第818話 巨大な幼竜

扉を透過して中に入ると穏やかな寝息が出迎えた。アルは僕が部屋を出た時と前足の位置すら変えずに眠っていた。クラールはかなり動いていたが、ぐっすりと眠っている。


『…………』


口角が吊り上がるのを感じる。胸が温まるのを感じる。

大丈夫、どれだけ残酷な決断をしたとしても、妻子に平穏がある限り僕は人間性を保てる。


『………………愛してるよ』


透過を解いて二人の頭を撫でれば耳がピクピクと震えた。


『……カヤ、お願い』


僕にはまだやるべきことがある。再び透過し、カヤに乗り、ヴェーン邸を後にした。



石造りの家々が並ぶ静かで冷たい街を通り抜け、あばら家の戸を叩く。


『いらっしゃ~い、話はアインス君達に聞いてるよ~、うん、大した戦力にはならないけど~、やれるだけはやらせるよ~』


ギィィ……と音を立てて扉が開き、イカに似た触手が手に絡みつく。招き入れられるままに家に入れば古びた黄色っぽい布を被り、仮面をつけた何かが居た。


『話が早くて助かるよハスター、でも、アインスって誰?』


『……酷い!』


握手のつもりらしく手に絡みついた触手を解きながら玄関で立ち話をしていると家の奥から聞き慣れた声が届く。


『え? にいさま……ぁ、そっか、分身……居たね』


『君の手間を減らそうと思って話したのに……居たね、は酷くないかな』


『じゃあわざわざ来なくてよかったかな。ハスター、詳しい話はにいさま……の分身、アインス? から聞いてね。僕帰るよ』


再びカヤに跨ると再び手に触手が絡みついた。


『え~、もうちょっと話そうよ~、暇だよ~』


『僕は忙しい、離して』


『も~……僕に対してそんな口きくなんて〜…………随分、偉くなったね』


腕を締める触手に、首に巻き付いた触手に、視界を埋め尽くす白い仮面に、言いようのない恐怖を覚える。


『……ぁ、ごめん、その、えっと……』


『ま、いいや~、まぁたね~』


ハスターの姿がパッと消え、兄の分身の向かいに座っていたスメラギが顔を上げる。人間の身体に取り憑いたということは、僕に着いてきたり僕をこれ以上引き止める気はないということだが、呼吸を整えてカヤに命令を出すのにはそれから数秒かかった。



ヴェーン邸に戻り、兄に情報共有を頼んだからかベルゼブブとライアーが集まっているリビングに向かった。


『妖鬼の国の勧誘は失敗。正義の国とは違うけど、あれも神の国であって国民は神の子ってなってるからね……まぁ、魔性に従う気なんかないってさ。温泉の国も同じ……っていうかあの二国はそろそろ合併しそうな勢いだね』


ライアーは仕事中の酒呑を連れて妖鬼の国に向かったようだが、勧誘は失敗。機嫌を損ねた酒呑を職場に戻し、現在に至る。


『……獣人の勧誘に成功。にいさまが用意した転移陣を渡しておいたから何十人かが移動してくるはず……なんだけど、その場所どうする?』


『はぁ!? 決めてなかったんですか!?』


ベルゼブブが机を叩き、ライアーが頭を抱える。ベルゼブブはそのまま机の上に乗って僕の前にやってくると何度も頭突きを仕掛けた、翠の髪がぺちぺちと顔に当たって鬱陶しい。


『何を考えているかと思えばっ……なんっにも考えてなかったんですね!』


『戻ったわよーんっ……と、いや、取り込み中みたいだから帰るわ』


床に突如鞄が現れ、開き、マンモンが中から出てきたが帰ろうとする。


『兄さんマンモン止めて!』


『よそ見してんじゃねぇぞクソガキ!』


『今から話し合おうよぉ! 触角目に入るから顔近付けないで!』


兄と協力してベルゼブブを席に戻すとマンモンも席に着いた。改めて獣人達も含めた非戦闘員の疎開先が必要だと話す。


『植物の国に押し込むか、砂漠の国ぶんどるか、よねぇ?』


『ですね。離れ小島で戦場にならない場所でないといけません』


砂漠の国の跡地を使うというのはいい案だが、正義の国も狙っている土地だ、確実に戦闘になる。植物の国に押し込む……そうなると食料や居住地が足りないし、種族間の溝を埋める手間は今は避けたい。


『……あ、そうだわ、竜の里はどうかしら?』


『そりゃ天使にも見つけられない隠匿系統の亜空間の最高峰ですけどね、私共も見つけられないし干渉もできないんですよ』


『ええ、だって支配属性の魔力を起点として白銀種の竜が整えた結界だもの。そりゃ入り方を知ってる竜に導かれなきゃ竜の里へは入れないわ』


『…………開けるアテがあるなら最初からそう言いなさい! 本っ当に性格悪いですね!』


また悪魔達が口喧嘩を始め──いや、掴み合いの喧嘩になっている。


『二人とも 止 ま れ ! えっと……マンモン、その

竜の里? どうやったら行けるの?』


喧嘩を中断させられたベルゼブブは僕とマンモンに背を向けて椅子に戻り、マンモンは何事もなかったかのように振る舞った。


『魔物使いくぅん、あなた竜の子供拾ったでしょ? あの子連れてきて』


『あ、うん。カヤ、お願い』


港の辺りに住まわせ、逆叉達に面倒を見させておいた幼竜。まだまだ幼い水棲種の竜。彼なのか彼女なのかは知らないが、とにかくその子を連れてくるようカヤに頼んだ。


『え、ちょっと竜を室内に──』


ベルゼブブの静止も遅く、カヤは幼竜を連れてきた。机の上に巨大な薄い水色の鱗に覆われた生き物が現れ、机を破壊し、壁に尻尾をめり込ませ、天井に頭や翼を引っ掛けて大声で鳴いた。


『きゅぅうぅうっ! きゅううっ! きゅぃいいっ!』


『兄君! 早く空間転移なさい!』


リビングが光に包まれ、机の破片やその他の雑品と共に庭に転移する。開けた場所で離れて見れば、先程リビングを埋め尽くした巨大な生き物が幼竜だったことが分かる。


『……大きくなったね、そんなに放っておいたつもりはないんだけど』


『…………竜は本当に種類によって生態が異なるのでなんとも言えないんですが、幼児期間が極端に短く青年期間が異常に長い種類は多いんですよね……水棲種ったらだいたいそうですよ、飼うならそれくらい知っとけクソガキ』


ベルゼブブはバアルを喰ってから口が悪くなったし、キレっぽくなった。僕はそう確信している。


『きゅうぃ? きゅう! きゅうきゅぅ!』


落ち着きなく周囲を見回していた幼竜……いや、もう幼くないな、竜は僕を見つけると額を押し付けて甘えてきた。


『……っと、ととっ……よしよし、そんなに押さないでよ……ふふ』


僕の身長とそう変わらない大きさの頭を押し付けられれば簡単によろけてしまう。僕の頭よりも大きな瞳に見つめられ、瞳孔が狭まったり瞬膜が現れたりするのに若干たじろぎつつ、冷たい鱗を撫で回す。


『きゅう……きゅー……』


『…………なんか苦しそう。どうしたの? 大丈夫?』


『……こんなクソデカ水棲種が地上で普通に過ごせるわけないでしょ』


『に、にいさま! 港に転移!』


再び場所を変え、港の片隅に連れ立つ。水中に戻った竜は機嫌良く尻尾や翼を揺らしている。


『竜はほとんどの場合、その強大な魔力によって重力を誤魔化してその巨体を不自由なく動かしていますが、水棲種は魔力がそんなにないのにクソデカいので地上に出すと自重で動けなくなるんですよね』


『鯨とか自重で死ぬものねぇ』


知っていたならどうして連れてこいなんて言ったんだ? マンモンもここまで成長が早いとは思っていなかったのだろうか。


『……えっと、竜の里に行くのってどうするの?』


『え? 竜が知ってるはずよ? 聞いたら?』


竜が居るなら竜の里へ行く術を使えるから教えてやる……そんな言い方だったと思うのだが。


『…………竜……えっと、名前……名前、ある?』


『水棲種で翼があってこの体色なら……ウェイブハウンド・ロストオーシャン・ランダーバルト・ドラコ、ね』


『……え?』


『それにその子の名前を乗せて、名前は完成よ。付けてあげなさい』


『あ、じゃあ……シェリー……』


過去を巡る中で見た、前世で出会っていた可愛らしい白銀の竜。あの子の愛称はシェリーだった。そういえばあの子も名前が長くて自分でも覚えられていなかったな、可愛らしい限りだ。


『えっと、君の名前はシェリーだよ、シェリー、分かる? シェリー』


『きゅい? きゅー……きぇー、りー!』


『シェリー、あのね、僕は竜の里に行きたいんだ』


『きゅうぃっ!』


言葉が通じているのかどうか分からない不安の中でシェリーに意思を伝えると、シェリーは甲高く鳴いて海の中に潜ってしまった。磯臭い水飛沫を頭から被った僕は呆然と立ち尽くす以外の行動は取れなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る