第三章 ドワーフの使者

〈それで? 酒場を探してどうするつもりだったのですか?〉

 アタランテの呆れたような指摘は真当至極だった。

〈情報は酒場で集めるのが常道じゃないか〉

 不貞腐れて呟くゼノは茶店の縁台にひとり腰掛けている。何だかよく分からないものを煮出した緑の液体が手許で湯気を立てていた。

〈そのあげく迷子になり掛けたと?〉

 シンは街中で途方に暮れていたところをフィンクに見つけて貰い、じっとしていろと茶店に押し込められたのだ。

〈酔っ払いがいたんだ、酒場は見つからなかったけど〉

〈そんな問題ではありません〉

 ゼノは大仰に溜息を吐いた。

〈何だか君たち、お互い話もできない癖に叱り方が似てるよね〉

「あっ何でお茶まで飲んでるのさ」

 縁台で背中を丸めているゼノに、フィンクがぷりぷりと駆け寄った。

「ここで待っててって言ったけど、路銀を使えなんて言ってないよ」

「熱いし渋いし少ないんだ、これ」

 ゼノが不服げに呟くと奥で岩焔衆ドワーフの店主がじろりと睨んだ。

「無駄遣いすると箱屋行きだからね」

 ゼノの隣に腰を下ろして、フィンクはゼノから椀を奪った。

 大きな里では紹介所で仕事を貰うのが一般的だが、借金癖があるような輩は箱屋と呼ばれる強制斡旋所に放り込まれるのだそうだ。

 道中の集落は労働対価や物品交換で十分だったが、境里サークほどの里になれば通貨も使う。腰を据えるならなおさらだ。フィンクの愚痴にも正当な理由がある。

 途中、漁網の繕いや荷配りで路銀も手に入れたが、街貨幣もあれば便利だろうといった程度だ。それほど熱心に稼いだ訳ではない。

「そういえば居留地を出るとき収蔵庫から少し持ち出して来た」

 はたと思い出し、ゼノは腰の小袋を前に手繰り寄せた。フィンクが興味深げに覗き込むと、中には四角い金属片が雑多に詰まっていた。

「ゼノ、これ」

「意外と大金だったりするのでは」

「船でも買うつもり?」

 フィンクの耳はあちこちに跳ねている。

「そりゃあ凄い」

「でもこれ交易符だから使えないよ」

 フィンクに手渡した茶碗を差して訊ねる。

「これには?」

「使えない」

〈あなたの名前が社会不適合者の代名詞になる日も近いですね〉

「それとね」

 フィンクが茶碗を啜りながら言った。

「五軒ほど宿を廻ってみたけど、居留地の方から来た客はいないって」

 フィンクが少し苦そうな顔をする。ゼノが目敏くにやりと笑うと、その微細な表情を読み解いてフィンクは耳の先を少し赤くした。

〈あなたよりずっと優秀ですね〉

 それはゼノも認めるところであって、ぐうの音も出ない。その場の機転や感情の読み解きなど、フィンクの能力は非常に高かった。

「せっかくの街だし今日は宿に泊まるのかな」

「ぼくらにそんな贅沢できると思う?」

 それもそうだとゼノは肩を竦めた。

「まあ、いざとなったら働けばいいし、ぼくの靴下もあるから」

 フィンクが言う。

「靴下? 靴下なんか何に使うんだ」

樹蟲衆ぼくらの靴下は売れるんだよ」

「またマニアックなことだな」

樹蟲衆エルフの微生物培養の話は居留地でも聞きましたよ〉

〈靴下で?〉

〈靴下で〉

「流行りものが高値のときは蟲を変えたりするけど、子供の方が混じり物が少ないから高く売れるんだ」

 フィンクの赤い耳の先を見て、ゼノは知らず口許が緩んだ。はにかんでいるのか自慢しているのか、その両方だろうか。気付いたフィンクが慌てて耳を隠した。

「ぼくはもう大人だけどね」

〈いっそフィンクに養って貰おうかな〉

〈それなら私はフィンクを宿主にします〉

「もちろん宿は論外だけど」

 フィンクはゼノに釘を刺し、少しうーんと考え込んだ。

「それに旅小屋も少し遠くで探さないといけないと思う」

 おそらく思案の耳をしてフィンクは呟く。

「大時化で船が何隻も壊れたらしくて、そのせいでこの辺りの旅小屋は一杯なんだって。荷を流した人も多いみたいだから、紹介所の札も少ないかも」

「野宿の上に職もないということだな」

「仕事があったってゼノは何の役にも立たないけどね」

〈フィンクには同情を禁じ得ませんね〉

〈何なの君たち、僕を苛める同盟でも組んでるの?〉

「野宿はいいけど道端では寝ないんじゃなかったっけ」

「あたりまえでしょ。少し戻って海辺の方か、里の先に行って山側の小屋を探さなきゃ。何を食べるかも決めないといけないし」

〈ゼノ〉

〈おや君もとうとう僕をその名で呼ぶようになったのか〉

〈どうせ千も万もある名のひとつでしょう。それより断絶域に入りました。私のバックアップはあと一時間です。今の内にフィンクに話を。夕食を食べられないかも知れませんよ〉

 ゼノは口許を顰めて頭を掻いた。

「先に食事を決めよう」

高台衆ハイランダーは食いしん坊だよね。それともこんなのはゼノだけ?」

 フィンクが笑う。

「この先の狩場は壌血衆ゴブリンが管理してるそうだから、札を置いて行かないと。どっちにしたって獲るのも捌くのもぼくだけど」

「頼りにしてる」

 調子良く答えるゼノにフィンクはまた耳の先を赤くした。それを隠すように腰を上げ、空けた茶碗を返しに行く。

 岩焔衆ドワーフの店主に向かって小銭を数えながら、フィンクはふと思いついて訊ねた。

「ねえおじさん、最近あの人みたいに変わった格好の人を見た?」

 フィンクに問われて店主は相好を崩した。この歳頃が珍しいのだろう、大抵の者は子供のように齢若いフィンクに愛想が良い。

「変といえば何日か前だったか、小さな岩焔衆ドワーフの馬車が病人にも見えん樹蟲衆エルフ壌血衆ゴブリンを荷車で運んで行ったな」

 聞いた? とばかりにフィンクが勢いよくゼノを振り返った。

〈本当に優秀な子ですね〉

〈まあね〉

〈あなたが自慢することではありませんよ〉

「どこに行ったか知ってる?」

 フィンクが店主に問う。

「ここを北に行ったが、どこに向かったかまでは知らんなあ」

 店主は茶碗を店の裏に戻しながら、思い出したようにフィンクを振り返った。

「そういえば南から来た連中が同じことを訊いて行ったが、あんたらの知り合いかい?」


 そしてすっかり陽も落ちた頃、フィンとゼノは揃って山中の見知らぬ山小屋で囚われの身になっていた。

 その木組みの倉庫は広くて暗く、加工した木としめった土の匂いがした。蟲の名残がそこかしこにあって、根田にも黄ばんだ白い跡を点々と残している。

 ここは年替わりの製材所、あるいは樵の資材置場だろう。支柱や梁は頑丈だが壁は粗い目張り板だけだ。屋根も今年の修繕はまだらしく、枝葉の陰が覗いている。

 フィンとゼノはその中程の、梁を支える太い柱の下に座り込んでいた。肩と腕に寄り掛かったまま、互いにぼんやり小屋の暗がりを眺めて途方に暮れている。

 二人して後ろ手に縛られ、柱に繋がれているのだった。


 発端は数刻ほど前のことだ。里を外れて山に出たフィンとゼノは、猟場と旅小屋を探していた。近くの小屋はすでに船仕事に溢れた船員が大勢いて、二人は少しばかり足を伸ばさねばならなかった。

 陽はまだあったが、食事の準備も考えれば早めに動くに越したことはない。何よりゼノの精霊にはあまり時間がないらしい。宣言した通り兎を振舞うとすれば、狩りだけでなく返礼の皮剥ぎも必要だ。

 とはいえフィンは飽きもせず、ゼノもまた呆れもせず、互いの世界について話をしながら山道を歩いていた。精霊が眠ってしまうと一昼夜はゼノと話ができなくなる。どうせ食事と寝床の段取りはフィン任せだから、決め事もそう多くないと思っていた。

 それは路に人通りを欠いた頃合いだった。不意に後ろから壌血衆ゴブリンの男がぶらりと寄って来て、人を乗せた荷車を捜しているのかと二人に訊いた。

 挨拶を欠いた不躾な問いだった。そんな手合いは無視するに限る。だが答えを返す前にフィンの耳は反応してしまった。

「何それ、病人を運んでいるの?」

 フィンは慌てて誤魔化したものの、相手は確証を得たようだ。耳の動きは不随意で、不意打ちでは情動を隠せない。相手もそれを狙ってのことだ。茂みに合図を送る男を見て、フィンは何か拙いことが起きたと知った。

 こっそり後ろ手でゼノを小突く。

『参ったな、途中から何言ってるか分かんないんだけど』

 フィンが呆然とゼノを見上げている内に、どこからともなく屈強な集団が湧き出し、あっという間に二人を取り囲んだ。

 種族は雑多で、いずれも厳つい体格の男女だった。しかも壌血衆ゴブリンがいては逃げるのも難しい。フィンとゼノは抵抗する隙もなく捕まってしまった。

 ゼノには口がきけない振りを続けるようこっそり身振りで伝えたものの、二人はそのまま山道を連れ回され、こうして倉庫に放り込まれてしまったのだ。


「ねえ、アタランテはいつまで寝ているの?」

 肩越しにフィンがその顔を見上げると、ゼノは目線を返して息を吐いた。首を縮めて見せるのは途方に暮れたときの仕草だったろうか。

『食事は用意してくれるのかな?』

 言葉はまったく分からなかったが、ズレているのは何となく分かった。フィンはゼノを睨んで呆れたように溜息を吐いた。

 この状況なら緊急事態だと分かるだろうに、ゼノはまるで意に介した様子がない。きっと食事の心配でもしているに違いない。

 フィンは何度か縛られた手を捩ってみた。きつくはないが結び目は緩まない。もちろん縄が解けたところですぐ近くの小屋には件の輩が詰めている。

 広い小屋の奥の方には人の気配もあったが、ずっと疲れたような寝息を立てていた。柱の陰でよく見えないが、おそらく二人と同じように捕まった者がいるのだろう。

 あの連中はいったい何者だろう。物盗りの類ではなさそうだが、ゼノを高台衆と知って拐った様子もない。むしろ耳を隠したゼノを気遣ってさえいた。

 捕らえられたときフィンは微かに潮の匂いを感じた。思うに彼らは仕事にあぶれた船乗りに違いない。ならば何者かに雇われているのだろう。企んだのは別の誰かだ。

「おまえさんたち、どこから来た」

 不意に倉庫の奥から問われて、フィンは飛び上がった。すっかり寝ているものだと思っていたのだ。

「ぼくらは境里サークから」

 フィンは慎重に答えた。

 いま起きたのか、それとも寝たふりをして様子を窺っていたのか。柱の陰で互いに見えない以上、今度こそ情動を気取られる心配は少ないはずだ。フィンがそう思った途端だった。

「小さいと思ったら、まだ子供じゃないか」

 間近に声が聞こえた。

「子供じゃない」

 ついそう答えてしまったものの、フィンは目の前に立っている岩焔衆ドワーフを見上げてぽかんとした。近づいて来る気配も感じなかった。

 しかもこの人は拘束されてもいない。フィンとゼノを捕まえた中にはいなかったが、彼らの仲間だろうか。

「連中、何でこんなのを捕まえて来たんだ」

 見おろす男は呆れているようだった。敵意はないが関心を抱いている。ただ驚くくらい情動が抑えられていた。まるで都合で耳を動かせるかのようだ。

「そっちのは」

「構わないで、連れは耳が不自由なんだ」

 フィンはゼノに耳を押し付けるようにして男に言った。感情に偽りはないが会話の調子をできるだけ相手に気取られたくない。

 不意にゼノが身体を擦り寄せてきた。男をよく見ようとしたのだろう。黒い髪がフィンの頭の上で揺れている。お願いだから余計なことを言わないで。フィンは心の中で叫んだ。

『やあガリオンじゃないか。こんなところで何をしている』

 ゼノがフィンの頭越しに男に話し掛けてしまった。知らない人には話し掛けないでって示し合わせておいたはずなのに。

 だが誤魔化そうと見上げた岩焔衆ドワーフの男は、ぽかんと口を開けたまま固まっている。

『フースーク』

 吐息が詰まったような声を上げた。

『ここではゼノという名前なんだ』

 驚いたことに、それに対してゼノが応えた。

余所者ゼノって、そんな名前があるか』

 男はゼノに向かって当たり前のように高台衆ハイランダーの言葉を使って話をしていた。

「おじさん、ゼノの言葉が分かるの?」

 頭を抱えて呻いた男は、困惑した目を彷徨わせ、フィンに向けて口許を顰めた。まるでゼノようのように大仰な顔を作っている。

「とりあえず、おじさんはよせ。俺の名前はガリオンだ」


 ゼノの無精髭がフィンの髪を擽る。ゼノは縛られたまま身体を捻ったせいでフィンの上から動けなくなっていた。ガリオンは呆れたように二人を眺めると、傍に身を屈めてゼノを軽々と引っ張り上げた。

 フィンの見るところ、ガリオンは岩焔衆ドワーフとしては細身で手足が長い方だ。もちろん三種族の中の体格差の範囲で、フィンからすればやはり岩のような体躯をしている。

 二人の綱を解き始めたガリオンの指先に目を遣ると、縄の先を一本引くだけで結び目は簡単に解けた。

『心配して俺らを寄越したニアベルが正解だったな。何だって先に出たあんたが今頃こんなところにいるんだ』

 ガリオンがゼノに話し掛けている。

『どうしてだろうね。歩いていたら連れて来られた』

『おまけにこんな子まで連れて、子供を郷から連れ出すなんて重罪だぞ』

 言葉は分からないが、ガリオンは微かにフィンに意識を向けている。

 ガリオンの顔は角張って彫りが深く太く、濃い眉の下に意外と可愛い蒼い目があった。口許は岩焔衆ドワーフには珍しく短く刈り込んだ顎鬚だけで、それも傷痕の所為で左頬から一筋が欠けている。

 高台衆ハイランダーの言葉を使うのもそうだが、岩焔衆ドワーフにしても少し毛色が違うようだ。

『フィンクは立派な大人だよ、僕なんて頼りっぱなしさ』

『男の子か。この年頃の樹蟲衆エルフはよく分からんな。フィンク、ねえ。どこかで似た名を聞いたような気もするが』

 ゼノの台詞から図るに、やはり二人はフィンのことを話しているようだ。フィンは縛られていた手を解しながら二人を眺めた。

「フィンク、ゼノからどこまで聞いた?」

 不意にガリオンがフィンを振り返った。咄嗟に耳を押さえる。この手に引っ掛かるのはもう御免だ。

 ガリオンは呆気に取られたような顔をして、子供のように破顔した。耳先にはフィンへの謝罪と興味が見て取れる。

「悪かった。居留地の仕事が長いと口が先に出るようになってな。ゼノが人を捜しているのは聞いたか?」

「三人組だって。あとはゼノと同じくらいものを知らないってことくらい」

 ガリオンが耳先を跳ね上げた。

「街で人を載せた荷車の話を聞いたのか。そのあと聞き込みはしたか?」

 確かに狩場と旅小屋を探す道すがら街の端辺りの店で訊いていた。そう答えるとガリオンは頷いた。

「やっぱりそれだな、三人組の仕掛けだ。自分たちを捜しに来た者を片っ端から捕まえるよう、人を雇っている」

「南から来た人が同じものを捜してるって聞いたけど、それはガリオン?」

 フィンがそう問うと、ガリオンは困ったように笑った。

「噂があちらの耳に入ったみたいでな、手を回された。うちの使いが捕まってやしないか見に来たんだが、まさかな」

 耳先ではフィンを生意気と見る一方、面白がってもいるようだ。だが所々に窺える子ども扱いにフィンは口を尖らせた。

「その人たち、ゼノを捕まえるためにわざと荷車に乗っていたの?」

 ガリオンは虚を突かれたような顔をした。助けを求めるようにゼノを見る。

『押されてるようだなガリオン、言っておくがその子は僕より見込みがあるぞ』

 ガリオンはむうと口許を曲げてフィンに向き直った。

「とにかく後は任せて一旦ここから出ろ。このままじゃ俺の仕事がなくなりそうだ」

「でも」

「俺は仕事を続けなきゃならん。フィンクはこいつを王里オードに連れて行ってくれ」

 王里オードという半島最大の里に心が揺れたものの、ゼノを邪魔者扱いされたような気がしてフィンは少しむっとした。

「ゼノは手伝わなくていいの?」

 ぼくもいるのに、という言葉はさすがに呑み込んだが、フィンの耳先には不満が現れている。ガリオンはフィンに顔を寄せ、ゼノに隠すように囁いた。

「フィンク、あいつはこれでも審神者の上役だ。今回は事情があって外に出たが、本当なら面倒事に巻き込むのも色々と拙い」

 フィンは絶句し、同時にガリオンの耳先に驚いた。そこに嘘がないのも確かだが、ゼノに対するフィンへの信頼も見て取れたからだ。

「ぼくが?」

「当たり前だ。ふらふら何処かに行かないように見張っててくれ」

 ガリオンの複雑な耳の動きは、フィンの隠し事と行先の安心を示していた。王里オードの伝手ならフィンを含めた訳ありを匿ってくれると教えている。

「何でだろうな、高台衆ハイランダーに好かれるのは、いつも俺たちみたいな変わり者ユニークばっかりなんだ、悪いようにはしない」

 言葉だけ聞けば吐き捨てるようだが、耳先は正反対だった。

 ガリオンはフィンに付いて来るよう手を振った。ゼノの袖を引き、倉庫の奥へと歩いて行くガリオンをフィンは追い掛けた。

 ガリオンは壁際に膝を付くと、無造作に目張り板に手を入れて引き剥がした。人が潜れるほどの穴が開いている。最初からこっそり用意していたに違いない。

「今の月に向かって登ったら道に出る。あとは山の方に真っ直ぐだ。御山が近いから薬師の路に迷い込むなよ」

「ガリオンは来ないの?」

 フィンが慌てて訊ねるとガリオンは笑った。ゼノを振り返って話し掛ける。

『この子に合流場所を案内して貰うから、あんたたちはそこに居てくれ』

『ガリオンはあの連中の尋問かい?』

 実のところガリオンには見慣れた高台衆ハイランダーの顔も、ゼノだけはいまひとつ何を考えているのかがよく分からない。表情は分かる。その下にあるものが皆目分からないのだ。

『フィンクが安全でないなら行かないよ?』

 ガリオンは顔を顰めた。

『あんたよりはしっかりしてるさ』

『そりゃあそうか』

 ゼノは笑って応えると、ふと思い出したように腰の荷袋をガリオンに渡した。

『フィンクに要らないと言われたんだ。使わなかったらシンに返しておいてくれ』

 フィンが壁の穴を潜り抜け、外からゼノに手招きした。

 留子ルシから持ち出した旅の道具は取り上げられたままだが、王里オードまでなら身ひとつでも何とかなるだろう。かなり惜しいが仕方がない。

「それじゃあガリオン、気を付けてね」

「子供に心配されるほど間抜けじゃないぞ」

「子供じゃないよ」

 フィンはガリオンに口を尖らせると、ゼノを穴から引っ張り出した。


 樹々の隙間に月が覗いていた。フィンはゼノの手を引いたまま、なるべく乾いた土の上を歩いた。ゼノは思いのほか夜の森を蹴躓くことなく歩いたが、万一のことを考えれば余計な音は立てたくなかった。

 樹蟲衆エルフ岩焔衆ドワーフほどに夜目が利かないし、壌血衆ゴブリンほど鼻もよくない。それでも森にいる限りは樹の配置を頭に描ける。蟲が教えてくれるからだ。

 二人が倉庫を逃げ出したことはすぐにばれるだろう。だがガリオンが何か手を打つはずだ。居留地の仕事をしていると言ったが、荒事に慣れている感じもした。相手の数は多いが、ガリオンなら何とかするだろう。

 それにゼノが交易符の入った袋を渡しているのも見た。相手が職に溢れた船員ならきっと交渉の役に立つはずだ。

 フィンは夜道を急ぎつつ、ゼノと旅する行程に好奇心を持て余していた。

 境里サークに着いたかと思いきや、一足飛びに王里オードへの道行き。しかもガリオンはフィンの訳ありに気付いて、それを含めて王里オードを勧めた様子だ。

 王里オードと言えば里ノ王はかのバルターだ。審神者とも縁の深い樹蟲衆エルフの逸話は、悪評も含めて郷にも届いている。

 しかもゼノは審神者の上役であるという。

 審神者は世界の裁定者で、三年前に現れて半島の争いを諫めた高台衆ハイランダーだ。国威の全ては審神者の審判を仰ぐ。道を違えば国ごと滅ぼされるとさえいわれていた。

 この食事と寝ることしか考えていないゼノが、そんな審神者の上役だなどと。

『ねえフィンク、お腹が空いたと思わないか?』

 ゼノはフィンに手を引かれるまま歩いている。きっとお腹が空いたとか疲れたとか言っているに違いない。

 あいにく荷は置いて来たし手持ちもない。今は道を見つけるのが先だ。

 ガリオンは薬師の路に迷い込むなと警告したが、先にあるのは御山と呼ばれる天露アマツユを汲み出す霊峰だ。

 地理的には霊山八峰の突端で、フィンの飛び出した留子ルシの山向こうにあたる。つまりフィンは郷を出て半島をぐるりと回ったわけだ。

 御山は調停場と同じく言葉のない時代から続く公益管理地だ。

 大きな紛争の度に設けられる調停場とは異なり、御山は薬の源泉として日常的に利用されている。天露アマツユは皆の生活に欠かせないもので、フィンの飲まされていた薬湯もそこから来た。

 公益守護職が祀る御山は郷の委任状を持った古参の薬師だけが通行を許されている。こと霊山八峰一帯の管理場は監視が厳しい。捕まれば問答無用で懲罰だ。踏み込むことなど以ての外だった。

 フィンにしてみれば例え霊山八峰を越えられないと分かっていても、少しでも留子ルシに近づくのは嫌だった。

 道を見分けるのは難しくないが、フィンは少し慎重になった。

 山を駆けて夜明け近く、フィンはようやく踏み固められた山道を見つけると、念のため明るくなるのを待つことにした。

 ゼノはすでに樹の根に座り込んでおり、フィンも仕方なく隣に腰を下ろした。

 尻の落ち着けどころを探ってゼノの身体を押し遣る。身体を寄せると思いのほか温かく、フィンはそのままゼノの腕の下に潜り込んだ。軽く休むつもりだけのつもりだったが、新しく見つけた寝床はかなり居心地がよかった。

 一休みしたら食事の当てを探そう、そう思いながらフィン眠りに落ちた。


 開発者の言うところ、理論的にあり得ないはずの俯瞰次元の断絶が明けるたび、ゼノの中のアタランテの端末は全滅寸前に陥っている。

 アタランテの人格や記憶、機能の大半は汎銀河ネットワークストリーム上にあるが、端末の補完共生体は絶えずゼノ自身に浸食され続けている。

 汎銀河ネットワークストリームの支援で活動に足るまで増殖すると、アタランテはゼノの五感を使って周囲を探った。

 ゼノはまだ無防備に眠り込んでいる。

 アタランテの成熟した疑似人格は宿主に二〇〇通り以上の悪態を吐くこともできたが、いっそ尻を蹴り上げるような痛覚で目覚めさせてやろうと思案していた。

〈騒がしいな〉

 だが手の込んだ覚醒方法を探すうち肝心のゼノが目を覚ましてしまった。

〈あら、おはようございます〉

 寝惚けたゼノの目の前にはフィンクの髪があった。胸に寄り掛かって寝息を立てている。珍しく目覚めたのはゼノの方が先だった。

〈タイミングとしては最悪のようですね〉

 アタランテの愚痴を聞き流し、ゼノは欠伸を噛み殺しながらフィンクのぷっくりとした艶やかな頬を悪戯につつこうとした。

 ふと、人の気配に目線を上げる。

〈ほら、寝惚けてないでよくご覧なさいな、断絶域を抜けるたび状況が悪化しているんじゃありませんか?〉

 幾人もの壌血衆ゴブリンがゼノとフィンクを取り巻き、呆れたような目で二人を見おろしていた。


 肩先をつつかれ目覚めたフィンは、壌血衆ゴブリンに囲まれていると知るや真っ青になった。寝惚けて抱えたゼノの腕を放り出し、慌てて居住まいを正したものの、突っ張った耳先は動揺を隠し切れていない。

「さて、これはどう挨拶したらいいものかな?」

 裏腹にゼノはのんびりと呟いた。耳が読めないにせよ慌てているのは分かるだろう。フィンはそう焦ったものの、ゼノの言葉が分ることに気付いた。

 精霊が目を覚ましたのだ。何の根拠もなくフィンは落ち着きを取り戻した。

 改めて前を見上げれば、二人を囲む壌血衆ゴブリンは女が三人と男が六人。見た目からして二人を捕まえた連中とは異なっている。

 狩場の管理人、あるいは山守りの類か。だがそれにしては面子が妙だ。

「こんなところで何をしている」

 訊ねたのは真ん中の少女だった。

 驚いたことに、見目の歳頃がフィンとそう変わりない。両脇の二人がメリハリのある体形だけに、少女は余計につるりと幼く見えた。

「連れが山で迷ってしまって」

 怪訝に思いながらもフィンは応える。

 少女もゼノの頭に巻いた手拭いを意識してフィンに話し掛けているようだ。フィンはゼノを庇うように身を擦り寄せ、さり気に耳を半分隠して言葉を続けた。

「寝床を見つけられなかったんだ」

 寝起きの動揺、外寝の恥ずかしさ、耳は嘘を吐いていない。

「それは惜しかったな、旅小屋はぐそこだ」

 少女は大ぶりの犬歯を剥いて笑った。

 フィンより少しだけ背は高いだろうか。目が大きく睫毛が濃くて力強い。黒髪を首筋で刈り揃え、頬の横だけを長く垂らしている。左のひと房を赤く染めているのが特徴的だった。

「誰だったかな」

 ゼノが小さく独り言ちた。フィンは思わずゼノの背を小突いたものの、少女の耳先が微かに跳ねたのを見て、あえて動揺を隠さずに気後れした風を装った。

「ぼくら王里オードに行く途中なんだ。大きな治癒院があるって聞いて」

 案の定、少女は微かに耳を伏せ、フィンとゼノに気後れと気遣いを見せた。

「そうか、それならまだ少し距離があるな。道行きの道具は足りているか?」

 感情の遣り取りが一瞬あった。捕らわれた際に旅の道具は取り上げられたままだ。それを思い出したフィンの動揺を少女に気取られたかも知れない。

「ありがとう。落ち合う人がいるから大丈夫」

 少女は何も言わずフィンの答えに頷いて、後ろ手に男衆に手を振った。

 壌血衆ゴブリンはみな肘から手の甲、脛から足の甲にかけて毛が生えている。少女のそれは色濃く長い柔らかな獣毛で、髪より少し赤味の強い黒だった。

 壌血衆ゴブリンの男たちが耳先で応えて樹々の間にするりと消えて行った。残ったのは少女と両隣の二人の女だけだ。

「ここから東の山手は薬師の径だ。御山が近いから迷うなよ」

 少女はフィンにそう言うと、両脇の女と連れ立って歩き出した。フィンは頷いて立ち上がり、ゼノを気遣うように屈み込む。そうして顔を伏せたのは、三人の意識がまだこちらを向いている気がしたからだ。

 何者だろう。壌血衆ゴブリンは一妻多夫の女系社会で同族の集団なら女が指揮を執る。この数で女が三人もいるなら社会的に地位のある集団だ。少女は若過ぎる統領といったところか。いずれにせよただの山守りではなさそうだ。

 そんなフィンの緊張も知らず、ゼノは座り込んだまま不意に声を上げた。

「ニアベルだ、確かにあの娘にそっくりだな」

 フィンはその声に飛び上がり、慌てて三人の後ろ姿を目で追った。ゼノが何を言っているのかはよく分からない。だが今は変な注意を引きたくなかった。

「おまえ、姉様を知っているのか」

 遅かった。壌血衆ゴブリンの少女はぎりぎりと音を立てるように振り返り、ゼノを睨んだ。猛然と二人に取って返すと、前に出て庇おうとしたフィンを押し退け、ゼノに伸し掛かるように身を屈めて犬歯を剥き出した。


〈なるほど、確かに執政官第一夫人の血縁のようですね〉

 アタランテはゼノの目を通して壌血衆ゴブリンの少女を分析した。入力器官はゼノの身体に頼るしかないが、記憶領域に情報があれば照合は容易い

〈しかし姉とは。彼らは遺伝的な関係性を忌避するのが一般的です。血族をそう呼ぶのは異例ですね〉

〈よく知ってるな〉

 アタランテはゼノの皮肉を無視して言った。

〈彼らの親族に相当する関係は養育施設の単位で形成されます。血縁の忌避に始まる確執は執政官の裁定の遠因にもなりました〉

 アタランテは一拍の間を置いて呟いた。

〈もちろん私が知っているということは、あなたもレポートを読んだはずですが?〉

 ゼノにとっては仔猫のように牙を剥き出す壌血衆ゴブリンの少女も、痛いくらい背中を小突くフィンクも、アタランテの怖さには敵わない。落ち着いているように見えて、ゼノに思い切り呆れている。

「ええと、姉上にはお世話になって」

 もごもごとゼノが少女に言う。

「世話に?」

 少女の表情はよく分からない。怒っているのか喜んでいるのか、頭から齧ろうとしているのか判然としない。その長い耳が犬の尾ほど単純なら雰囲気は掴めたかも知れないのだが。

「調停場で活躍したり、ほら有名人だし」

 その耳先が赤くなってひらひらとそよいだ。フィンクのようなつるりとした耳とは異なり、少女のそれは柔毛に縁取られている。

〈この反応は何だ〉

〈照れている、のでは?〉

 汎銀河ネットワークストリームをほぼ占有しているアタランテでさえも、ミドルアースこの世界の秘匿領域にあたる情動言語グリフについては当て推量だ。文化汚染を最小限に留めるため、こと意思疎通に関しては規制が多い。

「あんたたち飯はまだだろう。あたしらの小屋に来ないか?」

「それは、痛、」

 フィンクに思い切り背中を抓られ、ゼノは悲鳴を上げた。ゼノなら一も二もなく飛びつくと考えたのだろう。実際そのつもりだった。

「有難いけど、先で人を待たせてるから」

 フィンクが口を挿んで立ち上がった。きょとんとするゼノの袖を引く。確かにガリオンと待ち合わせているのは本当のことだ。

「そうか、もっと姉様の話を聞きたかったが仕方がないな」

 呟いて少女は口を窄めた。フィンクをじっと見つめて言う。

「気をつけて行くといい、ここしばらく怪し気な連中を見たって人もいるからな」

「怪し気な連中?」

 フィンクが聞き返すと、少女は金色の瞳を縦に細めてフィンクの顔を覗き込んだ。

「おかしな風体の五人組だ」

「五人組?」

 フィンクは思わず怪訝な反応を返した。しまったとばかりに耳を隠そうと身動いだが、既に遅かった。気を付けていたつもりが最後に引っ掛かってしまったようだ。

「おっと、三人組だった」

 少女はしてやったりと耳の先を上げて二人の仲間に声を掛けた。

「こいつら何か知ってそうだ」

 居留地の姉の活躍を知っているなら高台衆ハイランダーにも関わりがあるかも知れない。件の三人組と結び付ける符丁は十分にあった。ゼノに身を寄せたフィンクから緊張が伝わって来る。

〈拙い状況では?〉

「いや、折角だから朝食をご馳走になりながら話をしよう」

 ゼノはそう言って皆の虚を突いた。少女と二人の女が微かに目配せする。目と目というより視線は互いの耳を窺っている。

〈あなたがそう言って状況が好転した記憶がないんですが〉

「ゼノ」

 フィンクが小声で名を呼んだ。ゼノに状況を分からせようと大仰に睨んでいる。ゼノは笑ってフィンクの髪をくしゃくしゃと掻き回した。

「なに、この娘たちも話を聞きたいと言うし、こちらも訊きたいことができたし、そのうえ食事付きなんて最高じゃないか」

 ゼノはフィンクにそう言って、徐に頭に巻いた手拭いを取り払った。

「僕はゼノ、こっちは友だちのフィンクだ。居留地から逃げ出した三人組を追っている。食事共々、そちらの情報も洗い浚い提供いただけると有難い」

 ゼノの小さな丸い耳を見て壌血衆ゴブリンたちは全身の毛を逆立てた。


 *****


 能ある鷹は爪を隠しますが、ゼノのそれは綺麗に切り揃えられていました。賢しさは時に身勝手な解決に結び付きます。力を持つなら尚更です。ゼノはそういう役割が嫌でした。もっともゼノのことですから、単に思わせぶりなだけかも知れません。本当に怠けているだけなのかも。単に自分が傍観者でありたいがために我儘なのも事実です。

 問題はゼノが友人に甘いことです。少ないですからね、友人が。実はそれこそがこの事件の遠因であり、フィンを悶々と悩ませる今の要因にもなっていたのです。

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