閑話 ミントの奮闘
まるで海みたいだ、とミントは思った。
視界の利かない闇の中、音と振動によって感知した世界はまさに蜘蛛の海であり、止まることのない攻撃が返すことのない波のようにミントを襲う。
一際大きな蜘蛛は、最愛の人を繭にして口にくわえると、沖を進む船のようにゆっくりとその姿を消してしまった。
「あんず! あんずーっ!」
悲痛に満ちた叫びも、最早届くことはない。
掌程の大きさの蜘蛛を振り払いながら前進するも、蜘蛛は鋭い牙をミントに突き立て、確実にその体力を奪っていく。
絶えることのない攻撃と杏が拐われたことに対する焦りが、更にミントを追い詰めていく。
飛びかかってきた蜘蛛を殴り飛ばし、まとわりつく蜘蛛を踏み潰す。幸いなことに体力はないらしく、ダメージを与えた蜘蛛が再び立ち上がってくることはない。
「あんず……あんず……おいかけなきゃ……じゃましないで」
想い人の名を呼びながら、ひたすらに蜘蛛を打ち倒す。
全身に傷を負い、蜘蛛の血にまみれながら、終わりのない攻撃の嵐に立ち向かう。
葬った数はいくつになるだろうか。
地面は蜘蛛の亡骸で溢れ、ミントの身体も傷だらけだ。蜘蛛の毒がまわっているのか、視界が少しだけボヤける。
やがて、ミントの身体は動くことを放棄し、その場にへたりこんでしまった。
いくら気持ちを奮わせても、指一本動かすことができない。
呼吸をするというそれだけのことでも、非常に苦しく感じる。
「やだ……やだ……! あんず……あんず……っ!」
涙を流して慟哭するミントに蜘蛛の群れが殺到する。
ミントの視界は蜘蛛と共に絶望へと塗りつぶされていき――。
――手伝ってほしい?
声が聞こえた。
初めて聞いた筈の、しかしどこかで聞いた気がする声。
――貴女が望むなら、手伝ってあげるわぁ。
どこか間延びした、真面目さに欠ける声。
ミントの自我は藁にもすがる想いで応えようとするが、頭のどこかで信じちゃいけないと警鐘が鳴る。
逡巡。
たった一瞬の迷いを見逃さず、蜘蛛の牙が頸椎を抉った。
すかさず流し込まれた猛毒によって激痛が走り、ミントは我を忘れてのたうち回る。視界が燃えるような紅に染まり、視界の端を闇が侵食していく。
「あああああああああアアアアアアアアアアァァァァァッッ!」
意思に反して悲鳴が迸る。
杏を奪われ、二度と会うことが出来ないという恐怖が心を塗り潰していく。
――やだ! やだやだやだやだやだっ!
その瞬間、恐怖があらゆる感情を、思考を、本能を凌駕した。
痛みも、焦りも、猜疑心も、すべてを置き去りにして、ミントは愛する人のためにただ叫んだ。
「たすけてっ!!」
――天界の外に関しては、相手の許可がいるのよねぇ。有象無象に好き勝手させないためのルールとはいえ、今回は流石に焦ったわぁ。
そんな声が聞こえたと同時、ミントは一つの感情を得た。
「……美味しい」
杏が食事と称してしてくれる、甘美なキスとは比べ物にならないが、口から、腕から、脚から、腹部から、背中から――体のすべてが味を感じる。
流し込まれた猛毒は蜜のように甘く、蜘蛛は氷菓のように滑らかに蕩けていく。
右手を横に振る。
腕に大きな咢が開き、周囲の蜘蛛をまとめて噛み砕いた。
左手を叩きつける。
空中で網のように広がった腕は、絡めとった蜘蛛を瞬時に溶かして飲み込んだ。
――スライムはいわば消化能力そのものに命が宿った生物。人化してもその本質は変わらないし、むしろ器官という補助が出来ただけ凶悪よぅ。
暴れ、蹂躙し、すべてを喰らい尽くしたミントは、呆然としてその場に立ちつくした。
海と化していた蜘蛛はもう存在しない。
襲いかかった蜘蛛達は、僅かな時間でミントの糧となった。
右手を見る。鋭い牙が並ぶ口がそこにある。
左手を見る。絡めたものを溶かす巨大な網がそこにある。
両手だけじゃない。全身が消化器官と化し、次の獲物を求めていた。
もし、この手で杏に触れてしまったら――あの、甘美な愛に触れてしまったら、いつかの未遂ではなく、今度こそ本当に取り込んでしまう。そんな恐怖がふつふつと湧きだした。
「嫌だよ……そんなの嫌だ……」
自由に口が動く。
いつもはたどたどしく言葉を発することしかできない口が、今は想いをそのままの形で言葉に出来た。
――安心していいわよー。それは、貴女の本質を無理矢理解き放った姿。貴女が愛するあの娘に触れ、あの娘と交わり、あの娘に愛されていれば、貴女が拒絶しているその姿になることはないわ。
「本当……?」
――本当よー。嘘だと思うならあの娘と交わしたキスでも思い出してみれば?
「杏とのキス……」
寝ぼけて初めて口に吸い付いたキス。
別れを切り出され、涙ながらに口付けたキス。
動けなくなった自分を助けるために、舌を絡めあったキス。
一つ思い出すたびに、心に温かいものが生まれていく。
一つ思い出すたびに、愛しさが募っていく。
想いが溢れ、言葉にならない声が嗚咽となって流れ出した。
「あいたい……あいたいの……あんずぅ……」
杏に会いたい。
杏に触れたい。
杏と語らいたい。
杏への想いがミントの胸を焦がす。
――いやはや、凄いわねー。ちょっと手を見なさい。
頭に響いた声につられて手を見る。
醜悪な咢が開いていた右手も、巨大な網のようになっていた左手も、元の小さな少女の手に戻っていた。
「もどったの……?」
発声も元に戻ったらしく、絶望の中で独り言ちた時と比べて随分と話しにくい。だが、ミントにはその不自由さが、今はこの上なく嬉しかった。
――綺麗に治ったわねぇ。次はどこに向かえばいいか分かる?
「えっとね……。こっち……かな?」
――正解よー。そのまま、まっすぐねー。
謎の声に従って、進んでいく。
やがて、ミントは闇の世界にそぐわないものを見つけた。
「ひかってる……?」
岩肌にポカリと空いた洞窟。
そこから神々しささえ感じる光が漏れ出している。
――おめでとー。貴女、あの娘の気配を感じれるようになったのよ。
「じゃあ、ここにあんずが――」
そう言うが早いか、期待を小さな胸に抱えて、ミントは駆け出した。
心に巣くった恐怖を取り除くために。
おかえり、と温かく迎えてもらうために。
「ふぅ……とりあえずはなんとかなったわぁ」
芥の世界を覗いていたルシフェルは息を吐き、肩をグルグル回しながら呟いた。
色々危なかった。
ここでスライムの娘がいなくなってしまうと、計画が大幅に狂ってしまう。
ちょっとした助け舟で戦いやすくするつもりが、あんな化け物じみた姿に変化するとは想定外だった。
こちらの想定を遥かに超えるスピードで、あのスライムは成長している。要因として考えられるのは一つだけ。
「あの娘……当たりだったみたいね。結構偏食じみたところがあったから心配だったんだけど」
擬人化キャラに熱中していた少女の魂。
誰かとはしゃぐ訳でもなく、素晴らしさを説くでもなく、ただ心に熱意を静かに燃やし続けた少女。
ルールを破って天界へ連れてきたが、危険を冒しただけの甲斐はあったようだ。
芥の世界をちらりと見やる。
今度は想定通り、修羅場へと発展したようだ。
蜘蛛の娘に諭され勢いはなくなったが、スライムの娘の心にはしっかりと嫉妬の火が灯っている。
先程、スライムの少女に力を注いだ時、一緒に埋め込んだ嫉妬の心は、ちゃんと根付いてくれたようだ。
「こっちはいい感じねー」
満足気にルシフェルは頷く。
「さてと……スライムの記憶から私が干渉した記憶も消したことだし、そろそろ退散しましょうか。頭が固い妹が不浄を持ち込んだとか言い出す前に――」
「あ・ね・う・え? 不浄を持ち込んだとはどういうことか、きっちり話して貰えますか?」
「あー………………てへっ」
「姉上ええええええっ! 貴女という人はああああああっ!」
ミカエルの怒声を聞きながら、ルシフェルは颯爽とその場を逃げ出したのだった。
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