王の前庭

marvin

第一章 二人の迷子

 まだ明けの木槌も鳴らない暗い空の下、フィンは一人で郷の境を踏み越えた。

 径もない斜面に分け入れば、守り手のない山の枝葉は執拗にフィンの髪に絡み付いてくる。膨らんだ鞄に取り縋り、吊った靴下を引いて引き止めようとする。それでもフィンが進もうとすると、見境なく張り出した樹の根は何度も靴に噛みついた。

 樹蟲衆の郷は、往々にして行き来の不便な場所にあった。フィンの生まれ育った留子の郷もまた険しい山の中だ。平地に暮らす大人たちとは遠く隔絶されている。

 留子は大きな半島の南寄りにある。樹々に呑まれそうな小さな郷だった。半島の中央に聳える霊山八峰の南の外れに位置し、最寄りの集落にさえ険しい山を二つも越える。旅慣れた行商人にさえ難所が多く、続いているのはどれも子供の足に辛い山道だ。

 違う、自分はもう大人だ。少なくとも郷の子供の誰よりも。誰もいないなか、フィンはひとり口を尖らせた。

 毎日あんな蟲の髭のような薬湯を飲まなくても自分は大人になれる。自分のなりたい大人になるのだ。あの臭いと苦味に比べれば裸の山なんてたいしたことはない。そう思いながら、フィンは湿った枯葉をぎゅっと踏み締めた。


 留子からいちばん近い街道への道筋は、南の山を越えて海側に下る。郷の境の樹の麓を抜けて、山畑も生簀も大回りして行く道だ。

 フィンが行くのはその反対側だった。守り人のいない野生の山だが、たとえ歩き辛くても大人に見つかる危険は冒せなかった。きっと次の機会なんてやって来ない。

 フィンは径のない山を北に抜け、禁足の峰の縁を西に廻って跡を消すつもりだった。壌血衆ほどではないにせよ、山道で人跡を辿るのは案外容易いからだ。鎮守の主様は気付くだろうが、樹蟲衆だけの郷の大人たちなら問題ない。子供と侮って簡単に撒けるだろう。

 フィンは樹の根と岩と湿った土塊の入り組んだ山を延々と歩いた。木立の匂いを嗅ぎ分けて霊峰に踏み込まないよう気を配る。そちらには守護職の管理場がある。境界を越えれば面倒な連中に捕まる恐れがあった。

 見つからないよう、追い掛けられないよう、意識を凝らしながら歩いて行く。ひと息つこうと思った頃には、すでに木立ちの隙間は白み始めていた。


 留子の郷には四人の子供がいる。例に漏れず樹蟲衆の郷も子供の数は少ない。郷は子供を育てるための場所だが、今では子供のいない郷も珍しくない。護っているのは墓だけだ。

 フィンは養育舎の最年長だった。成人はすぐそこに迫り、分化に備えた薬湯の椀を睨む毎日が続いていた。

 フィンについては、郷の大方が女になることを推していた。フィンの意思に関係なく、それは端から決まっていたことだ。

 確かに若い女は扱いが良い。郷でも当面は気楽に暮らせる。ただし、子供を産むまで郷の外には出して貰えない。子供の少ない郷がそんな自由を許すはずもなかった。

 しかもフィンにはそれ以上の思惑が透けて見えた。郷の大人は最初からフィンを外に出すつもりがない。それはフィンが知りたがりの忌子だからだ。

 三年ほど前の審神者の審判はこの山奥にも届いていた。よりによってその裁定は、忌子を取り上げたものだったらしい。郷の大人は震え上がった。フィンを郷の外に出せばきっと良くないものを招く。そう断じた。

 フィンを郷に閉じ込めよう。ならば、なおさら女がよい。郷の大人はそう考えているはずだ。フィンはこれからずっとずっと、郷で子供を産み続ければよいのだと。

 冗談じゃない。そんなのはまっぴらだ。

 フィンはずっと外の世界に出たかった。もうこれ以上「そのうち」なんて聞きたくはない。このまま女になってしまったら、きっとこの先も郷から出られない。

 だから勝手に郷を出た。自分を守るには、それしか方法がなかったからだ。


 郷を飛び出した最初の朝は、はち切れそうな興奮がフィンの足を軽くした。余った力が鼻歌になって漏れ出した。昼が過ぎ、日が落ちて、一日目は山の中で眠った。

 外で夜を明かすのは慣れていたが、独りで過ごすのは初めてだった。木々の隙間に星を見上げながら、その夜は興奮と想像でなかなか寝つけなかった。


 翌日は、ほんの少しだけ不安になった。森の匂いはフィンに無関心で冷たい。音のなさ、風のなさ、人気のなさが、心の中の灰色を少しずつ膨らませた。

 無意識に歩調を緩めたり、人の通りそうな道を選んだり。そのうち、見つかって連れ戻されたときの言い訳まで考えながら歩くようになっていた。


 三日目のフィンは起き抜けからぼんやり歩き続けるだけだった。最初に決めた道筋を、ほとんど無意識に辿っていた。

 八峰の縁に沿って回り込み、南西に折れ、あとはただ海側を目指して山を行く。そうして昼前には海岸線を見通せる丘の上に着いた。


 古い境界の名残りだろうか一本だけ大きな樹が立っている。フィンはしたくもない後悔を胸に、鬱々としたまま歩み寄った。身体を支えるように太い樹の幹に手を添える。

 不意に風がフィンを打ち据えた。髪を押さえて顔を上げると、見渡す眼下の遠くの先に白い波の立つ海岸線があった。

 フィンは暫くのあいだ、自分でも気付かないほど呆然とその光景を眺めていた。


 フィンは知らず胸に溜め込んでいた息を吐き出した。眼下の光景を眺めるうち、再び不安と後悔が好奇心に塗り替えられた。

 そこから見える海辺は北東に大きく弧を描いている。それに沿って伸びた街道沿いには幾つもの里が点在しているはずだ。その先には境里の港があり、もっと先には王里がある。

 境里はフィンが最初に目指す街だ。当面はそこで広域商人の奉公先を探そうと考えていた。フィンは、たくさんの土産話を持って郷に訪れる行商人のターヴのようになりたかった。

 だが里に行くならフィンが成人前であることは絶対に隠さねばならない。もちろんそのうち身体は大人になるが、今の見た目はまだ小さくて細すぎた。

 思案するうち、フィンの目線はふと海岸の左手を辿った。そこには半島最南端の岬が見える。宵限と呼ばれる台地だ。ここからなら一日掛とからず行くことができる位置だった。

 宵限はとても古い公益管理地で、もともとは調停場跡だった。三年ほど前に状況は一変し、今では居留地と呼ばれる高台衆の里が築かれている。

 居留地はこの半島でいちばん新しい里、新しい種族のいる場所だ。フィンはまだ大きな集落さえ見たことがない。だが高台衆の居留地は、ほとんどの人もまだ見たことのない里だ。

 フィンは好奇心に喉元を擽られた。

 居留地は何処か遠くからやって来た異人を中心に、名だたる名士が築いたという。集落には空に向かって伸びる大きな建屋があり、それをもって高台衆の名が付いたという話だ。

 境里までなら素で二日足らず、フィンは街道沿いの里で手伝いでもしながら街暮らしの荷を足そうと考えていた。

 だが居留地の周囲にも人がいる。混交の高台衆に加えてもらうべく集まった人々だ。例え周囲にできたのが見物人の集落だとしても、何か働き口はあるはずだ。

 郷から自由になったフィンが少しばかり寄り道をしたところで、このさき何の不都合があるだろう。フィンは段取りを思い描こうとした。

 郷を抜け出した不安は無意識のうちにすっかり忘れていた。抑えようのない好奇心がもやもやとしたものを押し遣って、今はむしろフィンの気を急かしていた。

 それが郷の皆が言う忌子の所以だ。たが、例え気付いたところでフィンにはどうすることもできない。知りたいという思いが自分では抑えられなかった。

 思案に夢中になっていたフィンは目の前のそれに気付かなかった。気を落ち着かせようとふと足許を見て、飛び上がるほど驚いた。

 それは細くて長い脚だ。黒いズボンを履いている。フィンのいる樹の幹の向こう側に、棒切れのように無造作に投げ出されていた。

 フィンは無意識に身を竦め、幹に頬を擦りつけるようにして身を伏せた。

 こここは鎮守の道筋から外れている。狩りも刈り入れも、もう少し先に降りねば不便だ。自分はともかく、こんな何もない場所で何をしているのだろう。

 フィンはそっと耳を欹てて、相手の様子を窺った。聞こえて来るのは寝息のようだ。念のためしばらく息を殺してから、フィンはそっと幹の向こう側を覗き込んだ。

 樹の根を枕に呑気に寝入っているのは、フィンよりずっと背の高い樹蟲衆の男の人だった。歳の頃はよく分からない。髪は黒くて真っ直ぐでざんばら、目に掛かるほどの長さがある。

 その無防備な寝顔のせいか、無精髭のある大人のくせに童顔めいて見えた。

 近くの里の人だろうか。少なくとも留子に出入りする客では見たことのない顔だ。

 このままそっと立ち去るべきか。それとも起きるのを待って辺りの話を聞いてみようか。フィンは暫く迷っていた。さっさと離れてもよかったが、妙に気に掛かるものがあってフィンはその場を動けなかった。

 顔立ちは確かにフィンと同じ樹蟲衆だが、どこか様子が違うのだ。

 もちろん壌血衆より身体の毛は薄いし、鼻先も獣のように尖っていない。岩焔衆より遥かに華奢で、髭も長くない。痩せていて、手足が長くて、樹蟲衆にしたところで肉付きが少なく頼りない体系だ。

 少しのあいだ遠巻きに男を眺めてから、フィンはそっと近づいた。

 男の衣装は見たことのない縫製だ。煤けた黒の長袖のシャツと脚の先まである長いズボン、足にぴったりの靴。背中に敷いているのは外套だろうか。あとは腰に巻いた小さな袋と左腕に巻いた革とも鉄ともつかない黒い帯。

 辺りに荷物は何もなかった。山菜取りでもない。薪拾いでもない。ましてや猟でも釣りでもない。とうてい山守りにも見えないし、旅の道具も見当たらない。

 フィンが間近で思案していると、男が不意に寝返りを打った。頭の横、髪に覗いたそれを見てフィンは息を呑んだ。

 耳がない。根元の方にしか耳たぶがない。千切れたような痕もなく、まるで生まれついてのようにつるんと縁が整っている。

 フィンはその場にぺたんと尻餅を付いた。思わず上擦った声を上げる。

「高台衆だ」

 その声は少し大きかったようだ。

 男は大きな伸びをひとつして、フィンに寝惚けた目を向けた。黒くて底のない丸い瞳だった。呼吸も忘れて凍り付いたフィンを、ぼんやりと眺めている。

『おはよう。いや、そうじゃないか』

 それは言葉か。それとも、ただのもぐもぐとした唸り声だろうか。

 フィンは困惑した。言葉だとしたら何を言っているのかさっぱり分からない。高台衆なら言葉を話せるはずなのに。

 いや、高台衆には本来、独自の方言がある。自分たちとはまるで違う言葉だ。郷を訪れた行商人に幾つか教えて貰ったことがある。

 だが、さっきのは知らない言葉だ。挨拶だとしたら真似た方がよいだろうか。

「お、おは?」

 高台衆の男はきょとんとした顔を向ける。耳が髪で埋まるほど小さくて、しかもまったく動かない。男が何を考えているのかまるで分からなかった。

『えっと、今は言葉が』

 男は目許をしょぼつかせ、自分の口を指さして呟いた。

『分からないよな、やっぱり』

 高台衆の男はただ顔を顰めるだけだった。表情がなく、まるで人形のようだ。

 むしろ郷の子供が遊ぶ人形の方が、まだ分かり易かった。少なくとも、親指と小指を耳に見立てて遊ぶ指人形なら相手に気持ちは伝わる。

 フィンはめげずに考えた。驚いてはいるものの、知らず好奇心に昂っていた。口を指したということは食べ物が欲しいのだろうか。フィンはとりあえず訊いてみた。

「お腹が空いているの?」

 それは通じなかったようだ。

『どうしたもんかな。こんなときに限ってアタランテもいやしないし』

 男は頭を搔きながら何やら余所を向いて喋った。今度は頭が痒いのか。それともお腹が空くと頭を掻くのだろうか。フィンにはもう何がなんだか分からない。

『翻訳機くらいは持って来ればよかったな』

 男は意を決したように尻餅を付いたフィンに向かい合うと、目線を合わせるように胡坐をかいた。高台衆の顔を間近に見て、フィンは思わず息を呑む。

『君はエルフの子供かな?』

 男はいきなり顔を覗き込んだ。フィンは驚いて仰け反った。男は端からフィンの耳を見る気がなかった。あまりの不躾さに腹が立った。

 唸るフィンに目を丸くして、男は慌てて身体を引いた。一層きょとんとフィンを見つめる。うっかり笑ってしまいそうなほど間抜けな顔をしていた。

 フィンは気を取り直して思案した。台詞の中に憶えのある言葉があったのだ。

 教えて貰った語彙の中に『えるふ』があった。フィンのような樹蟲衆を差す言葉だ。岩焔衆が『どわあふ』、壌血衆は『ごぶりん』。そして高台衆自身は確か、そう。

「はいらんだー」

 フィンは思わず声を上げた。思い過ごしかも知れないが、少しずつ会話の糸口を掴んでいるような気がして興奮した。

 少し距離を取って男に向かい合うと、フィンは正座になって座り直した。男の胸を差し、その言葉を繰り返した。

『ああ、えっと確かそんな名前だったか』

 男は前髪の下の眉間に小皺を寄せて、疲れたように息を吐いた。

『いつまでも櫓の上にゲートを開いたままだから、そんな変な名前なんだな』

 またぶつぶつと呟いている。それはフィンに向かって言っているのか、それとも高台衆にしか見えない何かに向かって喋っているのか。

 混乱するフィンに気付いたのか、男は顔を顰めてまた頭を掻いた。

『まあ君らもアースリングと言えばそうなんだけど、僕はどちらかというと、そうだな』

 高台衆の男は自分の胸を指差してフィンに向かって言った。

『ゼノだ』

 はっとしてフィンは繰り返した。

「ゼノ?」

 それがこの高台衆の男の名前に違いない。フィンは叫び出しそうなほど興奮した。郷を出て初めて出会った人、言葉を交わした人が高台衆だなんて。そう考えると嬉しくなって、真横に張り出した大きな耳をぴんと立ち上げた。


 *****


 『ゼノ』が高台衆の居留地を出たのは、まだ早朝のことだった。夜明けを待つ辺りの空は、蒼とオレンジの複雑なグラデーションを描いている。薄暗い夜の蟠まる足許はまだ少し覚束なかった。

「じゃあ今から君を捕まえに行くよ」

 ゼノが宙に向かってそう宣言している途中で、中継端子は力尽きて地面に落ちた。文明汚染を避けるため、それはあっという間に土に溶けてしまった。

 最後までちゃんと届いただろうか。今さら取って返して続けるのも気恥ずかしい、何よりこうしているうちにもここが断絶域に入れば、人類版図ガラクティクスとの交信は途絶えてしまう。

 何より今回は準備のために一足先にアタランテが退避してしまっていた。ゼノの身体の中の端子も異物として処理されないように逃げ回っている。

 ゼノはミドルアースこの世界で正真正銘の独りきりだ。

 ぼんやり宙を見つめたまま、ゼノは途方に暮れて呟いた。

「さて、ああは言ったものの、ここからどっちに行ったものかな」

 実は、どこを向いて歩けば良いのか分からなかった。

 前後に小路があるのは見えている。振り返れば居留地があるのも知っている。行く先だけが分からない。踏み固められた土の路面に行先表示が出るわけもなく、小言と一緒に教えてくれるアタランテもゼノと対話ができるまで知能が復旧には暫く時間が掛かる。

 ただ、心身の八割をネットワークが補完する時代に、こうして身ひとつ生きていられるゼノはまだましな部類だろう。たぶん田舎で道に迷った程度にはましな状況のはずだ。多分どうにかなるだろう。

 仕方ない、とまた独り言ちて、ゼノはとぼとぼ歩き出した。そうした無思慮な行動が迷子の原因なのだが、あまり気にしていなかった。惑星規模ではまったく見知らぬ場所でもなし、などと漠然と考えている。能天気にも程があった。

 気が付くと足許の草が膝丈ほどになっている。さっきまで道を歩いていたはずなのだが。

 立ち止まって考えるのが面倒で、ゼノは歩きながらぼんやりと他の道を探した。それも方向音痴がよくやる失敗だ。

 とりあえず高い所へ。見晴らしのよい場所を目指す。その頃にはもう何処を見渡しても生い茂った樹々しか見えなかった。

 薮を掻き分けて歩くうち、木立が減って下草が低くなり、ようやく開けた丘の上に出た。太い樹が一本、枝葉を広げて立っている。その下に立って見渡すと、向こうの方に海岸線が見えた。遠い。この丘の麓まで、ずっと緑の天辺しか見えない。

 そこでようやく投げ出して、ゼノは断絶域が明けるまで待っていようと寝転んだ。


『高台衆だ』

 寝入ってどれほど時間が経ったのだろうか。顔を撫でるむず痒さに寝返りを打ったとたん、息を呑むような声がした。

 大きな伸びをひとつして、ゼノは寝惚けた目を声の方に向けた。

 甘い肌の匂いと緑の葉の匂いがした。目の前のつるんとした膝を見上げれば、真ん丸に見開かれた翠の瞳が見える。肌の色は白くて薄い。黒髪は木漏れ日が跳ねると碧く見えた。

「おはよう。いや、そうじゃないか」

 言い掛けて口籠る。ゼノの中の通訳は断絶域で退避中だ。しかもミドルアースこの世界の住人には言語外の共感が不可欠で、身振り手振りのコミュニケーションだけでは相手に足りないはずだ。

『お、おは?』

 相手は健気にゼノの言葉を真似ようとした。

「えっと、今は言葉が」

 ゼノは口を指差してそう言い掛けたものの、その長い耳を見て呻いた。

「分からないよな、やっぱり」

 顔の横に長く張り出したそれは震えるように動いている。

『お腹が空いているの?』

 喋り掛けられたものの、ニュアンスを推測することさえできなかった。相手はぺたんと座り込んだまま、食い入るようにゼノを見つめている。ときおり目線がゼノの耳許にさまようも、随意であれ不随意であれゼノのそれは動かせるようにし改造していない。

 そもそも、そうした改造のできる身体なら、こんな苦労もしていなかったはずだ。

「どうしたもんかな、こんなときに限ってアタランテもいやしないし」

 ゼノは途方に暮れて頭を掻いた。

「翻訳機くらいは持って来ればよかったな」

 不可能なのは百も承知だ。コミュニケーション機器は異種接触憲章に触れる。しかもミドルアースこの世界の情報はまだ如何なる記録にも残せない秘匿事項だ。

 だが理屈はどうあれゼノが対策を怠ったことに変わりはない。共生アシスタントのアタランテに頼り切っていたせいだ。

 ゼノはそっと相手を窺った。どうやらこの子は樹蟲衆エルフらしい。猫の目をした毛深い壌血衆ゴブリンではなく、髭を垂らした厳つい岩焔衆ドワーフでもないからだ。

 まだ子供だ。外見は一〇代の初め頃だろうか。小柄で細くてつるんとした体形で、顔立ちは少女のようだ。その長く伸びた耳さえ除けば、外見上は地球原種アースリングと何ら変わりがない。

 もっともゼノの見知った範囲にこの歳頃の樹蟲衆エルフはいない。居留地ではついぞ子供を見たことがなかった。

 ゼノは諦めて息を吐き、その子の前に胡坐をかいた。しっかりと目線を合わせる。

「君は樹蟲衆エルフの子供かな?」

 相手は驚いて仰け反った。見開かれた目が泳いでいる。耳の先が真っ赤になっていた。噛み付かれるとでも思ったのだろうか。

 ゼノも慌てて身体を引いた。目を見て話すのは逆効果だったようだ。

 思案するうち相手は何かに気が付いたのか、跳ね起きるように背を伸ばして叫んだ。

高台衆ハイランダー

 その子はゼノから少し距離を取り、正座になって向かい合った。思うに先程のは対話の距離が近すぎたのだ。彼らにとっては耳が見える範囲が適切な距離なのだろう。

 樹蟲衆エルフの子供はゼノにその名を繰り返した。

 答えを返すのが遅れたのは発音の問題ではなく、ゼノが忘れていただけだった。それはミドルアースこの世界での自身の種族名だ。正確には混交種族として承認された、居留地の住人を指す一括りの名称だ。

「ああ、えっと確かそんな名前だったか」

 誰が付けたのかと疑いたくなるが、種族名の大半はゼノの蔵書を参照して付けられたものだった。いわば自業自得だ。

「いつまでも櫓の上にゲートを開いたままだから、そんな変な名前なんだな」

 元はと言えば最初の接続が拙かった。固定された特異点は今も上空に浮いたままだ。こればかりは帝国アウター の真似事だから仕方がない。

 しかも偶発的な事故が重なったおかげで漏洩も早かった。中途半端な情報制御を施したのが仇になり、周りからは紂王の宴会場が如きとんでもない誤解を受けている。

 確かに既知の宇宙の何処を探しても、こんなに人に都合のよい惑星があるはずもない。とはいえ先の誤解も説明が面倒になったゼノの自業自得は否めない。いずれ正直に話したところで、ミドルアースこの世界の素性は間違いなく火種になるだろう。

 故に後の言い訳のために法規は厳守しつつ、一切の情報を公開しないのが今の実情だ。

「まあ君らも地球原種アースリングと言えばそうなんだけど、僕はどちらかというと、そうだな」

 今それをミドルアースこの世界の住人に説明するには言葉も理屈も足りない。ゼノは自分を指差してこう言った。

宇宙人ゼノ、だ」

『ゼノ』

 樹蟲衆エルフの子供は大きな声で繰り返した。その長い耳を跳ね上げて。

 真っ直ぐにゼノを見つめるその瞳には、驚きと好奇心の星が散っている。ゼノは暫くぼんやりと、その眩しさに圧倒されていた。


 *****


「ゼノは居留地から来たんでしょう? あそこにはどれくらい高台衆ハイランダーがいるの? 審神者はここじゃないところから来たんでしょう? ゼノもそうなんだよね?」

 言葉が通じないと分かっていても、フィンは話し掛けずにいられなかった。ゼノの感情はまったく読み解けないが、もうゼノを人形のようにも感じていない。じっと見ればそれが分かった。

 顔の仕草や首と肩、頭を掻くのはゼノの情動の一種だ。耳ほど明確ではないけれど、何となく気分を示している。ただ一見しただけでは分からないほど、それは胡乱でぼんやりとした感情表現だ。

 ミドルアースこの世界の住人は、ほとんどがその長い耳で情動を共感している。柔毛の生えた壌血衆ゴブリンの耳や、短くて厚い岩焔衆ドワーフの耳でさえ同様だ。初対面の好悪や信頼と不信の判断も一瞬で共有するのが普通だった。

 耳は不随意で動くため隠し事ができないのだ。はみ出し者は一瞬で分る。留子ルシの郷でも、もちろんそうだった。合意と共感は瞬く間に伝播し、異なる者は暗黙のうちに皆から同調を迫られる。

 だからこそ、何を考えているか分からない相手は怖い。それが他所から来た高台衆ハイランダーならなおさらだ。本当ならフィンも逃げ出して当然だった。

 フィンが皆と違ったのは、知りたがりの忌子だったことに尽きるだろう。フィンはその過剰な好奇心で易々と壁を越えてしまっていたのだ。


『ねえねえ、どうなの?』

 一方、ゼノは小さな樹蟲衆エルフの質問攻めに困惑して固まっていた。いや、恐らく質問されているのだろう。言葉がまるで分からない、何より情動も共感できない相手にも拘わらず、樹蟲衆エルフの子供は耳をばたばたと振りながら意気込んで喋り掛けてくる。

 まるで怖いもの知らず仔犬に纏わり付かれているような気がした。

「ゼノはここに何をしに来たの? 居留地に帰るところ? それとも何処かに行くところ? もしかして道に迷ったの?」

 そうするうち、唐突に言葉が聞き取れるようになった。ゼノが自分の学習能力の高さに驚いていると、頭の中で呆れた女性の声がした。

〈あなたはいつから余所者ゼノなんて名前になったんですか〉

 アタランテだ。翻訳は彼女の仕業だった。ゼノは思わず安堵の息を吐いた。ようやく俯瞰次元通信の断絶域が明け、ゼノの中の身体を再構成したらしい。アタランテといえどゼノの身体の中では汎銀河ネットワークストリームの支援なしに端末を維持できない。

 零距離、零時差、零コストを誇る人類版図ガラクティクスの俯瞰次元通信であっても、ミドルアースこの世界との間には断絶域と呼ばれる一定期間の空隙が生じてしまう。

 生意気な猫の姿をした俯瞰次元通信の開発者に欠陥品だと言ってやりたいが、実際のところ秘匿扱いで接続しているミドルアースこの世界の方が理論的におかしいのだから、仕方がない。

〈実際その通りじゃないか。使ったことのない名前でもなし、この子が名前だと思ったならゼノでいいよ〉

 ゼノは諦め半分に憮然と応えた。むしろ面白がっているようでもある。

「居留地に来る前どこにいたの? 空から来たって本当?」

「待って、待って、まず君の名前を教えてくれないか」

「あっごめんなさい、ぼくは――」

 言い掛けて樹蟲衆エルフの子供はそのままの格好で固まった。突然ゼノが自分たちの言葉を喋ったからだ。何度か答えようとして、ぱくぱくと魚のように喘いだ。

「フィン――ク。違う、フィンク」

 名乗ったものの、慌てて言い直した。

「フィンクフィンク?」

「フィ・ン・ク」

 フィンクは言い聞かせるように繰り返した。耳を伏せて震えているが、怒っているのか恥ずかしがっているのか今ひとつよく分からない。

「フィンクか。悪かったねフィンク、僕は時々言葉を忘れるんだ」

〈説明に気を付けてください。異種接触憲章を前文から読み上げましょうか?〉

「そんなことってあるんだ。高台衆ハイランダーってみんなそうなの?」

 フィンクが大きな目をさらに見開いてゼノを見つめる。

「ええと、僕は特別だ」

 ゼノは好奇心にはち切れそうなフィンクの目を眺め遣り、うーんと大きく唸った。会話はまだぎこちないが、素直なフィンクがどんどん面白くなってくる。

「僕の中にいる言葉を使う精霊が怠けるのさ。アタランテって言うんだが」

〈不正確な情報は交流の障害になりかねません。そもそもあなたは協定を――〉

 ゼノの悪戯心を察したアタランテが噛み付いた。

「精霊、精霊が身体の中に? ぼくらの蟲と同じようなもの? でも喋るなんて」

 フィンクの耳先が興奮して赤くなる。

〈蟲って何だ〉

〈主に菌類や微生物の全般を指すようです。樹蟲衆エルフは微生物のエキスパートだと公開レポートにありましたが――あなたはあのお買い物メモ程度のテキストも読んでいないのですか?〉

 脳裏にくどくどと説教が続いた。ゼノはそれを聞き流しながら、フィンクに向かって鹿爪らしい顔をして見せた。

「この精霊がまた煩いくらいよく喋るんだ。フィンクに聞こえないのが残念だな」

 フィンクは長い両耳を欹てた。

「ぼくの声はアタランテに聞こえてる?」

 ゼノはにやりと笑ってフィンクに向かって自分の耳をつついて見せた。フィンクは零れ落ちそうなくらい目を丸くして短く丸いゼノの耳を見つめると、おそるおそる顔を近付けた。

「こんにちは、アタランテ」

〈こんにちはフィンク。気を付けて、あなたの目の前にいるのは大嘘つきです〉

 もちろんフィンクにアタランテの声は聞こえない。

「よろしくってさ」

 ゼノはそう言ってフィンクに笑って見せた。


 *****


 陳腐な言葉で表現すれば、その出会いは運命ででした。もちろん、まだ何処かあやふやで――まるで気ままに風に流される能天気な雲のような、そんな茫洋とした旅の始まりに過ぎません。そんな怠けた夕暮れの後には、たいてい波乱に満ちた夜がやって来ます。ですが、二人にとってそれはもう少し先のことでした。

 そのときのフィンは抱え込んだ不安を遠くの方に置き去りにしていました。ゼノの隣にいて、ただ前を向いて、これから始まるとんでもない未来に浮かれて、小さな胸を期待でいっぱいに膨らませていたのです。それだけたくさんのものを詰め込むには、まだその胸は小さすぎました。

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