第817話 人形か、無か
零はエアが自分を気遣うことなく当初の目的を達成するために空間転移を行うと思っていたが、その予想は外れてエアは雪華の前に居座った。後ろ髪を伸ばして作った触手をローブにシュルシュルと擦れさせて、その触手を雪華の手首と首に巻き付ける。
『ねぇ、君は人形でも欲しがるタイプ? それともそのものでないなら要らないタイプ?』
その質問の意図を理解した上で押し黙った零とは正反対に雪華は喚く。
「は、離しなさい悪魔! 助けてくださったのは感謝しています、ですから浄化して差し上げたいんです!」
『治療のお礼に殺してやる、だろ? はいはい』
「……あなただって苦しいでしょう! そんな冒涜的な力を身につけて……救われたいと思っているはずです! 神様は全ての生命に平等です、祈りさえするなら、邪悪なものを捨てる覚悟があるなら!」
余裕の笑みを崩さなかったエアの表情が変わり、雪華の手首を締め付ける強さが増す。
「痛っ……こ、こんなこと続けていたって、自分も他者も救われません! 神様を信じて、愛して、敬って、そうして──」
『黙れ! 僕が信じた神はもう死んだ!』
ミシ、と雪華の腕が軋む。次の瞬間、突然触手が凍って砕け、雪華は腕を引きちぎられることなくその場に座り込んだ。
「雪華……大丈夫?」
「…………ありがとうございます、平気です」
床に散らばった黒い氷が溶けるとそれはうにょうにょと動き出し、エアの髪とくっついて縮み、元のボブヘアーに戻った。
『……愛しても敬ってもいなかったけど、信用はしてたよ。馬鹿だし、強かったからね。信用してたから死んだんだよ、信用もしなきゃよかった』
蓄電石を収納している腹の辺りを摩り、ぶつぶつと呟きながら部屋の隅に向かい、膝を抱えて蹲った。
「…………ねぇ、雪華、覚えてる? 昔……」
「神父様に引き取っていただいた時のことならよく覚えています。家族を亡くした私に神父様はとてもよくしてくださいました。でも……だからこそ嫌なんです、神様を裏切った神父様が許せません……許したく、ありません」
「そう……分かったよ。決めた。君はもう零が守ってあげなきゃならない子供じゃないんだねぇ、立派になったね……」
零が分厚い手袋を外すと途端に室内の温度が下がる。頬に触れれば背骨が氷柱に入れ替わったような寒気に襲われたが、雪華は涙を零してその手に甘えた。
「…………苦しむことなく、辱められることなく、名誉ある死を……祈るよ、雪華」
凍って張り付いた涙を剥がし、手袋をはめるとその手でエアの頭を撫でた。
「行こうかぁ、お兄さん」
こくりと頷いたエアが魔法を発動すると彼らは雪華の知覚から消える。けれど彼らが部屋を去ったのは部屋の温度が上がり始めたことで分かって、神の次に敬愛していた育ての親が離れて、永遠に会えなくなったことを悟って、雪華は涙を溢れさせた。
教会を出た二人は子供が遊ぶ公園のベンチに腰掛け、クッキーの破片を運ぶ蟻達に視線を注いだ。
「……雪華はねぇ、娘みたいなものだったんだよぉ。だから……君に洗脳してもらってでも、無理矢理にでも、危険から離すべきなんだろうねぇ。それが親ってものなんだろう? 生命を何より大切にすべきなんだぁ」
大きな破片を小分けにして持っていく様子や、数匹で協力して運ぶ様子、そんな壮大でいて小さな光景に胸を打たれるでもなく、二人はただただ眺めていた。
「けど、決心したのなら応援してあげないとねぇ。子離れしなくっちゃぁ」
『…………死ぬのに?』
「……聖戦から逃げて神を裏切るなら当たって砕ける殉教の方がいいんだよ、神職者ならねぇ」
『ふぅん……』
興味なさげな返事をしたエアは大きな欠片をよろよろと運んでいた蟻を戯れに踏んで立ち上がり、零に何も言わずに歩いていく。俯いていた零はエアに踏まれたはずの蟻が靴底の溝にはまったらしく平気で巣に戻っていく様子を眺めていた。
カヤに跨って兄と合流したいと願うと次の瞬間には 僕は公園に居た。枝毛を探している兄と蟻を眺めている零を見つけ、透明化を解いて兄に声をかける。
『にいさま、ただいま。悪いけど魔法で透明にしてくれないかな、自力のやつじゃにいさま達は無効とかの調整できなくて……』
『おかえり、おとーと。今やったよ』
媚びた笑顔を浮かべる兄に以前の兄らしさは感じない。僕は兄に僕の所有物であるという自覚をより強固にさせるため、黙って手を伸ばした。兄は顔の前に広げられた僕の手のひらに数秒困惑していたが、すぐに察して少し屈んだ。
『よしよし、ご苦労さま』
髪型のせいか丸っぽい頭を撫でて、喜びが滲んだ表情を確認し、心の中でほくそ笑む。
『こっちは良い感じだったけど、そっちは?』
当初の目的である獣人達の勧誘は楽に行えた。それだけでなく僕が求めていた決定打になり得るオファニエルを取り込んだ。かつての友人である十六夜を瀕死にさせたのをマイナスとしても、倫理や精神状態を無視すれば上々と言えるだろう。
『……シスターの勧誘は失敗だよ、信仰心が強くてね。逃げるくらいなら戦争で死ぬってさ』
『どうしてそんな……生命より大切なものなんかないよ』
『甘いね。信じる心っていうのは憎しみよりも人を殺すものだよ』
鳥の嘴を模したマスクを被っているから分かりにくいが、俯いているその様子からは落ち込みが伺える気もする。
死ぬと分かっているのに無理矢理連れていこうとも思わないのだろうか? 雪華も友人だった、できれば来て欲しかった。殺し合いなんて嫌だ。
『…………神父様』
「ん……あぁ、魔物使い君、おかえりぃ。用事は終わったのぉ?」
『はい、加護受者の友人に会いました。戦友みたいな感じで結構仲良かったんですけど、ちょっと言い争いになって……酷いことしちゃいました』
悲しみとは言い難い虚無感を抱えた僕はあえて軽く伝えた。
「…………そう」
そんな言い方をするなと怒られるか、そんな言い方をしてしまうまで追い詰められたのかと慰められるか、どちらかだと思っていたが零は一言で会話を終わらせた。
『……雪華さんも説得失敗したんですよね。じゃあ、えっと……もう帰りますか?』
「零は用事ないよぉ」
『じゃあ……帰りましょう。にいさま、お願い』
足元に描かれていく魔法陣の内側に入った直後、光の洪水に流され、気が付けば神降の国の獣人地区の入り口にいた。
『……それじゃ、僕達はこれで』
「うん、ありがとう。ぁ……そうだ、今日昼から安売りなんだよぉ、忘れてたぁ、ごめんね、また今度改めてお礼言うよぉ」
『え、あっ……き、気にしなくていいですよー!』
走っていく零に返事を投げ、一歩下がって兄の胸で後頭部を打つ。無言で首を動かし、ぐり……と頭を押し付ければ再び空間転移が起こり、僕達はヴェーン邸の玄関に居た。
『にいさま、獣人の勧誘に成功したことベルゼブブ達に共有しておいて。あと、月の天使を取り込んだから月属性を手に入れたんだけど、何かいい使い道あるかな』
兄は一瞬驚いた顔を見せたがすぐに表情を戻し、月の魔力について話し始めた。
『知ってると思うけど、月属性の魔力は物質や結界を透過して、他の属性の魔力の結合を崩壊させる性質があるんだよ』
『なんとなく聞いたけど……結合って?』
『魔力は形質の違う複数のエネルギーが結合して属性を作る。その結合を崩壊させるから、魔力をそのままぶつける超能力系統でないと月の魔力には対抗できない。夜に降り注ぐ程度なら魔力の代謝が良くなっていいんだけどね……』
少し崩れる程度なら健康にいいが、多過ぎると体を壊す……食べ物でもよく聞く話だな。
『だから一点集中させて、コアや魂を狙えばかなり大きな損傷が狙えるね。月の魔力は月から降り注ぐ分しかない、他では生成できないってされてるけど、魔物使いの支配の魔力を合わせたら、もしかしたら他の属性の魔力からの変換が可能かもしれないから、試してみなよ』
小難しい話だったが何とか理解できた。やはり兄は頼りになる、複数の術を扱えることだけでなく、その知識と聡明さは有用な武器だ。
『ありがとう、にいさま。助かるよ。じゃ、僕は部屋に戻るから、共有とか報告は任せたよ』
『分かった、ありがとう、おとーと。また後でね』
少し優しい言葉をかけるだけで明るい笑顔に変わる、そんな兄の様子は面白い。僕を何年も虐め続けた兄が僕の支配下にあるのだ、面白くて面白くて笑ってしまう。
僕は笑い転げたくなるのを微笑む程度で我慢して、急ぎ足で部屋に戻った。
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