ファインダー越しの化け物
藍雨
ファインダー越しの化け物 前編
「あなたはどうして、そんなに思いやりがないの?」
言葉を残して離れていく人の幻影ばかりみる。
夜は眠るのがとても恐ろしい。
「あなたはどうして、いつも笑っているの? ほんとうは、つまらないんじゃないの」
僕の心を覗く人たちの、心がすこしも解らなかった。
○
あの日も曇天だった。
小学生の僕と、小学生の彼女。遠くの街へ引っ越していく彼女を想って、女子も男子も悲しんだ。僕も悲しいと思っていたはずだ。
別れを惜しみ泣いて、また会える日を楽しみに笑うクラスメートたち。僕だけは、なんだか解らないまま。
泣けないまま、その日は笑えもしなかった。
中学生の僕と、高校生のあの人。
好きだと言われた理由も、彼女に付き合おうと言った自分も、解らないまま。
泣いて「人間じゃない」と僕を突き放した彼女のことが、今もまだ、解らない。
高校生の僕と、高校生の彼女。
好きだと言ったこの口で、僕は彼女を傷つけ続けた。あまりに通じ合えない感情が、彼女の心を壊して、壊した。
曇天の下、泣いた彼女は階段を駆け下りて、滑り落ちた。
死んだ彼女をみた僕の感情が、今もまだ、解らない。
僕が「化け物」と突き放されるとき、空はいつでも曇っていた。
僕が感情を見失っているとき、空はいつでも曇っていた。
○
「ねえねえママ、なんであのこはひとりなの?」
「あの子にはね、ママもパパも居ないのよ」
「どうして居ないの?」
「あの子はきっと、捨てられちゃったのね」
その日はよく晴れて、とても暑かった。流れる汗が塩辛くて、止まらなくて––––––––––涙だって、止まらなくて。
「あら、駄目よ、ごみは、きちんとごみ箱に捨てないと」
「ごめんなさい」
「さあ、捨ててらっしゃい、ここで待っているから」
そうやってなんでも簡単に捨てられたら、楽になれるのだろうか。
そんな風に僕を捨てたママとパパは、すっかり楽になって、今は僕のことなんてさっぱり忘れたのだろうな。––––––––––そうやって、楽になったのだろうな。
止まらなかった涙の理由と、止められなかった感情を、一切抑えて。
僕は大切だと思っていた電車のおもちゃを、ごみ箱に捨てた。
○
「ちょっと、こっち向いて」
学食から出て、次の講義室へ向かおうとしていた僕を呼び止めたのは、気が強く、そして我の強そうな声だった。
「なにか?」
「ちょうどいいや、君、写真に興味ない?」
「写真?」
「わたし、写真部なの。どう、写真撮らない? 楽しいよ」
悪質な宗教サークルのにおいがして、僕は黙ってその場を去ろうとした。
「あっ、やっぱり、君は被写体だ」
「……は?」
「わたしは君の写真を撮りたい。入るか入らないかは、わたしの活動をみてから決めていいよ」
その上から目線な態度に戸惑いを隠せないでいると、ああ、と彼女は笑った。
「宗教サークルじゃないよ? みてよこれ、わたしの写真は雑誌で賞もらったんだから」
彼女は強引にスマホを突き付け、証拠を示す。
「……僕なんか撮っても、なんにもならないと思いますけど」
「それを決めるのは君じゃなくて、わたしだよ。あと、敬語じゃなくていいから、わたしも一年だし」
「……いや、僕は二年だよ」
「ありゃ? そうなの? まあいいや、行こう!」
腕を引っ張られ、もう抵抗する方が面倒だと思い、僕は大人しく彼女についていくことにした。
僕になにかが起こる日はいつも曇りだと思っていたが––––––––––今日の日が転機だなんて、もちろんその時は思いもしなかった––––––––––その日は突き抜けるような晴天だった。
○
「この木、すごいんだ。冬に桜の花を咲かせるの。受験の下見の時にその瞬間に出会って、わたしはひと目惚れしたんだ」
春だというのにほかの木と異なり、一切の葉をつけていないその木は、学内で有名な「冬桜」だった。
この木は、冬のある一日にだけ、桜の花を咲かせる。人間の手入れは一切受け入れず、代わりに降った雪をそっと受け入れ、美しい情景を生み出す––––––––––と評判らしい。
「これから春、夏、秋、冬と、わたしと過ごして。そして、この木が桜の花を咲かせるその瞬間、君と冬桜を撮りたい」
「……勝手に決めないでくれ」
「いいじゃない、どうせその様子じゃ、サークルに入ってないんでしょ?」
「悪いか」
「まあ、自分の時間をどうしようと、自分の勝手ではあるけど。わたしは君に干渉しないし、君に干渉してほしくもない。でも、君とすれ違った時、この人をファインダー越しにみつめてみたい、と思った。だから君をわかるため、君にわたしをわかってもらうため、四季を一緒に過ごしてほしい」
「変なやつだな」
まるでプロポーズみたいだと思ったことは、もちろん黙っておく。
「それは、了解の意だと捉えていいのね?」
「干渉しないんだろう? それならなにも気負うことはないし」
「じゃ、交渉成立、ということで」
彼女は満足そうな顔をして、今日は帰るから、と去って行った。
どうせ二日も経たないうちになかったことになるだろう、そう思い、僕は始業のチャイムを聴きながら、講義室とは逆方向へ歩き出した。
○
「……まったく、見当違いだったな」
「なんの話?」
「なんでもない」
見当違いもいいところで、最初に彼女と出会った五月の晴れの一日は終わり、もう季節は夏を迎えていた。
「ただ一緒に居るだけなんて、馬鹿みたいって思う?」
「なにも思わないな、なにかするわけでもないし」
僕はただ普通に日々を過ごせばいいだけだ。一年前となにも変わらない……彼女が隣にいること以外は。
彼女は僕の日常にふと現れ、シャッターを押し、満足するとふと姿を消す。絵になるような人間ではないという説得は、当然聞き入れてもらえなかったので大人しく撮られている。ほんとうに、それだけだった。
「はやく冬になってしまえ、って思う?」
「なんで?」
「そしたらわたしに付きまとわれることもなくなるって」
「冬桜を撮れたら、終わりなの?」
「そんなことひとことも言ってないけど」
「そういうことだよ」
「……なんか、たまに、変なしゃべり方するよね、君」
「僕のことを君、だなんて呼ぶような人に言われたくはないけど」
「お互い様、か」
そういうことだよ、目を向けると、彼女とファインダー越しに目が合った。
にやりと笑った口元が、カメラの代わりにぱしゃりと言った。
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