第790話 三十六万と五千の瞳
ザフィエルは驟雨の天使で、彼の魂は真球の中に雨雲と雨水が見えた。だからミカの魂は真球の中に炎が渦巻いていたりするのだろうと思っていたけれど、どちらかというと内臓らしさを感じさせる深紅の硝子に似て見える真球だった。
ミカの涙混じりの微笑みを横目に、これで僕にも決定打が手に入るのだと口角を吊り上げて手を伸ばすと、その手を純白の槍が貫いた。
『え……ぁ、みつかった!』
青い顔をして空を仰ぐミカ。倣って視線を上げるとミカに降り注ぐ神力のために雲に空いた穴が眼窩となり、巨大な瞳がこちらを見ていた。
僕の手を貫いた槍を透過しようとすると雲のあちらこちらに眼球が現れ、無数の眼は全て僕を捉え、槍を降り注がせた。
『メ、メタトロン……これは、ちがう……その』
名前を呼ぶということはアレも天使なのか? 実質的な天使長であるミカより上なんて存在するのか?
いや、それよりどうして僕の身体を串刺しにした槍を透過出来ないんだ? 痛みや熱はないが、身動きが取れない。自由意志を超えて束縛する力をあの瞳の主が持っているのか? それともただ単に僕が『黒』の力をしっかりと引き継げていないだけ?
『……っ、魔物使い! ぼくのたましいを──』
赤い真球は空から降り注ぐ炎の柱に隠され、その炎が引くと真球は消えていた。
『ミカ!? これって、君……!』
『……きょうせいそうかんだ。魔物使い……ばいばい、かわいいっていってくれて、うれしかった……』
ミカの巨大な翼に宿る白い炎が勢いを増して彼を包み込み、天へと突き抜ける。その炎の柱が消えるとミカはもう居なかった。ミカが消えると同時に空の眼球も消えていた。
『僕の決定打……! くそっ、なんだよ、こんな槍っ!』
無数に刺さった槍で力を込めることすら叶わないけれど、篦鹿の女神に教わった力で頭に角を生やすことはできた。この角は精神状態が良好なら白く硬い角のままで豊穣をもたらす。しかし精神状態が良好でないのなら黒い粘液に覆われて柔らかくうねる無数の腕となり、黒く粘着質な液体に触れた物を枯らす。
角を腕に変えて槍の持ち手らしき部分を掴み、身体を裂いて脱出を試みる。天使の槍は僕にも扱えるはずなのに、この槍だけは何故か動かせない。骨を割り、肉を裂き、無数の槍の檻から肉片に変わってでも脱出しなければならない。
脱出を果たす頃には肉体の八割以上を失い、半分になった頭から腕を生やし、首にズタボロの皮をぶら下げているだけとなった。再生には何分かかるだろう、意識がハッキリしたまま損失と再生の感覚を味わうのは痛覚が消えていても不快なのに……
『おとーと! 大丈夫? 待って、今治すからね……』
ぽこぽこと肉が生まれていく不快感が消え、四肢の感覚が戻り、元に戻った視界は兄を捉えた。
『にいさま……? なんで、アルの傍に居てって!』
『僕より頼りになる奴は大勢居るだろ? それにアルちゃんの傍にも僕は居るから心配しないで』
『え……ぁ、分身? そっか…………ごめん、心配して来てくれたんだよね。なのに怒鳴って……本当にごめん、ちょっとイライラしてて…………来てくれてありがとう、にいさま』
兄の手を借りて立ち上がり、地面に突き刺さった無数の槍を見る。置いて行かれた僕の血肉骨に……あの布は、服?
『え……ぅわああっ!? 全裸!? に、にいさまっ! にいさま、上着ちょうだい!』
『あ、あぁ、うん……待って』
兄はローブを脱いで僕に渡してくれた。僕はローブの前をしっかりと重ねて髪紐を腰に巻き、留め具のないローブをしっかりと留めた。
『ふぅ……ご、ごめんね、にいさま。ローブ取っちゃって。帰ったら僕は自分の着るから……』
防護魔法は天使の槍を防げるのか? 貫通されそうな気もするが、ミカの剣や他の天使の攻撃は止めていたし、防げるのかもしれない。だとしたら正装のままで来なければミカをしっかりと取り込めたかも──あぁ、役に立たない後悔をするのは僕の悪い癖だ。
『はぁ……にいさまのローブ常に着るようにするよ……』
日常生活に裾や袖が邪魔だからと怠惰で油断せず、常に着ることを心掛けよう。兄はそうしているし。
『そうして欲しいな、ひと針ひと針に想いを込めて作ったんだからね』
だから呪術的効果もあると考えると兄の思いが重いし怖い。
『さ、帰ろう。宴会はまだやってるよ』
『あ、待って、ロキが……』
『あの邪神が何?』
『ちょっとゴタゴタしてて、ロキは今逃げ回ってるはずだから、合流したいんだけど』
損得を抜きにして彼は友人だし、殺害容疑には不審な点が多過ぎる。何より、子供を引き裂いて腸を取り出して拘束具にするという行為が許せない。
『逃げ回ってるって……あの邪神の逃走範囲なんか人界に収まらないだろ? 無茶言うね、君も……』
兄の手に魔法陣が浮かび、魔法陣は人の頭程度の大きさの球を投影する。
『これがこの星。それで、あの邪神の神力反応を調べると……んー……』
投影した球に手を翳し目を閉じていた兄は、数十秒後突然目を開け、僕を抱き上げて横に飛んだ。その直後、僕が立っていた場所にロキとヘイムダルが現れ、深いクレーターが作られる。
『にいさまっ! だ、大丈夫?』
クレーターができるような強い衝撃波は直撃しなかった僕達をも襲った。僕にはローブの防護結界があったけれど、兄は僕にローブを渡してしまっていた。
『……平気。細胞に書き込んでる分もあるから心配しないで大丈夫だよ、でも弟に心配されるとお兄ちゃんは嬉しくなっちゃうからどんどん心配して欲しいな』
『そ、そう……?』
僕にローブを着せたくせに、僕は肉片になっても問題なく再生すると知っているくせに、兄は僕を庇うように抱き締めた。その咄嗟の行動に喜んでしまう僕には兄の発言にたじろぐ権利はない。
『……ぁ、ロキ! にいさま、ロキに加勢したいんだけど、何かないかな』
『僕は神々の戦いにはついて行けない。けれど、君なら辛うじてついて行けるだろう? だから僕にできるのは君の補助と君の戦闘能力の引き上げ……うーん…………ロキと戦ってる相手がアルちゃんを殴るのを想像したら?』
『……………………殺してやるっ!』
『援護はするからやっちゃえ! 流石僕のおとーと…………弟に押し付けるとか……兄失格だなぁ』
ミカの攻撃によってこの場は既に荒地になっているから、女神に教わった力を振るうのにちょうどいい。角を生やし、腕に変え、その腕を黒く粘着質な液体で覆い、透過しながら二人の間に飛び込んで実体化し、僕自身の手でヘイムダルの足を掴む。
『足高蜘蛛十刀流複写、演舞……俄雨!』
頭から生えた無数の腕に握らせた雨の剣でヘイムダルを滅多刺しにする──この手は本当に有効なのか?
『……っし、いいぞタブリス! やっちまえ! 死ね冤罪野郎!』
有効らしい。しかし、冤罪野郎じゃ冤罪を受けた側に聞こえると思うのは僕だけか?
『ロキ、君本当にやってないんだよね!』
『やってねぇよ! バルちゃんは友達だし……俺様は致命傷以上のことはしねぇって決めてんの!』
『致命傷って……それ死ぬよ?』
冤罪ではないのでは──いや、ロキが自分が犯人だと喧伝したとヘイムダルは言っていた。自慢のようなものだろう? なら僕に殺していないと嘘をつく意図が分からない。
考え込んでいるとヘイムダルは掴まれている部分を切り落として拘束を抜け、距離を取った。
『ヘイムダル! フェンリルとヨルムンガンドとスレイプニルは!』
『ロキ? それは……』
『俺様の息子だ、ヘルには手を出せないだろうし、スレイプニルはオーディンとこだから平気だろうけど……』
『フェンリルは狼でヨルムンガンドは蛇だったよね?』
『アイツら問題児だから殺されてそうで怖いんだよ……! 最近ずっとこっち居たし……』
心配するくらいなら向こうの世界に居ればよかったのに。そうしていればこんな面倒な冤罪事件もなかったかもしれないし、起こったとしても僕は巻き込まれなかった。
『……安心しろ、まだ死んではいないさ』
『まだ? まだって、てめぇ俺の息子に何しやがった!』
『…………ろくに面倒を見ていないくせに、何を怒ることがある。気になるのなら戻ってくればいい、戻らないのなら君を捕えるための道具に変えるだけだ』
これは脅しか? 息子を人質としているのだ、やはりやり方が気に食わない。
『ロキ……』
『…………ハッ! フェンリルやヨルムンガンドを倒せるような奴てめぇらの中には居ねぇよ! 唯一可能性があるとしたらあのバカくらいのもんだが、あのバカは俺の親友だ!』
『ロキ、大丈夫?』
『……あぁ、平気だ。あのバカまで俺を疑ってたりなんて、しないはず……』
さっきから言っているその「あのバカ」とは誰のことだ。そう問うた僕の声は落雷の音に掻き消された。
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