第六章 第一部 泉路
フィンが目が覚めると雨はすっかり止んでいた。夜はまだ明け切っていなかったが、薄暗い闇の中でぼんやりと霞んだ森の下生えには朝靄の雫が絡んでいる。
フィンは薄ぼんやりとした微睡の中で、じっとゼノの鼓動を頬に感じていた。ちいさな身動ぎと一緒に涙でくっついた瞼をゼノの胸に擦りつけ、フィンは首を逸らして顔を見上げた。間近で少し傾いだゼノの寝顔は自分よりずっと子供に見えた。
ゼノの匂いは乾いた草と燻った木に似ている。無精髭を眺めてぼんやりとそんなことを思ううち、身体の中をちくちくとしたものが這い上がり、不意に殴られたように目が覚めた。
自分の体の変化に気付いて息が詰まるくらい動悸が早くなる。
呼吸を止めて少しずつ胸から這い出し、ゼノを起こさないようそっと離れた。
少しまだ気怠さは残っているが、身体に籠った微熱はもうどこにもない。抑えた息を大きく吸うと、外套の下に汗と血に似た匂いがした。それに気付いた刹那、足下を失うような動揺と一緒に身体の違和感が押し寄せた。
胸が痛い。下腹部が疼くように熱い。フィンの全身から血の気が引いた。焦って震える指先で外套の下を弄った。身体が無意識にその手を撥ね退け、弓のように反り返る。フィンは声にならない悲鳴を上げて、よろよろと後退った。
頭の中が真っ白になった。なぜ、どうして、そんなはずがない。ぐるぐると言葉が回って何も考えられず、思わず縋るようにゼノに目を遣った。
ゼノはまだ目を覚まさない。間の抜けた平和な顔で眠り込んでいる。
不意に感情が溢れ出た。不安、恐怖、取り返しのつかない罪悪感のようなもの。ゼノに対する苛立ちもだ。それが理不尽と分かっていても抑えられない。
フィンは悲鳴を噛み殺してその場から逃げ出した。
どうしてこうなった。もうずっと郷の薬湯は飲んでいないのに。外套の裾が足に絡んで何度も転びそうになる。フィンの身体は長い旅の後のように、まだ回復の途中だった。
闇雲に駆けるフィンの歩調は潰えた体力のせいでじき緩くなり、それに伴い周囲の様子も目に入るようになった。それほど遠くへは行けなかったが、水音に気付いて無意識に向きを変えた。
目の前に小さな渓流と落差でできた水溜りがあった。
水面に寄って涙でくしゃくしゃになった自分の有様と向き合うと、フィンはようやく頭が回り始めた。そうして事態が心に染み渡るほど、いくら抑え込んでも身体の震えが止まらなくなる。
外套の留め具を外すのに手間取った。使い方に戸惑うのと、指先の震えが儘ならない。脱いで乾き始めた岩の上に置くと、見おろす下腹部が粘液と僅かな血で汚れていた。下着を取るのにありったけの勇気が必要だった。
震える指で恐る恐る触れる。身体が跳ねた。フィンはそのまま頽れるようにしゃがみ込んだ。冷たい水に浸かって蹲り、声を上げて泣き出した。
郷を出てから薬湯は飲んでいないのに。飲まなければ女にならないと思っていたのに。薬さえ断っていれば、意思が優先して男になるはずだったのだ。
ゼノは寒くて目覚めた。身体の上にあった重みも温かみも消えていて、フィンクがいないのに気が付いた。寝ている間に転がり落ちたかと斜面を覗き込んだが、見当たらない。アタランテの不在を愚痴りながら、ゼノは改めて辺りを見渡した。辺りはいつか居留地を出た頃合いの空の色だった。
見渡すと、雨を凌いだ岩壁に沿って森の樹々が薄くなっている。目を眇めてその向こうを眺め遣れば、先は開けて平地になっているようだ。
ゼノは強張った身体を解しつつ、岩に手をついて歩いて行った。
樹々の間にフィンクを捜すうち、不意に目の前が空になった。
大岩の先は樹のない平地で、ちょっとした広場になっている。だがその先は何もない。空に抜ける崖縁だ。朽ちた柵の残骸が申し訳程度に立っている。
ゼノはてくてくと平地を横切り、おそるおそる崖の端から下を覗き込んだ。遥か眼下に木立ちの天辺があった。脚が萎えるほどの高さだ。
うへえと声を上げて後退る。何とはなしに振り返ると、伝い歩いた大岩の続きには大人が立って通れるほどの横穴が開いていた。
その三方は木の枠で縁取られ、両脇に明り掛け、上には干し草と紙の飾りが渡してある。何のことはない、おそらくこれが目的の祠だ。
「案外近かったんだな」
ゼノはしばらくその横穴を眺め、気が抜けたように呟いた。
頃合いからしてベダは外に出てくるだろうか。それとも寝過ごして機会を逸してしまったか。何よりフィンクがどこへ行ったか気になった。容体が軽くなっていれば良いのだが。
約束した手前、フィンクとはもう少し一緒にいてやりたい。いつもなら寿命差に怖気てしまうところだが、フィンクならきっと関係の終わりにうなされることもないだろう。そんな気がした。
ゼノはふと、祠の暗がりの中から見つめ返す虚ろな眼に気付いた。子供ほどの背丈だが、樽のように身体が太い。だが、どうやらベダではないようだ。
目を眇めていると、相手が先に進み出た。
おそらくエネピアが言うところの居留地から来た
「それにしても――」
ヴァレイが祠の外に出た。短い脚をわさわさと掻いて、滑るように近づいて来る。背丈はゼノの腰に届かず、四肢は短く飾りのよう。身体にはまったく括れがない。ただ耳だけが取って付けたように突き出している。
ゼノはヴァレイを眺め遣り、その姿に呆れ返った。この変装で受け入れられるなら何だってありだ。耳さえあればどんな姿でも構わないのか。
「
だが、ベダの警護ボットならもう少し人に似せることもできたはずだ。ゼノは首を傾げつつ、できれば考えたくもない面倒な予感に顔を顰めた。
それが確信に変わったのは横穴に現れたもうひとつの人影を見たからだ。おそらくヴァレイが呼んだのだろう。皆どうしてこんなに早起きなのか。
舌と唇をこねて鳴らすような汁気の多い音がした。発したのは横穴の縁に立つ背の高い
「学芸会以下のコスプレだな。君たち真面目に変装する気はなかったのか」
ゼノは呻いて頭を掻いた。
「遠路遥々と言いたいところだが、
岩場の水でおそるおそる身体を洗い、泣き腫らした顔をごしごしと擦り、それでもまだぼろぼろと泣きながらフィンはようやく歩き出した。
ゼノの外套を羽織ると心地悪さを覚悟した服をすぐに乾かしてくれた。ただ、外套の留め方がどうしても分からず、袖を通して引っ掛けただけだ。
フィンの足は躊躇いがちにゼノのいる方を向いていた。いくら迷ったところでフィンの帰るところはゼノの居場所の他になかった。
変わってしまったフィンをゼノはどう思うだろう。フィンの変化は二人の関係を改めて問い直すことになるのだろうか。自身の大きな変化にも増して、フィンはそれが不安でたまらなかった。ゼノはまだ自分を傍に置いてくれるだろうか。
悶々と迷いながら辿り着いた、その矢先だった。
『その背格好、ランプレイトとテオチュチュだろう?』
遠くにゼノの声がして、フィンは思わず岩影に張り付いた。身を縮める。覚悟をして来たはずなのに鼓動が早鐘のように内側から胸を打った。
『よもやガラハッドが君らみたいな
何だろう。ゼノが誰かと話しているようだ。
『
唇を鳴らすような湿った声がゼノに話し掛けた。音はおかしな響きだが、どうやらゼノと同じ
フィンは慌てて岩壁を辿り、声のする方に向かって走った。おそらくゼノは件の三人組に遭遇したに違いない。
『まあ、そうだね。ところで君たち、
ゼノの声は揶揄うような呆れたよう響きに思える。一方で相手のぶくぶくとした声はまるで感情が分からなかった。
『古法に則り放置種の支配は起源を解明した者が第一交渉権を得る、この放置世界は我々のものだ』
フィンの視界が不意に開けた。空に断ち切れた崖の手前に均された空き地があった。ここから続く岩壁の横穴は古井戸に通じる祠に違いない。
『馬鹿だな、彼らは自立種だぞ。そんな権限なぞあるものか』
ゼノは鼻を鳴らして相手を睨んだ。
『僕が言うんだから間違いない』
ゼノは危うい崖の手前におり、その前には異様な風体の
『フースーク』
不意に横穴から
『我々はこの群体を
エウリスは身体ごとベダを振り返り、次いでゼノに向き直った。
『お前は不要だ』
エウリスが震えるように首を振って見せる。それに応じてヴァレイが身動いだかと思うと、唐突にゼノの左手が地面に落ちた。
痛みよりもむしろ漂う金属質の臭いに顔を顰めながら、ゼノは切り落とされた肘から先に困ったような目を遣った。
「ゼノ」
思わず悲鳴のように名を呼んで、フィンは岩陰から飛び出した。視界の隅には時を同じく、血の気を無くして本道を駆け登るメティスたちの姿があった。
喘ぐように駆けながらフィンの目はただゼノを追う。
『そんなに走ると転ぶぞ』
不意に目が合い、ゼノが言った。何と言っているのか分からない。
ヴァレイがフィンに気付いて振り返る素振りを見せた。
『あ、こら』
左の肘を押さえてゼノがヴァレイを蹴り飛ばした。
何かが閃いたように見えた。
ゼノの身体が真っ二つに裂け、後ろに倒れ込んだ。
朽ちた柵の欠片に当って仰向きに放り出されたかと思うと、ゼノの身体はそのまま崖下に向かって真っ逆さまに転がり落ちた。
悲鳴とも絶叫ともつかない自分の声を聞きながら、フィンは崖の先まで駆けようとした。押し退けるようにヴァレイの側を走り抜けるや、異様に細い腕が伸びてフィンの足に絡みついた。
地面に叩きつけられ、フィンの息が詰まる。
崖先から半ば身を乗り出したフィンは、構わず樹々の頂を覗き込んだ。ゼノの身体はもうどこにも見えない。霧のような血が微かに辺りに漂っていた。
容赦なく後ろに身体を引かれ、フィンの剥き出しの手脚は地面に擦り削られた。そのままヴァレイの方に引き摺られて行く。
獣のような声を上げて藻掻き抗うフィンの横に、ゼノの左腕が落ちていた。咄嗟にそれに手を伸ばし、フィンは無我夢中で抱え込んだ。
「その子を放せ」
メティスの強い声がしてヴァレイの動きが止まった。
「これ以上、何者も傷つけるな」
駆け寄りフィンの間に割って立つ。
エウリスが小刻みに頭を振りながらメティスに目を向けた。まるで舌打ちするような音を漏らすと、ヴァレイがフィンから手を放した。
ゼノの腕を抱えて身体を丸めるフィンを、エウリスがじっと眺めている。その気配だけが背中から怖気のように伝わって来た。
不意に稚児が指を吸うような音を鳴らすと、エウリスはヴァレイを伴って横穴に引き返した。
『どうしてあんなことを、彼に手を出すなんて』
横穴の縁でベダが呆然と叫んだ。
『あれは
エウリスは何ごとか告げて横穴を潜った。ベダは岩壁を背を押し付けて辛うじて身体を支えているようだった。倦み疲れたような虚ろな目を呆然と崖の縁に彷徨わせている。
メティスはその姿を一瞥するとフィンの傍らに膝を突いた。
フィンは気を失っていた。擦れた手足は血と土に塗れ、丸めたその身体にゼノの左腕を抱え込んでいた。フィンはその腕を決して放そうとしなかった。
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