07. 負け組の来た道(3)

 憂鬱な気分で潜った玄関、その向こうからは父と母が満面の笑みで駆けてくるところだった。

「ああ、もう。着いたのならモタモタしていないで、さっさと入っておいでなさい」

 母のオレリアが先に辿り着いた。

「アルフォンスと話すより先に言うことがありるでしょう?」

 両腕がぎゅっとクロエを抱きしめてくる。

「ただいま、お母さん」

 白いブラウスの生地を通して、温もりを感じる。エプロンの匂いに、クロワッサンを焼いていたのか、と想いを馳せる。

 ふわり、気持ちが浮く。

「ちょうど、お昼の時間だね」

「そうよ、そうよ」

 オレリアが笑う。

「お客様も一緒に頂きましょう。ね」

 そのまま彼女は、今走ってきた廊下の先を振り向いた。

「アルフォンスにはもう会ったわよね。バジルもクロードも来てくれたのよ」

 また、一気に気分が下降する。引き攣った頬がばれないように、と祈りながらオレリアに見向く。

「どうして三人とも来たの? ……アルフォンスは聞いたけど」

――応援じゃなくて、からかい目的だと思うけど。

 母は笑顔のままだ。

「みんなアルフォンスと一緒よ。クロエの応援に来てくれたのよ。卒業が近いからって」

「論文が出来上がらないと駄目なんだってば」

「だからその応援ですって。アルフォンスが、卒論が一番大変だって言ってたじゃない。そうそう、彼ってば、本当に立派になったわよね。田舎貴族なんかじゃないみたい。そうそう、バジルもね、秋には同じ学校に進学するって。クロードもすっかり大きくなって……」

「お母さん」

 少しきつめに声を出す。

 溜め息を呑み込みながら、リュシアンを振り返る。

 無言、無表情。まっすぐ伸びた背筋。

「やあ、君がリュシアン君か」

 そう高い声を出したのは、オレリアの影から顔を出した父のボドワンだ。

「ようこそ、わが家へ」

 腹と声だけは母より大きいけれど。裏返って早口で、どうにも締まらない。

「あはははは、田舎でびっくりしただろう。あ、クロエの垢抜けなさで想像できていたかな」

 はっはっは、と笑って額の汗を拭いて、ボドワンはリュシアンの荷物に手をかけた。リュシアンは変わらない。ただ、荷物を手放す時だけ、その動きがひどくゆっくりだっただけだ。

「おおい、アンナ。客室の準備は出来ているのかな?」

「リディに任せてございますわよ!」

「おお。じゃあ、荷物は私が運んでおこう。クロエ、おまえの荷物はおまえの部屋に入れておくよ」

「うん、ありがとう」

 とすんとすんと階段を登っていく父を見上げながら。

「もう、もう。一泊だけなんて言わないで、もっとゆっくりしていけばいいのに」

 オレリアがまた抱きしめてくる。

「無理よ、授業があるもの」

 クロエが笑うと、彼女は両方の眉を下げた。

「女の子は家でゆっくりしているものなのよ――進学だって反対したじゃない」

「うん。知ってる」

 くしゃっと笑って、腕から抜け出す。

「でも、沢山お友達ができたわ」

 ね、とリュシアンの腕を取る。彼は微かに首を傾げた。

「お昼にするんでしょう、お母さん?」



 欅の木が囲む庭先のテラス。

「薔薇が咲いている時が一番素敵なのよ」

 ね、とリュシアンに笑いかける。反対に首を傾げられる。

――うん。反応がある。

 アンナがテキパキと、お茶とクロワッサンとサラダをテーブルに並べていく。

「さ、食べて! お母さんの焼いたの、すごく美味しいから!」

 籠から一つ掴んで、椅子に座ったリュシアンに差し出して。

 それを横からひょいっと掴み上げられた。

 え、と振り向く。

「……バジル」

 年下の従弟は、べ、と舌を出した。

「いっただっきまーす」

「バジル! それ、お客様の!」

「もう一回取ればいいだろう?」

「バジルにいちゃん、止めなよ。まずお客様に出すんだよ」

 テーブルの反対側、両肘をついた少年が溜め息を吐く。

「クロード」

「こういう時はいい子ぶってた方がいいってば」

「馬鹿言ってんじゃない」

 こつん、とアルフォンスが少年に軽く拳を落とす。

 彼が椅子に座るのを見届けてから、クロエは溜め息交じりにリュシアンを見た。

「ごめんね…… 三人とも、わたしの従兄弟なの。アルフォンスとクロードが伯母の子で、クロードは今年中学校コレージュに進むわ。バジルは、父の弟の子で」

「秋から同じ高等学校リセに通うから」

 他ならぬ当人がニヤニヤしながら言う。

「卒論終わんなかったら、もう一年でしょ? クロエのことだから、きっと来年も学校に居るんじゃない?」

 睨んでも、素知らぬ顔でバジルはクロワッサンを齧っている。新しく作ったのだろう胴衣ジレが似合っていない。

 もう、と息を吐いて、リュシアンの横に腰を下ろす。

 紅茶の匂いと、香水の匂いが救いだ。彼は静かにクロワッサンを食べている。

「どう?」

 問うと。彼はテーブルの上に指先を静かに置いた。

 するり、動く。

――美味しいC'est bon

「良かった!」

 笑う。そして、自分も籠に手を伸ばす。

 オレリアが嬉しそうに笑っている。アンナもだ。ボドワンも戻ってきて、お茶を飲んでいる。


 寮とは違う賑やかさ。


 食事が終わると、オレリアとアンナ、それにリディもやってきて、やはりテキパキと皿を下げていく。

 テーブルの上が片付いた後に。

「ブランドブールってさ」

 と、クロードが言った。

「一度行ってみたいんだよね。汽車を、王都とは逆に乗ればいいんでしょ?」

「自分で切符が買えるようになったら行ってみな」

 静かにカップの中を啜りながら、アルフォンスが受ける。

「俺も仕事で行っただけだな。商談に手間取ったから、城砦の見学はできなかったけど」

「それそれ。見学に行ってみたい。本の挿絵で見ても格好いいんだよね。実物みたいじゃん?」

 ねえ、とクロードが視線を向けても。リュシアンは静かに座ったままだ。

「……喋らないって本当だったんだ」

 ぶうっと頬を膨らませて、クロードは椅子から飛び降りる。

「御馳走様ぁ! 帰るね!」

 たっと小走りでテラスを抜ける途中、クロエの横を通る。

 ピン、と引っ張られた。

「クロード!」

 叫ぶ。ふわり、スカートの裾が浮く。

「下着は白ー!」

「いい加減にしてよ!」

 一瞬のうちに涙目だ。

 彼はそのまま、テラスから飛び降りて、庭を突っ切っていった――道の反対にある、自分の家に戻るのだろう。

 振り返ると、父が目を丸くして固まっていた。アルフォンスはカップの中を啜るふりをして、下を向いている。

 リュシアンは無表情。

 バジルがにやっと立ち上がって寄ってくる。

「ボンネットは白くねえのな」

「関係ないでしょう!」

 もう一度叫ぶ。慌てて出した手は間に合わず、ボンネットはバジルの手の中だ。

 にやにや笑いながら、くるくる回している。

「バジル! 返して!」

 手を伸ばすと、笑いながら掲げられた。

 クロエをすっかり追い抜いてしまったバジルが高々と掲げては、届くわけがない。

「バジル!」

「助けてもらえばいいじゃん?」

 ふふっと笑って見向く先はリュシアンだ。頬が熱くなる。

「喋れないだけじゃなくて、喧嘩も駄目なんだ?」

 あはは、と笑って、バジルがボンネットを宙にあげた瞬間。

 一つ、風が吹いた。

 ふわっとボンネットが浮く。風に乗って舞い上がる。

 あ、と呟いたのは一人ではなかった。

 ラズベリー色のボンネットは、ひときわ高い欅の木の枝に。

「べ、べつに、俺が悪いんじゃないんだからね!」

 バジルが叫ぶ。

「参ったな」

 アルフォンスは苦笑いを浮かべ、椅子を引いた。

「おーい、ロイク! 梯子持って来い!」

「かけるようなところもないだろう。意味ないよ」

 蒼い顔のバジルが鼻を鳴らす。

 ああ、と呟いてクロエは欅の下まで進んだ。

 ラズベリー色のボンネット。デイドレスと揃えて作った、お気に入り。

 見上げていると、横でさくっと葉を踏む音がした。

「リュシアン?」

 頷いた彼は、右手を幹に。水色の瞳が空を向く。

 そこからはあっという間だ。

 リュシアンは右手で少し太めの枝を握った。左足を、窪みにかけた。ひょいっと彼の体が浮く。

 するすると彼は幹を登っていく。

 待てよ、と言ったのはアルフォンスか。

 リュシアンは中ほどまで辿り着くと、幹にしがみついたまま、片腕をボンネットへと伸ばしていた。

「リュシアン!」

 呼ぶ。叫ぶ。

 枝が揺れる。

 水色の瞳が見つめてくる。

 慌てて両手を伸ばすと、ボンネットはそこに静かに降りてきた。

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