目指すは、黒革の本だ。銀でいかめしい文様もんようほどこされた、それ。

 装丁だけの値もそれなりだろうが、中身は、それどころではない。

 今となっては記憶の奥底、歴史の彼方にほうむられたはずの呪文や儀式の数々。代償が大きすぎるがゆえに封じられたそれらをしるす、一冊の本。

 禁呪ばかりを載せた、見る者が見れば目の色を変える書だ。


 慎重に伸ばされた手は、まだ発展途上のものだが、小さいとも言い切れなかった。

 その指先が、かすかに届く。


「ここの本を盗もうだなんて、ずいぶんと思い切った泥棒ですね」


 穏やかな声なのだが冷たく、あとわずかのところまで伸ばされた手は、そこで止まってしまった。


「とりあえず、名前と住処を訊きましょうか。ここではなんですから、あちらへ」


 有無うむを言わせぬ口調は、敗北を知らしめるには、十分すぎた。


「まったく、一度死んだら生き返るはずがない、という大前提をあっさりと無視してくれるやからが多すぎて、迷惑ですね」

「…だけどあんたは、死人をよみがえらせるじゃないか」


 アウグスト・メンデルは、唇をゆがめて笑った。


「やれやれ。私も、随分と有名になったものです」


 即座に役所へ突き出されず、実のところ、少年は、いぶかしみつつも怯えていた。

 アウグスト・メンデルは貴人で賢者との評があり、禁呪の使い手でもある。そうして、狂人とも名高い。どんな人体実験をされるのか、考えたくもない。

 しかし話は、予想外の方向へと転がって行くのだった。


「その言いようでは、誰か生き返らせたい人がいるようですね。まあ、ここに来るのは、九割方そんなところですが。誰です?」

「…兄ちゃん」

「お兄さんを。それは兄思いなことで。しかし残念ながら、子供の自己満足で扱えるような物は、ここには何一つありませんよ。大人しく帰ることですね」


 突き放した言いように、少年の頭に血が上った。

 兄にかえってきてほしい。それしか、少年に出来ることはないのだ。自分のために兄は死に、そのせいで、母は廃人のようになった。

 だから、必死に調べて、まなんで、最後はここしかないのだ。


「何がッ、あんたに、何がわかるんだよッ…!」


 激昂しすぎて、ろくに言葉が出ない。もっとひどい言葉をぶつけてやりたいのに、出てこない。

 睨み付けられているかさえも、視界が怒りに白く染まり、判然としない。


「ふむ」


 落ち着いた声は、わずかに意外そうに、息のような音を伝えた。


「わかりました。ここの閲覧許可を与えましょう。いくつかの約束を守るなら、好きなだけ調べて構いません。異存はありますか?」

「い――や。いいや、ない!」

「それなら、改めて名前をうかがいましょうか。ちなみに、私はアウグスト・メンデル。ここの管理人です」


 ごくりと、少年は、知らずにつばを飲み込んでいた。集められるだけの書物が集められているという、この場所の管理者が、少年に許可を与えるというのだ。

 少年は、平静ではいられなかったが、どうにか理性を保つことには成功した。


「俺は――ハイン」

「ありふれた名ですね。ではハイン、今から言うことを忘れずにいるように。ひとつでも破れば、即刻出て行ってもらいますよ」


 少年が、目的への鍵を手に入れた、と感じた瞬間だった。


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