漆黒のジュエル =エーデムリング物語・3/1=
わたなべ りえ
序章 封印
呪い
煌く刃が一瞬舞った。
男の手からナイフが落ちるよりも早く、男の頭は転げていた。
その表情は、自分が死んだなどと、まだ信じてはいない。王の剣さばきはあまりに見事で、その惨事に声をあげたものはいなかった。時間はすっかりとまっていた。
ただ、切り落とされた男の首だけがころころと、時間を刻む唯一の物であるかのように、沿道に並ぶ市民の方へと転がっていった。
コーネの街の白い石畳に、首は筆のように赤い血の帯を描き、わずかに突き出ていた石に当たって、直立して止まった。
凍りついた民衆の中に、さらに蒼白な顔をした女がいた。
リューマ族には珍しい漆黒の髪を無造作に束ね、深い闇夜の瞳を持ち、土色のみすぼらしい服装をしていた。どす黒い紐で胸元をクロスに縛り上げていたので、豊かな乳房が強調されていた。薄汚れた顔をしているが、若く色白な女だった。
首が足元まで転がると、女は急に我に返って悲鳴をあげた。その甲高い声が、まるで時間を呼び覚ましたように、あたりがざわざわと動き出した。
「あ、あんた……あんた?」
甲高い声を何度も上げたあと、女は這いつくばって首のもとへと寄って行った。たった今、命を落としたのは彼女の夫だったのだ。
女が愛しい夫の首を胸に掻き抱いた時、背中のほうから赤子の激しい泣き声が響いた。
「なるほどな。無謀な行いの原因はそれか」
血にまみれながら首を抱きしめる女の前に、一人の戦士が立ち、女を見下ろしていた。
褐色に燃える髪を結び、男の恰好をして王に付き添ってはいるが、戦士の声は女であり、上背こそあるものの線は細い。腕組をして女を見つめていた。
この女戦士こそ、残虐非道で名高く、鬼姫と言われているウーレン王妃であった。一見美貌の姫といえるが、右頬を縦断した恐ろしい刀傷は、ぎょっとするほど惨たらしく、誰もが顔を背けたくなる。
這いつくばった女は、奮えながらも恨めしげに鬼姫を見上げた。目をそらすことなく強く睨みつけていた。
ガラル国境近くコーネの街。
度重なる戦火にまみれ、人々がすさむ街である。
自由と平等を願い、決起したリューマの人々はことごとく死に追いやられ、もはやウーレンの支配に抵抗するものはほぼいない。
我らがウーレン王を法とせよ。さすれば平和が訪れよう。
数日前、大都市リューで大々的にウーレン支配の宣言が行われ、後に【血に塗られた五年】といわれる暗黒の戦乱時代に終止符がうたれたのだ。
ウーレン帰還の途についた王に、このコーネで刃を向ける者がいたとは……コーネ市民も信じられなかった。
王は無言のまま、剣を拭いた。
大勢の血を吸ったとは思えない美しい刀身は、一瞬輝きを放って鞘に収まった。
非道の王……。
この剣で、肉親までも手にかけて王位を奪った男である。燃えるウーレン・レッドの前髪をそっとかきあげると、焔のように燃える目が輝いている。鋭い視線は空を向いたまま、民衆を直視することはなかったが、内心は炎のように怒っていることだろう。
あの若夫婦はとんでもないことをしでかした。
小隊とはいえ、ウーレン王の軍隊である。たった一人で王を刺し殺そうなどと、どうしたらそのような愚かなことを考えつくのだろう? 王の前までたどり着けたことさえ、奇跡に等しい。どのようなお咎めが、コーネの街にあるのやら……。
荒れすさんだ街中に、一陣の風が吹き街路樹の葉が舞った。
夫を殺された女は黒髪を振りみだし、血まみれの手でウーレンの鬼姫に掴みかかった。が、軽く足蹴にされ、再び地べたにへたり込んだ。
「ク、クク……」
一瞬泣き出したのかと思いきや、女は突然笑い出した。
かわいそうに……。ついに気がふれたのか? さざなみのように人々が発する音を割って、女の声が街に響き渡った。
「あたいも、あたいの子も殺すがいいよ! あの人のところへやっとくれ!」
きつい瞳で睨む女に、鬼姫はさらに冷たい瞳を持って見つめ返す。
「お前の望みをかなえてあげよう。人間族の女」
人間の島のよほど彼方の出身なのだろう。
女は、魔の島で人間族といわれている者とは、似ても似つかぬ容姿だった。
多くのリューマ族がそうであるように、人間は黒っぽい茶色の髪を持ち、茶色の瞳をもつ。そして、黄色っぽい荒れた肌を持つと思われている。漆黒の髪や青い瞳、透き通るような肌をもつ人間など、魔の島ではほとんど見かけない。
魔の力が弱いリューマ族ならば、彼女が魔を持たぬ人間だと気がつかない者もいただろう。だが、ウーレンの純血種を欺くことは出来なかった。
鬼姫はさっと剣を抜くと、女の首元にあてがった。女の瞳は、すでに狂気の色に染まっており、さらに甲高く笑い声を上げると唾を吐いた。
「あたいを殺せ! 望みを叶えろ。あたいは死んであんたに憑いてやる。あんたはいつか、ウーレン王の子を産むだろうよ。あたいはその子に憑いてやる! その時に、あたいと子供の恨みを思い出すといい!」
その一言を叫んだのち、女の首も転がった。背中の赤子の泣き声は一瞬甲高くなったが、次の瞬間には永久に聞かれなくなった。
ウーレンの鬼姫は、たった二振りしただけで、女と子供の命を男のもとへと送ったのだ。
「親子で人間の住める地にて幸せになるとよい……」
鬼姫は独り言のようにつぶやいた。
人々のざわめきの中、よく通る男の声が響き渡った。ウーレン軍師が宣言した。
「この騒ぎは気の狂った個人によるものと王は判断した。罪人は死によって報いを受けた。よってコーネの街には咎めはない。だが、忘れるではない。ウーレン王こそが法。逆らうと死が待つのみ」
ざわつく人々の声は、恐怖半分と安堵半分の響きがあった。が、内心はみな、若夫婦に哀れみの念を抱いていた。もちろん表には出せはしない。
ウーレン王の命令は絶対だ。大概は服従しても問題のない事項が多かった。
しかし、どうしても従えない命令もあったのだ。
「人間族は魔の島を去るべし。去れぬものは子をなすべからず。魔を持たぬ子にはすべて死を」
リューマ族は人間と契った者も多い。生まれてくる子供は、大概魔を持たぬ人間族となる。ふるさとを捨て、人間の島へ渡ることは死に等しく、子供を殺すことは自分を殺すに等しい。
人間族の妻を持ったリューマの男が、妻子を守るため無謀な行為にすべてをかけようとした気持ちは、愚かであれ、憐れともいえるものである。
ウーレン王妃は女の呪いの言葉をまったく無視した。
魔を持たぬ女が、魔道をもって魔族を祟ることができようか? ありえなかった。
しかし、翌年の冬、ウーレン王妃がはじめての子供を死産した時に、コーネの街では女の呪いと噂がたった。まさに臨月を迎え、国が喜びに沸きたつ直前のことである。
魔の島全土が悲しみに覆われ、王妃は体調を崩し、しばらく人前に出ることすら出来なかったという。
もちろん、コーネでも街全体が喪に服した。ウーレン皇子を悼む催しが至るところでとりおこなわれ、白い花が街中に飾られた。
しかし、それは表向きのこと。コーネの街の裏手では違った。
――子供狩りをするウーレン王に、人間の女が復讐を遂げたのだ。
リューマ人たちは、女の呪いの噂を、まさに溜飲を下げる思いで語り合ったのだ。
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