黒崎先輩の異常
朝のハプニングのことを忘れるのは必死だった。だれか友人に愚痴のように話すと、「お前、人生なめてるだろう?」と言われかねない。
そもそも、そんなことを愚痴る友人はいないのだけれども……。
月曜日は二限から講義だ。ゆっくり準備をして、家を出て、大学にもバッチリ時間通りについて、いつもの席で受けた。ずっと朝のことを考えていた。おっぱいのことではなく、ミズキのことだった。
ミズキは七月に体調不良(世間的にはそういうことになっている)を理由に芸能活動を休止している。その時までは、黒の強い茶色の髪をして清楚な服を着ていた彼女だった。しかし、休止期間に入ると、髪を水色のショートカットにして服もラフな感じになっている。本人に尋ねたところ。
「今は、一般人とほとんど変わりないんだし、福浦瑞稀のままでいたらあたしがあたしのままだから疲れるの。わかる?」
本人のいわんとしていることはわからないでもなかった。今の彼女にとって福浦瑞稀というのは、重い枷なのかもしれない。
あんなことがあったから彼女にとってはショックだったのかもしれない。彼女の見た目が派手になったのは、その時の彼女を忘れさるためなのかもしれない。
とかなんとかミズキのことを考えてるなんて、エライな。献身的だな。自分で自分を褒めてあげたいな。
そんなバカなことを考えながら歩いていたら、部室棟に着いた。五階建て。エレベーター、エスカレーターなし。僕の所属している文芸部は五階。
この部室の配置がどうやって決まったかはわからないが、その当時の人たちを恨みたくなる。五階分も階段を登ったらいい運動になって、なにをしに部室に行くのかわからなくなってしまう。だから、なのか文芸部にはあまり人が寄り付かない。でも、そういいながら、部室としては機能している。みんな本を読んだり、合評したりしている。らしい……。僕は一度も参加したことはない。
夏になった頃には部室棟の前でバスケットボールをやっていた男の人がいたけど、今はもういない。そこそこうまかったのにな。バスケ部じゃなくて、きっとどこぞのサークルの人なんだろう。
階段を登ることは苦行でしかない。その間に誰ともすれ違わない。この部室棟のすごいところはひっそりとしていて、人の気配がまったくないところだ。この建物に人はいるのか疑問になってくる。
そんな都市伝説にもならないどうでもいいことを考えていたら文芸部の部室についた。
中で人の気配がする。
先輩かな?
僕はドアを開ける。
「失礼します」
インクが出る水鉄砲みたいな武器で陣取り合戦をするゲームしている女性の先輩がいた。
一瞬僕の方を振り返り確認するとまたゲーム画面に戻った。
「やぁ、君か」
「どうも、黒崎先輩」
「先輩、いいんですか、こんなところでゲームしていて」
「君こそいいの? 家に帰ったらお姫様が待っているのに」
刺し違えるどころか、逆に負けた気がした。敵の方が上手だった。
「いいんですよ。僕のことは。ミズキがいることで。僕は自分の部屋がなくなっちゃったんですから」
「でも、いいじゃない、好きな人の近くにいられるんだから」
「いや、それは違いますよ。僕はあいつのお世話係ですよ」
「またまた、そう言っちゃってさ」
「いや、ほんとです。もし、先輩の言った話を鵜呑みにしたあいつのファンがいた何回殺されるかわからないですから」
「そうねー、本当は外に向かって叫んであげたいわ」
「だから、やめてください。先輩、今日はなんかいつもよりイジワルじゃないですか?」
先輩はゲーム機の電源を突然落として、僕の方を向いた。
「なんですか」
先輩らしからぬ態度に僕は思わず仰け反ってしまう。
「あのさ、聞いてくれる?」
さっきのまでの話のトーンと全然違う低くて落ち着いた声だった。
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