閑話 天界にて

 一人の天使が廊下を歩いていた。

 髪は収穫期の小麦畑を思い起こさせるような美しい黄金色で、腰まで伸びる髪は一本一本が絹糸でできてるのではないかと見紛うほどの滑らかさで揺れている。

 全身を覆う白い服。その服を持ち上げて主張する胸部には、紺碧のプレートアーマーが身に付けられていた。


 ただそれだけを見れば、一枚の絵になりそうな美しい女性の姿。

 だが、端正な顔は怒りに歪み、歩みは床を踏み抜こうとするように激しい。


 彼女の名前はミカエル。天使の階級の中でも最上の熾天使に位置し、更にその中でも上位に存在する大天使だ。


 やがて彼女は一つの扉の前で立ち止まった。

 厚さ数センチはあろうかという、見るからに頑丈そうな木の扉。


 ミカエルが扉に左手を添える。次の瞬間、添えた手を引くことにより猛烈な加速を得た右のストレートが扉を粉砕した。


「姉上! 出てきてください!」

「ミカー。ノックは扉を壊さないようにしてほしいわぁ……」


 ミカエルの声に応えたのは、豊満な胸をもつ妙齢の天使。杏を異世界へと転生させた天使だ。執務用のテーブルに突っ伏していた彼女は、怒鳴り声を聞いてのそのそと立ち上がる。

 決して小さいとは言えないミカエルの胸が霞むほどの巨大な果実がブルンと震えた。


「扉が開くのが待ちきれないほどお姉ちゃんに会いたかったのぉ? いいわよ、ぎゅーしてあげるー」

「そんな訳ないでしょう! 姉上、いったい今度はどういうおつもりですか!」

「はいはい、熱くならないのー。ほら、ぎゅーっ」

「話を逸らさないでくだ…………はふぅ」


 たわわな胸に顔を埋め込まれたミカエルは、みるみる力が抜けだらしない笑顔を浮かべ始めた。

 そんな妹をいつくしむ様に、天使はミカエルの頭を撫でる。


「はいはい、いい子いい子。昔からお姉ちゃんのおっぱい大好きよねぇ」

「うん、ふかふかで大好――――はっ! 危ない、また洗脳されるところでした!」

「洗脳じゃなくて本音でしょ? もーっと堪能していいのよぉ?」

「そうはいきません! 姉上にはこれから取り調べとお説教が……」

「ほら、ぎゅーっ」

「…………はふぅ」

「腕から逃げ出して話せばいいのに、そんなに離れたくないのねぇ」

「――――はっ! その手が! よくもその悪魔の果実で私を誑かしてくれたな!」


 叫ぶと同時に腕を振り払い距離を取る。

 そもそも捕まえて置く気はなかったのか、あっさりと腕は振りほどかれた。


「おっぱいで誑かされる熾天使なんて聞いたら、地上の魂たちが泣くわよぉ?」

「地上の魂などただのエサでしょう。姉上が面白半分でつくった神話で信奉される身にもなってください!」


 ミカエルは両手を握りしめて、わなわなと震えだした。


「魂の前に出て行ったら……やれ大天使様だ、熾天使様だと崇め倒され……。全世界の創造主である我らが主、世界樹を見ても呆けた顔をして溶けていくというのに、その主の前で私がこの世の神のように崇められるという……。この言葉にできない忸怩たる思いが姉上に分かりますか!?」

「それはねぇ、か・い・か・んっていうのよぉ」

「そんな訳ないでしょうがあああああああっ!」


 羞恥と怒りに顔を真っ赤にして繰り出した渾身の突きは、部屋中を揺るがすほどの轟音を立てながらも、姉の掌に収まっていた。


「ミカちゃん、めっ、よ。世界樹に影響があったらどうするの」

「そ、それは……。あ、姉上こそどういうおつもりですか! 世界樹の欠片を宿した魂を地上に送るなど!」

「ミカちゃん、固いわよ。送ったのはゴミ箱。地上じゃないから混乱はないわぁ」

「姉上こそ本気で言っておられるのですか!? “芥の世界”は不要物を捨てる場ではなく、世界樹が吸収しきれなかった魂の欠片を溜め置く世界ですよ! 芥というのは我々にとってではなく世界樹にとってです! 地上や天界にどんな影響がでるのか、分かったものじゃないですよ!」


 喚くミカエルの口にそっと人差し指が当てられる。

 強い力で押さえつけられた訳でも、強大な魔力で威圧された訳でもない。しかし、ただそれだけのことで、ミカエルはそれ以上口を開くことが出来なくなった。


 姉の顔が近づいてくる。

 鼻先と鼻先が触れ合うか合わないかというところまで近づくと、今の今までふざけていた人物と同じとは思えない冷たい目をして囁いた。


「ミカエル。私はそれらの可能性をすべて考慮した上で、世界樹にとって最善の判断を下したのよ。すべては世界樹、我らが主の御心のまま。それとも貴女、世界樹の気持ちが分かるようになったのかしら?」


 先程までのふざけた空気とは打って変わり、ゾッとするような妖艶な声音がミカエルの脳髄を刺激する。凶悪なまでのプレッシャーが体を縛り、呼吸することすらままならない。


「わ、私には……わかりかね、ます……」

「そうよね。そして、“私が主の気持ちが分かること”も知っているわよね」

「は、はひ…………」

「だから今回の件はそれがすべて。どうせ堅物のウリエル辺りが色々誇張して報告したのでしょう? すべては主の御心のまま。そう突き返しておきなさい」

「姉、上……」

「明けの明星、ルシフェルの名において断言するわ。これは、我が主が望んだ結果よ。分かったかしら」

「はい……畏まりました……」


 ミカエルの答えを聞くと、彼女は顔を離して満足げに頷いた。時間すら凍らせたのではないかと思えるプレッシャーが解け、ミカエルの体から汗が噴き出す。


「一仕事終わったら疲れたわぁ……。じゃあ、私はひと眠りするから……」

「姉上……。話は通しておきますので、今日中に新しい報告書の提出をお願いいたします」

「報告書……? ああ、あれは提出したわよぉ。部下の証言も入った完璧なものを」

「完璧……? ふふ、あははははは」


 壊れたように笑いだすミカエルにルシフェルは一歩後ずさる


「み、ミカちゃん……?」

「世界樹が食あたりなんか起こしてたまるかああああああああああああっ!! 正しい報告書を出すまで主上の名において昼寝とおやつは禁止だあああああああああああああああっ!!」

「いやあああああああああああああっ! 許してええええええええええええええっ!!」


 明けの明星、光をもたらす者などと呼ばれ、最も主に愛され主に近いとされる熾天使ルシフェルの部屋から、情けない悲鳴が響き渡ったのだった。

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