18. 今までとは違う(2)

「おはよう、シャルリーヌ」

 真っ直ぐに顔を見上げて、大きめの声を出す。

 背の高い彼女は、ゆっくりと振り返った。視線が交わる、背筋を伸ばす。

 目は逸らさない。

「昨日はごめんなさい。誤解させたわ。でも、誓って、わたしはランベールに何もしていない」

 見下ろしてくる瞳は、うっすら曇り空。艶も足りない頰に、ちくんと胸の底が痛んだ。

「誤解させて、ごめんね」

 それでも、謝るのはこれだけ、とクロエは真っ直ぐ立つ。

 シャルリーヌはぷいっと顔を背け、食堂から歩き去って行ってしまった。

 朝一番、女子寮の食堂は姦しい。

 その中で、クロエは溜め息を吐き出した。

 編みこむのに失敗した髪が顔の横で揺れていて、それをくるくると指に絡めていたら、 肩を叩かれる。

「自分勝手よね」

 笑いかけてきたのはアメリーだ。その後ろにはしたり顔のヴァネッサもいる。

「ね、朝ごはんにしましょう」

 パンに野菜スープという食事。三人でテーブルに着く。

「ランベールが貴女を引っ張って行ったんだって、見た人みんな言ってるもの。シャルリーヌが言い掛かりをつけているだけ」

 フォークにレタスを突き刺してアメリーが言うと、ヴァネッサが激しく頷く。

「別に寮に帰ってきてから渡したっていいのに、邪魔するためにわざわざ手紙を運んで行ったっていうのよ」

「あらやだ。そんなにランベールが浮気するって心配していたのかしら」

「そもそも卒論の相方即ちイコール恋人ってわけでもないのに、浮気も何もないわよ。泥棒猫呼ばわりだって、失礼しちゃうわよね」

「あの子ってば、ペアを組んだ途端、恋人の気分でいたんだもの。ランベールをすごい束縛してたって話よ」

「それ、誰からの情報?」

「アラン。彼ってば、ランベールがリュシアンに愚痴っていたのを横で聞いていたみたい」

「それなのにクロエに手を出したの? ランベールもサイテーね」

「だから、男子寮の方も大騒ぎだったみたいよ。無理矢理連れて行ったんだって、紳士らしくないってランベールが責められて。ついでにリュシアンに殴られたらしいわよ」

「それもアランからの情報?」

「エヴラールは何も話してくれないの?」

「今日これから会って話を聞くのよ」

 アメリーとヴァネッサの口は、食べるのと同じくらい喋るのに忙しい。

 パンを頬張りながら、クロエは曖昧に微笑んだ。

「アメリーはアランと上手くいっているの?」

「うぅん、それは、まあ…… そうね」

「貴方達は小さい頃からの友達なんでしょ? これで堂々とお付き合いできるようになったんだから、良かったじゃない」

 ヴァネッサに脇を突つかれ、アメリーは顔を赤くして俯いた。

「そうよ。あわよくば婚約までって、二人とも思っているんだから」

 ひゅう、とヴァネッサが口笛を吹く。クロエも手を叩いた。

「二人とも止めてよ恥ずかしい。どうせヴァネッサもエヴラールになくせに」

「わ、悪かったわね!」

「クロエもリュシアンと上手くいってるんでしょう!?」

 げほ、とクロエは咳き込んだ。

「パン…… パン、が喉につっかえ……」

「しっかりしなさいよ、もう」

 ヴァネッサが差し出したグラスの中身を飲み干して。

「意外よねえ。ぼんやりしているのかと思ったら、リュシアンってばすごい紳士なんだもの」

「クロエの荷物を持ってあげているのを何回見かけたことか」

「喋らなくても何とかなるものなのね」

「きゃー、素敵!」

 クロエは涙目で賑やかな二人を交互に見つめた。

「恋路のためにも、まずは卒論を書かなきゃね」

 わざとらしく呟くと、さらに笑いが弾けた。

「やあね、正論」

「浮気だのなんだのと騒ぐ前に、そこからよね」

 スープを最後の一滴まで飲み干してから、立ち上がる。

「今日は授業が少ないから、そちらを進めるべきなのでしょうね」

「出かけたいなぁ。新しくできたブティックに行ってみたい」

「それこそ卒論が終わったにしなさいよ。せめて週末までお待ちなさいよ」

「今週末は…… 休みが長いんでしたっけー?」

「最終学年向けのお休みよ。卒論をいい加減進めなさいっていう、ね」

 講堂に向けて、走り出す。

 もう、あと何回もないのだろう講義のために。



 昼下がり、まだ明るい窓際。

 机の上には、何冊も本が広げっぱなしだ。

 議会で上げられたという、王国に初めて鉄道が敷設された時の本。新しいものに対する不安と不満が読み取れる。

「この部分の要約は、作ってくれたの?」

 それから十年後の書籍。新しい問題――煙害と、振動に対する恐怖と、それを上回る利便性を指摘した論文だ。

 最後、ジェレミーが貸してくれた、この一年に鉄道で運ばれた貨物の品目と量の資料だ。

「……今度はこっち?」

 クロエが問うと、隣に座ったリュシアンが頷く。

 ゆっくり一つずつ、資料の必要な部分を指し示す彼の指先を追いかけて、文章が形を成していく。

「早く出来上がりそう、かしら」

 首を傾げてみせても、彼は無表情のままだ。


――早く出来上がっちゃったら、その分、一緒に居られなくなっちゃうじゃない。


 溜め息とともに辺りを見回す。

 一度増えてそれから減った、図書室にいる人の数が、この数日でまた増えてきたような気がする。

 卒業論文の提出期限に向けて焦り始めた人がいるということだろうか。

 反対端のテーブルでアメリーとアランが肩を寄せ合って本を読んでいる姿を認めて、クロエは小さく吹き出した。

 隣でリュシアンが首を傾げるのに、何でもない、と呟く。

 せっかくの賑やかな口も、彼の前では何の役にも立たない。

 窓際に座ったクロエから少し離れたところに腰を下ろして頬杖をついた彼。傍にいるようになった時から変わらずに、さらさら揺れる蜂蜜色の髪が映える、白いシャツに紺色の服。腹立たしいくらいに、何も変わらない。顔色も、何もかも。あの文章は幻だったのかと思ってしまうほどに。

 だけど。広げられた本の山に混じって、鍵のかかった手帳は確かに存在している。あの頁が嘘だったなんてことはありえない。

 ふわりと漂ってくる香水の香りが、胸を締め付ける。

――書きっぱなしで、返事を聞いてくれないなんて。

「意地悪」

 ぎゅっと見上げる目の端が少し湿っているのは、気付かれてしまっただろうか。

 彼はまた首を傾げて。それからゆっくりと視線を動かした。

 つられて、見遣る。あっと叫ぶ。

「ブリジット!」

 小さな声だったのに、彼女には届いたらしい。手を振って、足音は忍ばせて、寄ってくる。

「良かった、見つかった」

 ふわりと水色のスカートを広げて、腰を下ろす。

 テーブルの向かいに座った彼女は、変わらない笑顔だ。

「二人を探していたのよ。――リュシー。あなた、週末の予定をクロエに伝えていて?」

 ぱちぱちと瞬いてから、リュシアンを見る。彼は僅かに眉を寄せて、横を向いた。

「伝えてないのね。困ったお兄様なんだから!」

 ぷう、と頬を膨らませてから。ブリジットはクロエに笑いかけてきた。

「お願いがあるの」

「何かしら?」

「わたし達兄妹の週末の旅行に付き合っていただけない?」

 もう一度瞬く。

「どちらへ?」

「ブランドブール。わたし達一家の領地へ、よ」

 すこし、眉を下げて。ブリジットは微笑む。

「週末で、母が亡くなって三年経つの。お墓参りに。それと、お父様のご機嫌伺い」

「お父様って」

「ブランドブール侯爵よ」

 当然だ。

 少し強張った顔で横を向く。

 リュシアンはまだそっぽを向いている。

「鉄道の資料もくださるって言っていたわ」

 ブリジットはにこにこと笑っている。

 クロエは溜め息を吐いた。

「ご一緒するわ」



――神様お願い、リュシアンに気持ちを伝える勇気をください。

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