第五章 杜の女王

 天を指した古杉の巨木が格子のように小径の周囲に突き立っている。遥かな天井の隙間に覗いた空は小さく、細切れに散らばっていた。辺りの空気は重く、硬く、どこまでも冷えていて、まるで霧に包まれているような湿気があった。

 霊山八峰の一帯は幾百あるいは幾千年ものあいだ樹蟲衆エルフの守り人が手を入れて来た禁足地だ。樹の根も枝葉も森の風さえも、まるでひとつながりになった生き物のように動きあるものを絡め取る。

 しんとした無音が却って耳を痛くするような森の中、フィンは延々と続く細い坂道を登っていた。丁寧に組んだ横木の段差は比較的歩き易いが、隣を行くゼノは歩幅の違う長い脚を持て余し、ややもすれば遅れがちだった。麓で坂道を見上げて泣き言を洩らし、登り始めて早々にぜいぜいと喘いでいる。

 前を行く大社の案内役が時折ゼノを振り返った。礼儀正しく情動を抑えながらも、少し呆れたように耳先を振った。もちろんゼノには分からない。

 フィンはゼノの手を取ると、しょうがないなと引いて歩いた。


 二人がエネピアたち壌血衆ゴブリンと合流してから三日が経っていた。

 フィンといえば夜更かしの翌日に熱を出し、以来ずっと気怠さを引き摺っている。今なお体調は万全といえないが、あの夜以来フィンの高揚感が萎えることはなかった。

 皆はフィンに忌子の素養があると知ってなお普通に接してくれていた。フィンが寝込んだ理由の半分は、そんな皆と顔を合わせるのが恥ずかしかったからでもある。

 もちろん、ゼノ以外はちゃんとそれに気付いて口を噤んでくれていた。ゼノは気も利かず不器用だったが、恐らく精霊が窘めてくれたのだろう。アタランテは気遣いのできる精霊だ。いちど話してみたかった。できればゼノ抜きでこっそりと。

 エネピアは王里オードの路筋に使いを出し、二人と合流するはずだったガリオンを呼び戻した。黒顎衆クラギの小屋に呼び寄せて、今の状況をすっかり話して聞かせた。居留地で働くガリオンはエネピアの姉の知己でもあって、エネピアのことも聞き知っていたようだ。

 だが、件の三人が禁足地に迎えられたと知ったガリオンは大いに困惑した。短く刈った顎鬚を仏頂面でしごきながら、しばらく耳を萎れさせていたほどだ。

 それも仕方のないことだろう。ゼノの渡した交易符も役立ち、二人を監禁したのがやはり三人組による足留めだと聞き出せた後だったのだ。同様の拠点を潰して回り、居所を絞り込もうとした矢先だった。

 ともあれこうして関係者は頭を突き合わせ、御山に迎え入れられた居留地のベダ、エウリス、ヴァレイの三人をどうするか、改めてその対策が協議された。

 御山は禁足地だ。守護職といえど許可なく社には踏み込めない。しかもどうやらこの一件で、エネピアと宮司の関係が拗れ、立ち入りを拒まれているらしい。エネピアの姉に対する思いは相当に複雑な様子だ。

「僕が行って話して来よう」

 ゼノは事もなげにそう言った。

「拒んで公になったら困るのは向こうだろう?」

 案外、悪いことを考えている。

 高台衆ハイランダーの要請なら宮司も立ち入りを一考せざるを得ない。それはエネピアもガリオンも同意見だった。それこそゼノを拒んだり、いたずらに返事を引き延ばしたりすれば勘ぐられてしまう。

 ただ宮司と三人の関係性が分からない以上、簡単に彼らの引き渡しに応じるとも思えなかった。大人数の入山は断る理由になり易い。エネピアたちは間違いなく拒まれるだろう。とはいえゼノだけでは危なっかしい。それが最大の難点だった。

 ガリオン自身が同行できれば問題はなかったが、それでは居留地との連絡役が不在になる。万一の場合また最悪の事態を考えると、迅速に居留地の高台衆ハイランダーに助力を請う必要があった。

「そんなの最初から決まってる」

 皆の耳だけが忙しなく動く沈黙のなか、フィンは理路整然と皆を説いた。

 ゼノの世話ができて宮司に警戒を抱かせない立場の者なら最初からここにいる。言葉や礼儀に拙いゼノの御付きであれば一人として数えることすらしないだろう。むしろ誰が一緒に行くかなど初めから選択肢なんてなかった。

「考えたってしょうがないでしょ」

 フィンが呆れてそう言うと、皆の耳は同意に折れた。当然、話の内に皆の耳に滲み出たフィンへの打診は隠しようがなく、これも予定調和の内だった。

 ただフィンの合意が得られた途端、皆は一斉に御山の配置や社の見取り図、計画や行動などといったものをフィンに詰め込んだ。当事者であるはずのゼノは、まるで他人事のように隣できょとんと眺めているだけだった。


 フィンはゼノの手を引いて、首が空を向くほどの坂道を登り切った。苔生した木組みの門を三つほど潜ると、不意に周囲が大きく開けた。

 二人の視界には幾つもの建屋が並んでいる。屋根が広く、床が高く、縁を回廊が取り巻いている。それぞれの棟が渡り廊下で繋がっていた。

 目の前の数段を登った軒先に、白く紋を抜いた藍色の大きな扉幕が吊るされていた。これが御山の大社だ。

 建物に見蕩れていたせいでフィンは階段の横木に蹴躓いた。咄嗟にゼノの袖にしがみつく。ゼノは何か言いかけて、ひと息置いてフィンを小突いた。

「あんまり浮かれんなよ」

 ゼノの丸い耳は少しも動かないが、きっとフィンの微熱に気付いているに違いない。フィンは高台衆ハイランダーの仕草を真似てゼノに小さく頷いて見せた。

 案内役が二人に待つよう耳で知らせた。自身は人を呼びに行く。案内役の壌血衆ゴブリンは先導する間もずっとゼノに意識を向けていた。

 注意深く見れば警護士と思しき御務役がそこかしこにいる。思いのほか警戒されているようだ。なのに、やって来たのがこんな惚けた高台衆ハイランダーと通訳の子供だけだと知ってどう思っただろう。フィンは意地悪くほくそ笑んだ。

 大社の建物の周囲には、ゆったりした白い作務衣の御務役が行き来していた。見たところ壌血衆ゴブリンがやや多い程度で、種族も男女も万遍なくいるようだ。御山には各郷里から御務役が出されており、移動がないのは守護職だけのはずだ。

 思えば宮司であるエネピアの姉は生涯をこの山で過ごすことが決められている。名誉職だが自由はない。フィンには到底我慢できないだろう。フィンも郷を逃げ出さなければ、それと似た人生になりかけたのだ。

「何だろう、あれ」

 物珍し気に辺りを見渡していたフィンは、ふとそれを見てゼノを突ついた。

 森に穴が開いている。樹上の中ほどで綺麗に丸く枝葉が刳り貫け、向こうに空が見えていた。

「なんだかなあ」

 そう呟いたゼノの表情を覗うと、口許を顰めていた。呆れているのか怒っているのか、ゼノには思い当たることがあるのだろうか。何となくそんな気がした。

 フィンは改めて樹々の大穴に目を遣った。周囲にいるのはみな揃いの白装束だが、穴の開いた樹の辺りにいる岩焔衆ドワーフは厚手の黒い半纏を羽織っている。あれはたしか治山職だ。

 あの羽織を着た岩焔衆ドワーフの職人一派が川筋の調整作業で発破を使うのを、フィンは郷の皆に連れられて観に行ったことがある。おそらく御山で大掛かりな整備があるのだろう。

 前で扉幕を手繰る音がした。振り返ると宮司が姿を見せたところだ。身体も心も鋭く削がれた怜悧な壌血衆ゴブリンの女の人だった。長身で姿勢がよく、御付きの樹蟲衆エルフより頭ひとつ抜けて見えた。

「ようこそ八峰祭祀堂へ。宮司のメティス・グルンシルトです」

 情動の自制が強く、耳の動きが極端に少ない。それでもフィンはゼノを見るメティスに幾つもの押し殺した感情の断片を見て取った。一見して超然とした宮司の内側には何か入り組んだ想いがあるようだ。

 この人が御山に余所者を招き入れたのだ。フィンは正面からメティスを見上げた。エネピアの危惧、ゼノとガリオンの目的、それらの最初の障害が、このメティス・グルンシルトだった。


 互いの名乗りもそこそこに、フィンとゼノは社の奥に通された。

 二人は先導するメティスの凛とした背を追って延々と廊下を歩いた。束ねた長い黒髪に、ゆるりとした川面のような艶が揺れている。

 ゼノの世話係と伝えたフィンは、強く主張するまでもなくゼノと同格の扱いを受けた。子供扱いされなかったことがむしろむず痒く、おかげで微熱にぼんやりした頭も多少の緊張感を取り戻した。

 表の扉幕を手繰り上げてから三つの棟と二本の廊下橋を抜けた。擦れ違う者はみなゼノに関心を露わにしながらも目線を外して通り過ぎて行く。

 どの場所も乾いた木と燻した香の匂いがした。建屋は樹蟲衆エルフに寄った造りだが、棟ごとに香の匂いが異なるのは壌血衆ゴブリンの仕様だろうか。

 ゼノは物珍し気に辺りを見渡し、勝手に仕切りの幕を捲ろうとしてはフィンに引き戻された。落ち着きがないのはフィンも同じだが、場を読めないゼノはそれ以上だ。恐らくその様もメティスは背中で見ているに違いない。

 フィンは居住まいを正したものの、その背を見て歩くのも少々気まずかった。むしろゼノには見るなと言いたかった。

 メティスは袖を落とした白装束に黒と青の帯締め姿だ。エネピアたちと同じ壌血衆ゴブリンにしては布地の多い方だったのだが、脚抜きの切れ込みが腰の下まであって、艶やかな腿の裏が目に入るのだ。

 それが何とも落ち着かなかった。ゼノには絶対目の毒だ。

 そうこうするうち二人が通されたのは、思いのほか小ぢんまりとした部屋だった。

 天井は帆布で四方は白木の肌。広くはないが調度品がないため間が大きく感じられる。中には切り株を磨いたような低い木の椅子と布張りの小卓が、それぞれに用意されていた。

 メティスは二人に対面に座を勧めた。他に人はおらず、部屋の隅に論算鬼ノームが一体いるきりだ。

 論算鬼ノームは真っ白な頭巾を被って耳を隠していたが、そもそも性別も情動もない。要職の側仕えを務める記憶と計算の専門職だ。岩焔衆ドワーフの近縁という話だが、フィンも見るのは初めてだった。

 席に着くなりゼノは頭の手拭いを解いた。もちろん前もって告げていたからこそ極秘裏の入山が許された訳だが、面と向かってその耳を見て、さすがのメティスも多少ならず動揺した様子だった。

 フィンは言葉以外の通訳としてメティスに認識されているのだろう。彼女は何も言わなかったが、その耳先はじきフィンの目の前で平静さを取り戻した。

「ご覧の通り人は払った。こちらに隠し立てをするつもりはない」

 メティスはいきなりそう言って、ゼノが要件を切り出す前に釘を刺した。先ほど以上の挨拶も、説明も弁解も何もなかった。

高台衆ハイランダーとしての仕来りは尊重するが、当山での諍いを認めるつもりはないから、そのつもりで」

 言い切るメティスの情動はむしろ、怒り畏れ諦め静観といった混沌とした感情の中に本性を埋もれさせている。フィンには非常に読み解き辛い。

 ただしゼノにとっては端から関係がなかった。

「妹さんにそっくりだ。あっと、そういうことは言っちゃいけないんだっけ?」

 悪びれもせず的外れな言葉をメティスに返した。

 驚いたことにメティスの耳がほんの少し揺れた。エネピアの一方通行ではなかったようだ。血縁関係ならではの周囲からの目が、却って姉妹の仲を近付けているのかも知れない。改めてメティスの容貌を見れば、確かにそんな気がする。

 メティスの瞳はほとんど色のない金色だが、左眼に掛かる髪のひと筋が青紫に染められており、それも合わせてエネピアに似ていた。もちろんその体形も含め、遥かに大人びてはいる。

 そう思いつつ、フィンは慌ててゼノを小突いた。ゼノもおっとり我に返る。

「ああ、うん。諍いをするつもりは元々ないんだ。見ての通り丸腰だからね」

 メティスの耳は相変わらず読み取り辛いが、その言葉には微かな不審と不信が強く出た気がした。

「とりあえず、ここに来た三人を引き取りたいだけなんだが、連中と話をさせて貰っても良いだろうか」

 ゼノは素直にそう切り出した。メティスが前置きを省いた以上、探りを入れるような前段は確かに意味がない。もっともゼノにそんな腹芸をさせるなど、きっと端から無理だっただろう。

「判断は先の客人に委ねることになっている。合意に時間を要する故、しばしお待ちいただきたい。もちろん逗留の部屋は用意しよう」

 フィンはその対面の答えを引き伸ばしと捉えたが、ゼノは明後日の方からメティスに切り返した。

「知っていたら聞きたいんだけれど、ベダ? の様子はどう」

 メティスが一拍、答えに迷った。

「さて同じ壌血衆ゴブリンとしては読みきれない方だが、私の感想で良ければ、少し体調が思わしくないように思う」

 そう言ったメティスはゼノに探るような感情を向けている。

「そいつは心配だな。あいにく他の人は僕もよく知らないんだが、先にベダと話せたりしないかな」

 不意にメティスがフィンを見た。その耳先はゼノの真意を問うものだったが、ゼノの問い掛けは打合せにもなかったものだ。フィンにはゼノが見たまま聞いたままだと応える他ない。

「生憎ここにはいらっしゃらない。皆この社より北に登った古い天露アマツユの祠に籠っているのだ。エウリス殿が井戸に興味がおありで、我らも含めて人払いをされたいとのことだ」

 少なくともメティスの答えにも嘘の気配はなかった。正直、フィンにはこの状況がよく分からなくなってきていた。熱のせいもあって頭が上手く回らない。

「ただ、ベダ殿は明け方頃に祠の外で一息ついているのをよくお見掛けする」

 気付けばゼノがフィンを振り返って目線で何かを訊いている。それはメティスの信憑性ではなく、おそらく井戸の祠の位置についてだ。フィンは予めエネピアから御山の地図を見せられていた。

 御山の井戸は幾つもあるが、大社の北でここより高地には三つほどある。そのうち一つは大きく古いが薬師の源泉としては疾うに閉鎖されていた。人の行き来は途絶えている。おそらくそこが、三人の籠る祠だろう。

 フィンは顎を小刻みに引いてゼノに頷いて見せた。これは高台衆ハイランダーの同意の仕草だ。メティスは何も言わなかったが、フィンとゼノのその遣り取りを興味深げに見ていた気がする。

「それじゃあ、僕らがここに来たことはいつごろ伝えても貰えるだろう?」

 ゼノがメティスに訊ねる。

「毎朝お客人の都合を伺いに行くことになっている。その折では如何か」

 その答えにゼノは頷いた。

「それなら今日はゆっくりさせて貰おうかな」

 頷くだけでなく言葉でもメティスに伝えたが、ゼノは少し調子に乗っている。

「できれば静かな部屋を貸して欲しい。連れの具合があまりよくないんだ」

「ゼノ」

 フィンは慌てた。熱は上がっているし調子がよくないのも確かだが、ここに来てそれを言い出されては堪らない。

「医者の手配はよろしいか」

 メティスがそう追い打ちを掛けるが、フィンは必死にゼノに首を振った。

「うーん、それはもう少し具合を見てからにしよう」

 ゼノは小さく首を竦め、渋々ながらそう言った。

「食事をいただけると有難いな、ついでに夜食も包んで貰えるともっと嬉しい」

 ゼノはメティスを振り返り、そう付け加えて笑って見せた。


 ゼノとフィンクは離れに部屋を与えられた。用を聞くための呼子はあるが、辺りに人の通る気配はない。ゼノの我儘もあっさり通され、すぐに食事も用意された。

〈監視もいないようですね。もちろん知覚範囲には、ですが〉

 アタランテはゼノにそう宣言すると、早くフィンクの容態を診るよう急かした。ここに至って増えた心配事がそれだった。気丈に振舞っていたフィンクの様子が目に見えて悪化したのだ。

 とはいえフィンクは身体を拭くにも手伝いを拒み、医者をと言っても頑なにそれも拒んだ。ゼノが熱を診ようと額に触れることさえ嫌がっている。

「ねえ、宮司様の話はどういうこと? どうして協力的だったの?」

 しかも途方に暮れるゼノとアタランテに向かってフィンクはあくまで強気だった。

「とりあえず横になれ、そうしたらちゃんと説明するから」

 そうした押し問答の末、ようやく渋々と布団を被ったほどだ。

「さあ早く」

 そのまま見上げて急かして来る。ゼノは頭を掻いてフィンクの傍に座り込んだ。フィンクの赤い頬を溜息混じりに眺める。

「宮司様は連中が手に負えなくなったんだよ。だから僕を御山に上げた。脅迫されているようだしね、大っぴらに助けてとも言えないだろう」

「脅迫? 霊山八峰の御山の宮司様が?」

 フィンクは目を丸くして見せた。知らぬ間に高台衆ハイランダーの表情を覚えている。ゼノはその様に口許を綻ばせた。

「ここの樹に大きな穴が開いてただろう? あんな子供じみた真似をするなんて僕も思わなかったが、目の前であんなのを見せられたら宮司様も困るだろうな」

「あれって、そうなの?」

 フィンクにその穴の説明をしつつ、もっとスマートなやり方なんて幾らでもあったのに、とはゼノも言葉を呑み込んだ。

 出会い頭に戦力差を誇示するなど、同じ地球原種アースリングとして見ていないのか、文化レベルを見下しているのか。まるで蛮人のような扱いだ。

「ゼノもそんなことできるの?」

〈やってみますか?〉

「やらないよ、そんなこと」

 ゼノはフィンクの額を小突いて口許を顰めた。

「でも宮司様は何だってそんな奴らを御山に上げたんだろう」

 フィンクの困惑はゼノにも分かるような気がする。メティスの超然とした佇まいは一見して誤りさえも無縁に見えるだろう。

「案外フィンクと似た理由かもね」

「ぼくと?」

 フィンクはきょとんとしている。

「たぶん宮司様が相手にしていたのはベダだけで、そのときは上手く行っていたんじゃないかな。その彼が主導権を奪われたんだろう。エウリスだのヴァレイだのが主犯だな、きっと」

 枕にはみ出たフィンクの耳がきゅっと縮む。

「何とかできそう?」

〈何とかできますか?〉

 二人に詰められゼノは口を尖らせた。

「僕は丸腰で来たからなあ。口で何とかなればいいけれど、そもそも彼らがどうしてこんな所に来たのかもよく分かっていないし――」

 ゼノは愚痴をこぼすように呟いた。

「結局はそこかあ」

〈皆の話からするに宗教的な拠点という訳でもなさそうですし〉

「そもそもここには天露アマツユとかいう井戸があるくらいなんだろう?」

 ゼノはまたフィンクに問い掛ける。

「僕らの薬の元になる水だよ。それがないと大変なことになると思う、たぶん」

 フィンクの言葉も語尾は自信なさげだ。あまりに慣習としての歴史が長く、明確な理由が埋もれてしまっているのだろう。それこそメティスに訊ねてみれば何か分かるかも知れない。

〈聖地の霊薬や護符の配布は信仰維持の手段としてそう珍しくはありませんが〉

「それを飲んだらフィンクも良くなるかな。宮司様に貰ってこようか?」

「やめて」

 フィンクが大声を出して飛び起きた。引き留めるようにゼノの腕を掴む。顔が熱で真っ赤に茹で上がっていた。呆気に取られたゼノに気付くと、フィンクは視線を彷徨わせ、再び頭から布団を被った。

「お願いだからやめて」

 くぐもった声にゼノは頭を掻いた。

〈そんなに苦い薬なのかな〉

 確かにフィンクもエネピアも天露アマツユの霊薬には一家言ある様子だった。

地球原種アースリングの宗教にはある種の興奮剤を用いるものもあったようですが、そういったものでもないでしょうし。やはり社会的な要所として注目したのでは?〉

〈だけど人類版図ガラクティクスの貿易商がそんな迂遠なことをするかな〉

「ともかくフィンク、思い当たる井戸の場所を教えておくれよ」

 面倒になって推測を放り出し、ゼノはフィンクに声を掛けた。

「どうして?」

「宮司様が朝に都合を伺いに行くって言ってただろう。だからそれまでにベダを見つけて話をしたい。他の連中が何者かも知っておきたいしね」

 フィンクは布団から頭を出して、ぽかんとゼノの顔を見上げた。

「ベダは信用できるの?」

「宮司様もそんな感じだったろ?」

 メティスの耳は情動が読み難いのだろう。それが生来のものか鍛錬の賜物かは分からないが、フィンクは情動でも言葉でもない遣り取りに気が付けなかったらしい。確かにこうした駆け引きは耳だけを見ても分からない。

「それなら、もう陽が落ちる」

 起き上がろうとしたフィンクをゼノは布団ごと押さえ付けた。

「病人は留守番だ」

「病気じゃない」

「フィンク」

「置いて行くなら井戸の場所は教えない。逃げたって大声をだすからね」

〈連れて行きましょう〉

「君まで」

 ゼノは咳払いをして話す相手を切り替えた。

〈君まで何を言い出すの〉

「ねえ、アタランテはいいって言ってるんでしょう?」

 熱を出しているのにフィンクは耳聡く感が良い。

〈フィンクの体調は心配ですが、私の時間がなくなりました〉

〈こんな時に断絶域か〉

 ゼノは宙に向かって顔を顰めた。

〈ええ、たった今。私の端末はあと一時間ほどで食い尽くされます〉

 ゼノにはアタランテの意図が見て取れた。フィンクが一緒なら無茶はしまいと踏んだのだろう。もとよりそんなつもりもなかったが、フィンクがこのまま大人しくしている保証もない。むしろこの顔は絶対に何かやらかすだろう。

「わかったよ、置いてかないからそんなに睨むな」

 ゼノはフィンクに向かって大仰な溜息を吐いた。少し考え、床に放り出していた外套を取り上げる。

「ほら怒ってないでこれを着て、少しはましにしてくれる」

〈いまさら規定条項を説明する必要もないかと思いますが〉

〈しかたないだろ〉

 フィンクは床から這い出して怪訝そうにゼノの差し出した外套に袖を通した。

 不意に外套から吹き出した風がフィンクの髪を弄んだ。ゼノの足まであった裾が膝丈にまで縮んで行く。驚いて竦むフィンクの全身を眺めると、ゼノは前に屈んで長過ぎる袖をたくし上げた。

「さすがに丈が合うまでもう数年か十数年は掛かるな」

「すぐに大きくなるよ」

 フィンが口を尖らせる。

 ゼノの外套は衣服というより分子生物化された多機能外皮だ。多少の生体保護機能もある。ただし身体の外側から快適性を保つのがせいぜいで、フィンクの体調を緩和することはできても治療まではできない。

 最低限の保身として居留地から持ち出した装備だが、当然フィンクへの貸与は異種接触憲章に反していた。

「少しはましに感じるかも知れないが、治ったわけじゃないからな」

 言われてフィンクは外套が暑くなく、むしろ身体の熱を抑えていることに気が付いた。調子に乗って外套のあちこち調べるうち、今さらながらゼノの匂いに気付いて耳先を赤くする。

「あんまり変なところを触ると裸になるぞ」

 ゼノはそう言いながら扉幕に擦り寄った。少し手繰って辺りを伺う。メティスが言外に示した通り外出を咎める者はいなさそうだ。

 ゼノが湿った風に耳を澄ませると、社の外には雨音がした。


「ゼノ、こっち」

 フィンはゼノの手を引いて急な斜面に促した。夜目は利いても視界は悪く、入り組んだ足下は暗い澱みに沈み込んでいる。樹の根を手掛かり、足掛かりに、二人は下生えを登って行った。

 フィンが麓で見た地図によれば、閉鎖された天露アマツユの古井戸は恐らく巨石の下に掘り抜かれた大きな祠だ。三人を匿う余裕も十分にある。

 もっとも薬師の行き来が絶えて久しく、山道は整備されていない。二人の離れからは距離も近いが、却って道が遠い。結局、相変わらずの山歩きを選んだが、今夜は足場が悪かった。

 雨が二人を追い立てる。とはいえ明け方までには止みそうな気配だ。フィンがそう告げると、ならば先に雨を凌ぐ当てを探そうとゼノは言った。

 上の岩場ならそんな場所もあるだろう。行くならこちらの斜面を横切る方が早い。フィンは荒い息の合間にゼノの手を引いた。

 アタランテには時間がない。ゼノと言葉が通じるのもあと僅かな時間らしい。だがフィンにはこの夜の間に打ち明けなければならないことがあった。

 とりあえず雨を凌げる岩場に着いてから。落ち着いてからにしよう。その方がきっと、ちゃんと話せる。フィンはその告白を少しずつ先延ばしにしていた。

 雨が身体を重くする。ゼノの不思議な外套で体温は保たれているものの、フィンの動作は目に見えて緩慢になっていた。

 頭の内側に籠った熱がフィンの焦りを掘り返した。ずっと燻っていた不安だ。それは昨日今日の話ではなく、ゼノに居場所を貰ったときからずっとあった。もしかしたら、それより前からあったのかも知れない。

 本当に自分でよいのか。がっかりして置いて行かれはしないか。本当はまだ子供だと知ったらどう思うだろう。それでも一緒にいてくれるだろうか。

 それは、嬉しくて嬉しくて浮き足立ってしまうのと同じくらい、重石になってフィンの足をずっと地面に縫い留めて来た。考えるのを忘れようとしても夢に見るほど不安だった。いま、そのしっぺ返しがやって来たのだ。

 身体が熱い。熱いのに震えている。頭に石を詰め込まれ、考えることに使う隙間がどんどん小さくなっていく。

 フィンは木の根に蹴躓いて地面に突っ伏した。濡れた苔が頬に心地よかった。

 不意に腋に腕が差し込まれ、宙に掴み上げられた。ゼノに背中から抱え上げられ、フィンは斜面に座り込んだ。

 ぼんやりした目で辺りを見ていると、身体が回ってゼノの背中に乗り上げた。ゼノの身体は雨に濡れていても温かかった。


〈命に別状はありません、恐らく――〉

 そう囁いたアタランテの声も中身は端的になって行く。ゼノは背中のフィンク越しに外套から帯を引き出し、留め具でフィンクを密着させた。斜面を登るために両手を空けておきたかった。

〈私たちはフィンクに嘘――〉

 ゼノは暫く続きを待ったが、もはや脳裏にアタランテの気配はなかった。

 今までの断絶域の間隔から考えるに、続きの話が聞けるのは一〇時間ほど後だろうか。ゼノは諦めて斜面の上に目を眇めた。森は黒々とした夜に溶けて何も見えない。

「何だよ二人とも、誰が僕の愚痴を聞いてくれるんだ」

 溜息を掛け声にゼノは斜面を這い登った。方向は、たぶん合っているだろう。

 運動不足は否定できないが、ゼノに体力がない訳でもない。ただ調子に乗ると身体の中に潜んだアタランテの端子は残らず身体に喰われてしまう。

 本来がゼノひとりで完結した特殊な身体だ。アタランテを住まわせるには汎銀河ネットワークストリームの支援が不可欠だった。

 しばらく斜面を這い進むと黒々とした影が伸しかかってきた。苔生した巨石だ。

 そもそも御山と呼ばれる一帯は独立した岩塊層でできている。土や植生は積み重なった外皮で、御山の本体は太古に埋まった一塊の隆起に過ぎないようだ。

 ゼノが岩壁に沿って周囲を辿ると、人が収まるほど欠け削れた岩陰があった。フィンクを寝かせて雨を凌ぐくらいはできそうだ。

「とりあえず雨宿りだな」

 声を掛けてもフィンクは朦朧としている。

 帯を解いたものの、しがみついたフィンクを背中から引き剥がすには猫から毛布を取り上げるほど手間取った。

 フィンクの横に腰を下ろして水を払いつつ、ゼノは気付いて雫の垂れる自分の前髪を掻き上げた。明かりのない森は何かを孕んだような黒い色をしていた。

 火を熾したいところだが、森ごと焼くならともかく原始的な手法は難易度が高い。外套でフィンクが凍えずに済むなら、あえて困難に立ち向かう必要もないだろう。ゼノは諦めて傍らに蹲った。

 フィンクの赤い頬に手を当てる。熱は依然続いていた。身体が小さく震えている。

 アタランテは命に別状はないと言ったが、フィンクのこの状態がいつまで続くかよく分からない。言い掛けた嘘とは何だろう。何かとんでもないことを間違えているような気がする。

 フィンクの小さな手が彷徨うように動いてゼノの腕を掴んだ。朦朧としたまま抱え込み、そのまま放そうとしない。何か呟いているようだがよく聞こえなった。聞こえても言葉はわからないだろうけれど。

「どうしたもんかな」

 腕を抜こうとしてフィンクの身体を抱き上げた。まだ目の開かない子犬みたいにもがいてゼノの胸にしがみつく。顔を埋めて何か言うのが擽ったかった。

「まあこっちの方が温かいか」

 誰とはなしに言い訳をして、ゼノはフィンクの背をあやすように軽く叩いた。

「心配しなくたって置いて行きやしないよ」

 ゼノは雨の降る暗い森を夜が明けるまでぼんやりと眺めていた。


 *****


 ゼノは傍目に呆れるくらいの楽観主義ですが、その本質は極端すぎる厭世感にあります。それは物理学の極端な世界にも似て、人が感覚的に理解できるものではありません。ただニュートン力学が今も生きているように、彼の一部も分かり易い人間性をもってフィンを案じていました。フィンはゼノの寄る辺なのです。自身に自覚はないかも知れませんが、もしかしたらフィンはそれを感じているかも知れません。

 フィンにとってゼノは感情の共有できない人形のような相手です。ともすれば返ってくるはずのない返事に期待して、一人で喋り掛けているようなものでしょう。それでも二人は手探りで近づいていきました。

 この後にやって来る明けない夜のことも知らずに。

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