#5


 夕刻雨は急に降りだした。まだ梅雨が明けきれていないこの時期、日をまたいではザァザァ突然にやってくる。

 この耳障りな雨音は警察署内にまで届く。おかげで取り調べ室内にいる若い刑事の心境は、更なる悪化の一途を辿るばかりだ。


「どうしたらちゃんと話してくれるのかな?」


「……」


 取り調べを受けていたのは一人の老人。一時間前、一人でうろうろしていたところを警官に呼び止められた。調べると、手に着火器を持っていた。


「あのねおとうちゃん、俺もあんまりでかい声出したくないの。おとうちゃんだって早く家に帰りたいでしょ?」


「……」


「黙ってたんじゃこっちもわかんないの。ずっとそうしていると放火した犯人だって思われちゃっても仕方ないんだよ? わかる?」


「……だからもう何度も言ったでしょ!」


 ようやく老人の乾いた口から声が出る。


「もう一度聞くけど、あのライターはどこで手に入れたの?」

「貰った!」


「じゃあ誰から貰ったの?」

「憶えてねぇちの!」


「男とか女とか、若いとか歳取ってたとか、あるでしょ? どんな服着てた?」

「憶えて無いものは無いって、何回も言ってるでしょ!」


(はぁ……)



 かれこれずっとこの調子である。隣の部屋で一連の様子を『沈黙の刑事長』と呼ばれた男、根岸が伺っていた。口元を覆い険しい表情をしていたが、遂に隣の男へ声を掛ける。


「帰らせろ、これ以上は無駄だ」

「いいんですか?」


 一緒に居た男は信じられないと根岸の顔を見た。目撃者も有力情報も手に入らない連続放火事件、その実行犯らしき人物をやっと見つけたというのに……。


「失礼します。根岸さん、遺体の身元が判明しました」


 ノックと共に慌しく入って来た刑事らしき男、すぐさま根岸に資料を渡す。


「根岸さんの仰った通り、ガイシャは火災で死んだ会社員の婚約者でした」

「間違いないか?」

「歯科医院に歯形が残ってたんです。検視の結果、ほぼ完全に一致しました」

「凶器は判明したか?」

「現在も捜索していますが、何も……」


「……」


 根岸は二つの資料を見比べる。自らも現場に訪れたが、遺体は焼かれ変色している上に、大きな力でズタズタに裂かれ原形を留めていなかった。例えるならば、まるで猛獣にでも食い散らかされたよう。千切れた臓物が散乱しており、辺りは思わず鼻を摘まみたくなるような腐敗臭が漂っていた。もうあの場には向かいたくはない。


(とても人業とは思えん。恨みか、それとも異常者の犯行か……)


 被害者の人間関係を洗ってみたが、有力と思われる容疑者が出てこない。いずれも完全なアリバイがあったからだ。依頼殺人の線も考えてみたが、その筋の情報網からは何も手掛かりが得られなかった。


 結局この死体から得られた情報は、連続放火事件の手掛かりをまた一つ失ったという事だけだった。


(せめてもっと有力な目撃情報があれば……。しかし何故だ、何故誰も見ていない? これだけ大それた事件がいくつも起きて、何故これほどまでに目撃者がいない?)

 

 モニター越しに外へ出される老人を見送りながら、根岸は腕時計を確認する。


「……今日は上がりだ、皆も帰らせろ。何かあったら連絡を寄越せ」

「は、はい」


 二人の男を残し、根岸は部屋を出て行った。


「根岸さん、相当参ってますね」

「間違いなく今一番辛いのはあの人だろう」


 他人に厳しく、それ以上に一番自分へ厳しい鬼刑事。刑事課の長が苦戦を強いられている姿に、二人は先行きの見えぬ不安を募らせるのだった。



──バタン


(……ぐっ……これしきのことで……!)


 廊下で立ち眩みを覚え、壁を支えにして何とか立ち上がる根岸。ここ数日間、碌に眠れてはいない。事件は昼夜立て続けに起き、新たな状況が生まれ、手掛かりだけが消えていく。刑事にとってこれほどの生き地獄は無い。


 そして根岸にとっての戦いは、たった今時間切れという結末を迎えた。今日までに犯人の情報が得られなかった場合、事件が管轄から外れてしまうというのだ。

 

(このまま終われるか! 終われるものかっ!)


 犯人は今も警察を嘲笑うかのようにして身を潜め、罪なき大勢の市民が命の危機に晒されている。先程降り出した夕立は、果たして味方とつくのか、それとも……。


 朦朧として歩いている廊下の先に、一人の人物が目に入った。


「根岸……? 根岸かっ?」


 声を掛けてくる初老の男に、根岸は思わず目を丸くする。


「草間さん……?」

 


 根岸と草間は喫煙室に立ち寄った。煙草を吸わない根岸はコーヒーを飲んでいる。


 かれこれ七年振りの再会であった。草間は根岸が関東にあるこの県に配属されるまで、関西の所轄で世話になっていた先輩の刑事である。知り合いの刑事の中では大分年老いてはいるが、その勘と技量は今も衰えていない。


「しかし草間さん、どうしてここへ?」

「ちょいと調べ事だ。それより署長から聞いたぞ、随分と苦戦してるそうだな」

「……」

「お前にしては珍しいと思ったが。なぁに、長くやってりゃそういうこともある」

「…はい」


 草間は静かに返事をする顔を見て、根岸が大分追い詰められていると感じた。これまで若手の刑事を何人も見てきたが、その中でも根岸は指折りの存在だ。それをここまで追い込むとは、犯人はとんでもない輩に違い無い。


「……江戸時代の話になるがな、この地に飛ばされてくる殿様は皆、泣いて嫌がったらしい。『この国だけは勘弁してくれ』ってな。何故だと思う?」


「……」


「当時ここが化け物の巣窟だったからだよ。それだけ治安が悪かったっちゅう例え話だとは思うがな」


「……何故今、そんな話を?」


「丁度おめぇがその殿様たちと同じ立場にいるからよ、クックックッ」


 趣味の悪い草間流のジョークであった。傷だらけのところへ鞭を打たれるが如く、酷い冗談である。

 しかし根岸はこれに小さく笑った。苦しい時に気休めを言ったところで慰めにすらならないことを、目の前の老兵が一番よく知っていたからである。いかにも草間刑事らしいその態度に、思わず若き関西時代の記憶が蘇り始めていた。


「ま、死なねぇ程度にせいぜい気張れや。上がらねぇ雨は無ぇよ」


「それなら大丈夫ですよ。ついさっき、終わりましたから」

「なんだと?」


 根岸の口から出た言葉に、草間は驚いた。


「事件が刑事課の管轄から外れました。もう警察の出る幕は終わったんです」

「管轄から外れただとっ!? じゃあ誰が事件を引き継ぐんだよ!?」


「……第三者機関です。詳細は知りませんが『イヌカミ』と呼ばれてます」


(イヌカミ、だと……?)


 長年刑事をやってきた草間だが、事件を第三者機関に丸投げするなど聞いたことも無い。『イヌカミ』とは一体何だ……?


「……この県にはあるんです。稀に、警察の手には負えなくなった事件を引き受ける強力な機密組織が……。一度その組織に任せた場合、犯人は……」


「根岸、そこまでにしろ。俺も聞かなかったことにする」

「……は」


 疲れからだろう。柄に無く、いらぬことまで喋る根岸を草間は止めた。


「……でも草間さん。俺は今回ほど、心底犯人が憎いと思ったことはありませんよ。大勢死んだ中には未成年の子供までいたんです、それも一人じゃない、何人も……! 我々警察が世間から無能と思われようが、罵られようが、そんな事はどうでもいい。とにかく、一刻も早くこの手で犯人に引導を渡してやりたい、それだけを、ただそれだけを考えてやってきたのに……それが、急にこんな……!」


「……」


 握りしめられた拳が小刻みに震えるのを見て、草間は窓を開けた。


「見てみろよ。雨、上がったぜ」



 外はすっかり暗くなっていた。入り口で、根岸は草間を見送る。


「ちょっと雨宿りのつもりが、『沈黙の刑事長』の長話で新幹線に乗り遅れそうだ。ま、達者でやれや」

「どうかお元気で。おやっさんならあと十年はやれますよ」

「馬鹿言え、俺はもう定年だ!」


 心なしか、根岸の表情が明るく見える。

 それを確認した草間は安心し、駅へと急ぐのだった。



 なんとか指定席をとることができ、草間は窓から見える地方都市の夜景を望む。


 景色は海が無い以外、普段草間が住んでいる街とそう変わらない。近代化しつつも泥臭さが抜け切らない、そんな場所だ。


(……いい街だと思うんだがな。だからこそ呼び寄せちまうってのもあるのかもな。よくねぇ『何か』ってやつをよ……)


 新幹線が動き出すと草間は座席を倒し、目を閉じてハンカチを被るのだった。

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