閑話 天界にて(弐)



 大聖堂。



 天界に住まう天使が、主たる世界樹に祈り感謝する至上の聖域。荘厳な空気で満ちた空間に怒声が飛び交っていた。



「姉上! 芥の世界に不浄を持ち込んだとはどういうことですか!」



 一人は紺碧のプレートアーマーを純白のドレスの上に身につけた天使、ミカエル。



「不浄とはなんだ! 主が生み出し、主が彼の世界にあることを望んだものだ! これは不浄などではなく宝! そう、あらゆる黄金や宝玉も霞む至宝であるぞ!」



 答えるのは鴉を象った仮面で顔の上半分を隠した天使。


 金の刺繍が入った白い衣を纏い、二対の虹色に輝く翼をもつ少女。


 漆黒の髪は肩口で切りそろえられ、小さな口からはまだ幼ささえ感じるソプラノが放たれる。



 主天使マモン。



 主である世界樹の威光を知らしめる天使でありながら、その為の道具である財宝に心を奪われた変わり者である。



「愚か者! 主天使の分際で主の望みを語るか!」


「主の御心も介さぬ熾天使に言われる筋合いなどない!」


「ぐ……この、言わせておけばっ! 主の名において……」


「ミカ、ダメよ。主の名は天使の喧嘩に出すものじゃないわ……あら、このクッキー美味しいわね」



 なだめている、というよりは煽っていると表現した方が正しい言葉がミカエルの耳に届く。案の定ミカエルは矛先を声の主に変えた。



「元はと言えば姉上の問題行動が引き起こしているのでしょう! ああ、もう! 食べかすがっ!」


「問題なんて起こしてないわぁ。全部、ミカの頭が堅いだけよ。モグモグ」


「咀嚼音をわざわざ口に出して言わない――ほら! またこぼれた! 誰がここの掃除をしていると思っているのですか!」


「私は当番制にしよう、って言ったわよ。主に最も誓い神聖な場所だから、清めるのは熾天使筆頭たる私の役目だーって手をあげたのはミカちゃんよぅ?」


「ルーちゃん、散々煽ってたけどね……。結局ミーちゃんが切れちゃって、全部自分でやるようになっちゃったんだよね」



 言葉に詰まるミカエルに代わり、ため息混じりに答えたのは栗色の髪を背中に流した天使だった。長さはミカエルと同じくらいだが、まったく癖のないミカエルとは対照的に、ウェーブがかかった髪が揺ったりと揺れている。



 彼女の名はガブリエル。


 ミカエル、ルシフェルと同じ熾天使であり、「言葉を伝える者」の異名を持つ天使だ。



 そんな彼女は、もはやルシフェルの言動すべてを諦めたと言わんばかりに紅茶を啜っている。この紅茶も、ルシフェルが食べ続けているクッキーも、ガブリエルが用意したものだった。



「がぶがぶー、またお菓子作りの腕上げたねー」


「ありがとうございます。でも、その呼び方はやめてほしいかも……」


「えー、可愛いじゃない。がぶがぶーっ!」


「あわわ……っ」



 ルシフェルは高らかにその名を叫ぶと、ガブリエルに抱きついた。ガブリエルは拒絶する様な素振りを見せずに、紅茶をこぼさないよう、器用にバランスを取っている。



「姉上! 人前です! はしたない!」


「ミカちゃん……嫉妬?」


「ち・が・い・ま・す!」


「まあまあ、ミーちゃんも落ち着こう? クッキー自信作だよ。ルーちゃんのお墨付き」


「ガブリエル! 貴女も少しは拒絶しなさい!」


「ルーちゃんのおっぱい枕、気持ちよくって動けなくなっちゃうの……はふぅ」


「あらあら、今日のがぶがぶは素直なのねぇ。マーちゃんもおっぱい枕する?」


「いえ、今は我が君の隣でお茶をいただく、宝玉よりも価値ある幸福を享受したく存じます!」


「もう、欲深いくせにこういう時は無欲よねぇ。今夜は抱き枕の刑に処してあげようかしらぁ?」



 ブルンッと震える胸に後頭部を叩かれ、ガブリエルが「あうぅ」と声を漏らす。



「不肖マモン、心より楽しみにしております!」


「楽しみにするな! 姉上もふしだらな真似は慎んでください!」


「ですって。残念ねー」


「ミーちゃん、放置プレイ?」


「それはそれで……嗚呼……」


「貴様らあああああアアアアアッッ!」


「あ、がぶがぶはちょっと降りててねー」



 怒声も罵声もどこ吹く風な駄天使たちに、ミカエルの我慢も臨界点に達した。


 主から賜った「外敵を打ち滅ぼす力」を発現し、その手に光のロングソードを顕現させる。



「貴様ら一度地獄へ落ちろおおおおおおおっ!!!」


「ミーちゃん、それ洒落にならないよ」



 主のメッセンジャーとも称されるガブリエルの言葉も、今のミカエルには届かない。むしろ大それた異名や階級が仇となり、彼女をさらに激昂させるだけだ。



 ミカエルが床を蹴り、一瞬遅れて空気が衝撃波となってまき散らされる。音も、衝撃も、光さえも追い越した必殺の突進。



 驚く時間すら与えられない刹那の突撃を、ルシフェルは微笑を浮かべて迎え撃ち――、



 ――――ぼよんっ。



 胸に実った、たわわな二つの果実で受け止めたのだった。



「ミカー? 起きてるー?」


「あえへへへ…………はふぅ」


「あー、ダメだこりゃ」



 勢いよくルシフェルの胸に飛び込んだミカエルは、その快楽と多幸感に抗えず、完全に緩み切った表情を浮かべていた。



「こ、これが熾天使一堅物と呼ばれるミカエル……」


「ミーちゃん、やっぱりルーちゃんが天敵なんだね……」


「あらあら……かわいい娘よねぇ、やっぱり」



 それぞれ三者三様の感想を抱きながら、だらしない表情のミカエルをしばらく眺めていたのだった。






 ミカエルは僅か数分の夢から覚めた後、「嘘だああああああああぁぁぁぁぁ」という悲鳴をあげながら、大聖堂から走り去った。



 それを見届けた後、マモンも溜息をついて立ち上がった。



「そろそろ失礼致します。我が君、今宵は何なりとお申し付けください」


「あらぁ、本気なの? じゃあ、さっきのミカよりすごい顔をさせてあげるわぁ」



 ルシフェルの妖艶な笑みを期待に満ちた瞳で見つめ、マモンはクッキーを一つ詰まんで立ち去った。



 他には誰も大聖堂の中にいなくなったことを確認すると、ガブリエルはいそいそとルシフェルの膝の上に座りなおし、豊満な胸に頭を預ける。



「ああ……やっぱりこれ、落ち着くぅ……」


「がぶがぶも物好きよねえ」



 文字通り胸の中で幸せに包まれる天使の頬を指で突く。柔らかで、張りのある弾力が指に心地よい。



「ところで……ルーちゃんは今回何をやったの?」


「あら、私が何かやったことは確定なの?」


「うん、確定」


「いけず……」


「よくそんなこと言える――よねっ!」



 そう言いながら、ガブリエルは勢いをつけて、ルシフェルの胸に後頭部を叩きつけた。凶悪な幸福の塊が、衝撃を受けてあちらこちらへと跳ねまわる。



「あんっ! がぶがぶ、激しいっ!」


「答えないならもっと強くするよ」


「もう、この娘ったら……」



 ルシフェルは胸の下で暴れている天使に、そっと手をまわした。



「ルーちゃん?」


「ちょっとね、頑張ってる娘を応援したのよ」


「芥の世界に送った娘?」


「いえ、その娘に魅せられた、異形の少女」


「それだけ?」


「んーと、私の力を少しだけあげたの」



 ガブリエルはその言葉を聞いて、ピクリと体を震わせた。



「そりゃ……ミーちゃんは怒るね。なんせ、世界樹が吸収し損ねた魂を備蓄するための世界だと思い込んでいるもん。それをゴミ箱みたいに色々放り込まれた挙句、その世界の存在に干渉までされたら……」


「まあ、ミカエルには悪いことをしてるって思ってるのよ。でも、主の望みを聞いたら、あの子は絶対に自分を見失ってしまう」


「うん、私もルーちゃんから話を聞いた時は信じられなかったよ。だって、一種の自殺願望もん」



 風も吹いていないのに、世界樹の枝が揺れ、葉がざわめいた。


 それは、ガブリエルの言葉の肯定か、否定か。



「世界樹だって自ら滅びたがってる訳じゃないわぁ」


「そのあたりは心得てるから心配しないでいいよ。それにあの娘たちの行く末も気になるもん」


「あらあら? がぶがぶって今回の件にそこまで興味あったっけ?」


「えっとね。ルーちゃんと私も含めた他の天使たちを見てるみたいで、他人事に思えないの」


「へぇ…………えいっ」



 胸の下でにぱっと笑ったガブリエルの顔に、ルシフェルは己の凶器を押し付けた。



「る、ルーちゃ――――ふがふごふぐぁふぐふがっ!」


「胸の下で暴れられたらくすぐったいじゃないの、このこの」


「ふごぉっ!? 脇腹突くの――ふががふあごがぐるぁあっ!?」



 ガブリエルが暴れるのに胸を任せながら、ルシフェルは一人黄昏れる。



 ――私があの娘と一緒か。



 ありえないと思う。彼女と私では魂の格が違いすぎる。



 ありたいと思う。私は慕ってくれる皆を愛することができない。



 愛は主の、世界樹の専売特許だ。無条件で誰かを愛する存在なんて作ろうと思って作れるものじゃない。出会ってすぐの、それも直前まで自分を殺そうとしていた相手だったりすれば尚更だ。



 そんなこと、天使だって出来やしない。


 主に最も近いと言われるルシフェルもだ。



「素質は見出したし、世界樹の欠片も埋め込んだけど……あの娘なら本当に成し遂げるかもしれないわね」



 ならば、もっと彼女たちには成長してもらわなければ。特にあのスライムの少女には頑張ってもらわないと。



 そんなことを考えていると、ルシフェルは胸に感じていた振動が止まっていることに気付いた。慌てて胸を除けて下を見る。



「愛……ねぇ。確かに慕ってくれる娘達は大切なんだけど……」



 ルシフェルの目に飛び込んできた少女の姿。胸に押しつぶされ、白目を剥いて気絶したガブリエルは、泡を吹きながらも幸せそうな表情を浮かべていたのだった。

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