第812話 中央庁の職員
正義の国の街に一つずつある役所全てを回り、簡略魔法陣を渡した。説明や説得の難易度は案外と低かった。意味が分からなくても、信用ならなくても、今の状況が変わるなら……と手を伸ばす者ばかりだったのだ。産まれて数年で連れてこられて、しっかり稼げば帰してやると言われて働いて死んでいく。一桁台から客を取らされて、慣れてしまったとしても出られるものなら出たい。
まぁ、きっと今の暮らしでも十分だと言う者も、より悪くなる可能性があるなら行かないと言う者も居るのだろう。そんな者達には自分が行かないという選択をするだけで、密告なんてしないように願う。
『……ここが、中央庁か』
各役所にも一人二人は天使が居たが、中央庁は桁違いだ。視界に必ず翼と光輪が入る。下手に透過を解けば何十の槍が僕に飛ぶだろう。
『労働は獣寄り多めなんだっけ……』
彼らの仕事について深く知るつもりはなかったけれど、役所の地下街を回っていると語りたがりの者にも会う。獣寄りは主に労働、半数は売色と兼業。人寄りは主に売色、客がつかない者は手工業。どちらも労働時間は睡眠と食事以外のほぼ全て……悲惨だとは思うが、僕にはその過去まで救うことは出来ないし、同情しても過去が消える訳でもないので、聞かされても困る。僕にも過去の苦痛を話して同情を誘う癖があるが、聞かされる気持ちが分かると同情を誘った過去さえ苦痛になるな。
『地下、地下……あぁ着いた。11895だっけ……まぁ、会えたらって言ったし……』
中央庁地下の入り口に居た天使の話を盗み聞きしたところ、今は別の街で地下鉄を掘っているらしく、半数以上が出払っている。残っている者は──何か作っているな、器械かなにかだろうが、見ても分からない。
『天使結構近いし……うーん、どうしよう……』
今までは性風俗店ばかりだったから話す暇のある者が一人以上は居たけれど、今回は仕事中の者に話しかけなくてはいけない。僕が一人だけに話しかけたとしても仕事の手はかなりの人数が止めるだろう、そうなれば入り口に居た天使も不審がるだろうし──と悩んでいると、腕に短いながらも柔らかい毛が触れた。
『カヤ、何か見つけた?』
最初に行った店で伝言を頼まれた少女の兄、もしくは話を聞く余裕がありそうな者を探せ。そう言って放ったカヤが戻ってきた。早速跨って連れて行ってもらえば、仮眠室らしき部屋に到着。睡眠は交代で取るようだ。
獣人は耳や尻尾など各部位に獣らしさを持つ人間。
人寄りの獣人は見た目には獣らしさはなく、僅かに獣の習性を残す人間。
獣寄りの獣人は──二足歩行を主とするようになった獣と言うべきか、全身を毛皮で覆い頭部を獣に変えた人間と言うべきか──とにかく、頭部は完全に獣の形をしていて、身体はほとんど人間だが尻尾があったり爪が鋭かったりしていて、獣らしく毛皮に覆われている。
僕はそんな獣寄りの獣人達が雑魚寝している中を進む。毛皮の上からでもなんとなく分かる屈曲な肉体が服や毛布から見えている寝相の悪い奴がたまに居る。起きている者は居ないかとひとまず実体化し、獣と汗の匂いに眉を顰める。
『起きてる人居ない……起こそうかな…………わっ……!?』
冷静に聞いてくれそうな人を物色していると背後から抱き着かれた。腕を押さえる手の爪と背中に感じる毛皮の感触に天使ではないことを認識し、安堵する。そして耳元で鳴る荒い呼吸音に不快感を覚え、側頭部や首に押し付けられる鼻の長さにイヌ科の獣人だと察し、その不快感を薄れさせた。
『……あの、聞いて欲しいことがあるんですけど』
「………………雌、か?」
『は? ぁ、いや、僕は男です』
「良い女だ……妙齢の……経産婦か? だが、まだまだ……」
『全部違います。質の悪い若い出産未経験の男です』
出産を経験できる男なんて居ない──いや、待てよ、生物によっては卵を産み付けられたりする雄も居る、それらは出産と呼べるのではないか……なんて考えている場合じゃないな。
「………………男? あぁ……人間だな、だが、匂いは……」
まさぐり、目で見て、僕を認識した獣寄りの獣人は数十秒前まで寝転がっていた僅かなスペースに腰を下ろした。
「……異動か何かか?」
どうやら僕を職員だと思っているらしい。
『いえ、僕は侵入者で──待ってください、あなた、名前……っていうか番号は』
正面から見据えた彼は灰色の毛並みの狼の獣人だった。首から下は人間だから無視するとして、右耳が折れてはいるが鼻筋の通った中々の美形だ。もちろんアルには適わないが。
「……0053-11895」
『やっぱり! 面影ありますもん……目元とか、鼻の形とか……』
「面影……? 前に会ったことがあったか?」
『あ、いえ、妹さん……11896さんにペンダントの写真を見せてもらって』
鋭い爪の生えた手が僕の二の腕を掴み、引っ張り、無理矢理彼の前に膝立ちにさせられた。
「妹……妹に会ったのか。どうだった、痩せてはないか、怪我や病気は……」
『元気だって伝えてって頼まれたんです』
「元気……そうか、元気か、良かった」
腕を掴んだ手から力が抜ける。彼の膝の上に戻った彼の手の鋭い爪の先は赤く染まっていた。
『僕は魔王で、ここに来た用事は──』
僕は何度も繰り返して慣れた説明をまた繰り返した。僕は魔王、獣人を引き入れたい、来るか来ないか決めろ、そんな内容だ。
『妹さんは「魔王の国で一緒に暮らそう」って伝えてって言ってましたよ』
「…………妹は行くんだな、なら選択肢はない」
彼は受け取ったメモ用紙を腕の内側に押し当てた。毛皮の上からでも大丈夫なのかと不安になっていたが、模様は毛色を変えることによって現れた。
「焦げた……いや、染まった、いや違う…………すごいな、これ」
『だいたい四日後にその魔法陣の効果が出て、別の場所に転移します。なので僕が今言ったことを説明して、僕のところに来てくれるって人に今のあなたみたいに紙を押し当ててください』
「……分かった」
『一枚じゃ足りない……ですよね、たくさんあるので使ってください』
ここで最後だ、一番人が多い場所だし、残った紙束を全て渡してしまおう。
「………………なぁ、本当にアンタは俺達を助けてくれるのか?」
『最低限の衣食住と安全しか保証できません。保護とは少し違うので、転移して暮らしに慣れたら自立してもらいますよ』
「……手厚いな」
大きな口の端が吊り上がる。チラリと見えた白い牙がたまらない。不安げに垂れた耳も紙を眺めるために下を向いた瞳も、イヌ科らしい可愛さがある……だが、こういう感情は表に出すべきではない。彼らはあくまでも人間なのだから。
「妹とはここに連れてこられてから会っていないんだ、四日後が楽しみだ……なぁ、父と母や……獣人の国に残っている兄弟には会えるのか?」
『さぁ……あなたのご両親や兄弟には会ってないと思いますし、会っててもどの方か分かりませんし……でも、会わせる努力はしますよ』
獣人の国はもう消えてしまったけれど、肉食の獣人達は神降の国の獣人区域で暮らしている。狼の獣人を見た記憶はないから分からないけれど、居るとすればそこだろう。
「そうか……希望が多いな」
『それじゃあ、僕はこれで』
「待ってくれ、最後に……」
カヤを座らせて彼に向き直ると彼の鼻先が腹に押し付けられた。
「……っ、あぁ、本当に良い女の匂いがするな……アンタの匂いじゃないみたいだ、染み付いた匂いだな、クソ、勃つなコレ……この匂いの主にも会いたいな、きっと美しい雌狼だ、是非求婚したい……」
『…………妹さんのじゃないですか?』
「妹と抱き合ったのか!?」
『あっ、そ、そんなに染み付いてるなら違います、手も触ってません!』
各役所を回って接触した獣人は多いが、抱き着いて擦り寄ってきたりした者は居ないし、ましてや狼の匂いなんて心当たりは──ある。
『…………多分僕の妻です。やめてください離してください嗅がないでください勃たせないでください求婚なんかしたらその鼻折るからな!』
前に狼の群れに会った時にも口説かれていたし、やはりアルは相当魅力的な雌狼らしい。僕は僕の妻なんだぞなんて自慢するより先に嫉妬が湧いてしまう、自分でも思う、面倒な男だと。
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