第716話 もう一度、もう二度と

半吸血鬼には本来存在しないはずの蝙蝠の翼が皮膚と服を突き破って広がる。

撒き散らされた血を黒翼で防ぎ、アルは慎重に尾を伸ばしてクラールを引き寄せた。


『…………動くな、クラール』


それだけを伝えて前足の間に挟み、軽く頭を乗せた。

そんな母娘の前でヴェーンは目を血走らせて呼吸を荒らげ、全身を奔る血の急激な魔力の量と濃度の増加に耐えていた。首を掻き毟って熱い血を出して楽になりたい、そんな欲求を押さえ込み、とても人と同じ構造をした肉体からとは思えない咆哮を上げた。


『……鬱陶しい。必須悪辣十項其の三、斬殺。並び其の五、毒殺』


凝縮された魔力の塊は剣となり、そこに透明の液体が滴る。一滴でも体内に入れたなら勝利、特に心拍の激しい今のヴェーンには早く効く──マスティマは勝利を確信した。


『さ、かかってきなさい。あなたと違って私にはそこまで急ぐ理由はありませんから……』


ウリエルが居るのだから魔物使いとその仲間がこちらに向かってくる訳がない、そう考えていた。


「……伝言、アルギュロスが重体……すぐに来い」


『…………はぁ?』


マスティマはヴェーンが誰に向けて言っているのか分からず、強過ぎる血を飲んだことで少しおかしくなっているのだろうと小馬鹿にした笑みを浮かべる。だが、その表情は屋根からぶら下がった巨大な蝙蝠が作る影に崩される。


『伝言! 伝言! アルギュロスが重体すぐに来い!』


『……眷属!? ダンピールのくせにっ……』


マスティマは即座に蝙蝠に向けて剣を振るうが、その腕に飛びかかったヴェーンに剣先を逸らされ、蝙蝠は無傷で飛んで行った。


『離しなさい! このっ……離せ!』


蹴り飛ばし、切りつけ、余裕を取り戻す。


『ふんっ! この毒はあなた程度のダンピールなら即死……に……』


しかし、身体を霧に変えたヴェーンの下にポタポタと透明の液体が滴るのを見て顔を青くする。


『ひっ、必須悪辣十項其の九、禁殺!』


ヴェーンを閉じ込める魔力の箱を作り出し、圧縮していく。普通の魔物ならば簡単に圧死し、その死体はキューブ状になるため楽に処理出来る便利な技。しかし霧は僅かな隙間からも抜け出す。マスティマの背後に回って実体化したヴェーンは腕を彼女の首に巻き付け、締め上げる。


『……っの、程度で……私を殺せるとお思いですか!』


剣を逆手に持ち替えて身体を捩り、ヴェーンの腹に突き刺す。霧となって毒を除けば自分も腕から逃れられる、そう考えての行動だったが、ヴェーンは霧に変わろうとしない。それどころかマスティマの頭に噛み付いた。


『痛い痛い痛いっ!? 頭っ、頭噛むとかっ……頭おかしいんですか!? 痛いですって! このっ……離しなさい! 霧にならなきゃあなたが死にますよ!? 私この程度平気なんですよ!?』


天使は首を切られても頭を潰されても死にはしない、死にはしないが、痛い。他者を圧倒的優位から痛めつけるのはいいが、自分が痛いのは嫌、マスティマはそんな性格をしていた。


『こんっの……! こんな、雑魚にぃっ! このマスティマが……負ける訳、ないでしょうがぁっ!』


半吸血鬼如きに負ければ完璧だった経歴と名前に傷が残る。

マスティマは自分に噛み付いているヴェーンの首を両手で掴み、掴めるだけの肉を引きちぎった。魔界に住む者とは違って肉体を基本とするヴェーンは毒が回ってきたのもあってその損傷に意識を保てず、口を離した。


『はぁっ……手間取らせてくれましたね! 手も離しなさい……離せ!』


腹に突き刺していた剣を抜き、首に絡みついた腕を切る。自由になったマスティマは崩れ落ちるヴェーンを踏みつけ、傷を再生しつつアルを睨む。


『……さぁ、奥方。子供を渡してくれたらあなたに酷いことはしませんよ』


『…………何故、クラールを』


『そりゃ、人質はそいつの子供ってお決まりでしょう? 透け透け鬱陶しい魔物使いも子供盾にすれば黙って嬲らせてくれますよねぇ?』


アルはゆっくりと立ち上がり、クラールを尾で押して背後に押し、翼を広げて牙を剥く。


『……残念です、無益な殺生は趣味じゃありませんのに……ですがこれは必須事項。そう、これは必須悪辣……必要な死……さぁ、あなたは撃殺です』


魔力によって銃を作り出し、装填の必要がない魔力の凝縮体を撃ち出す。それを肩に受けたアルは怯むことなくマスティマの喉に食らいついた。マスティマは予想外の愚直さに驚きながらも銃口を腹に押し当て、何度も引き金を引く。


『…………おかーたん? おかーたぁ……きゃんっ!』


火薬の音と血の匂いに怯えて母親を求めたクラールはその母の尾に弾かれ、壁際に戻される。スカーフに施された魔法によって痛みはなかったが、母に拒絶されたという落ち込みはあった。そしてクラールを押し返したのを最後に尾は動きを止め、クラールの目の前に落ちた。自分を殴り飛ばしたばかりとはいえ縋りつこうとした物がすぐ傍に来て、クラールは恐る恐るそれに額を寄せ、自分を弾かないことに安堵して全身で擦り寄った。


『……おかーたぁ、おかーたん……きゅうぅん……』


何発も撃ち込まれて身体が真っ二つになっていようと、アルは決して口を開かない。噛む力が増すことはあれど減ることはない。マスティマは痛みや出血によるアルの衰弱を狙うのではなく、顎の筋肉を狙うだった、それだけがアルを引き剥がす方法だったのだ。けれど彼女がそれに気付くことはない、省みることを捨てた獣と戦ったことなんてなかったから。


『封印陣展開、属性……悪、種別……神』


マスティマの手から銃が消え、手も身体の横に落ちる。


『アルちゃん、もういいよ』


一度もしたことはないはずなのに手馴れた動きでアルの顎を外し、軽くなった身体を持ち上げて封印陣の外に出す。


『…………兄、君……?』


『ちょっと待ってね、すぐ治すから』


傷の再生すら出来ず肢体の末端すら動かせずにいるマスティマには何の興味も持たず、エアはアルを抱きかかえたまま傷に何の感想もなく治癒魔法をかける。


『……私より、あのダンピールを……毒だと聞いた、早く処置しなければ……』


『分かった。じゃあ続きはこれで』


エアは着ているローブを脱ぐとアルに乱雑にかけ、特に慌てることもなくヴェーンの元へ。ローブに施された治癒魔法の魔法陣が幾つも輝いてアルの傷を癒していく。アルはまだ完璧ではない後ろ足を引きずって進み、自分の半分だった肉塊の断面に口を寄せる。


『………………ごめんなさい』


血に汚れた白い卵の殻──卵の殻と言っても鶏の卵のようなものではなく、蛇の卵に似た弾力のあるもの──割れたそれの中からは管のような物が見える。


『治った? アルちゃん、ダンピールは大丈夫そうだよ。早く来れてよかったよー……ん? 元自分にお別れ?』


『…………そうだな』


アルは卵の殻ごとそれを口に含み、丸呑みにした。


『え、ちょっと……食べたの? まさかこれ全部食べたいの?』


『いや、もう要らん。好きに処理してくれ』


エアが手を翳して魔法陣を浮かべるとアルの半身だった肉塊は血の跡も残さず綺麗に消えた。


『さ、て……クラールちゃーん、叔父さんだよ、おいでおいで』


クラールから少し離れて膝をつき、手を叩いて呼ぶエア。その態度は甥っ子と言うよりも野良犬に対するものだった。


「…………アル」


『……無事か』


覚束無い足取りで自分の隣にやって来たヴェーンを見上げ、そっと匂いを嗅ぐ。


『ヘルの匂いがする……』


「大分飲んだからな、おかげで傷治してもらっても後遺症消してもらっても結構だるくてさ……」


その場に座り込んだヴェーンはヘルの血の効力と味について二、三笑い混じりに語り、ふと表情を消す。


「…………なぁ、その……子供、は?」


『クラールなら無事だ、貴様のお陰でもある。感謝する』


「そっちじゃ……なくて、その、腹の……方」


『…………腹に戻した』


口を開けて牙を見せ、わざとらしく唾を飲み込む。


「…………っ、悪い……俺、弱くてっ……!」


『問題無い。貴様が居ようと居まいと同じ事だ。戦い以前から激しく動き回り過ぎた……確信が無かったとはいえ、迂闊過ぎたな。次があれば疑いが消えるまでは安静にしよう』


「……お前が動き回ってた時だって、俺ずっとお前に乗ってて……結構、負担かけてたよな」


『気にするなと言いたいのが分からんのか。もしヘルに今までの出来事がバレてみろ、貴様も私の子と同じようにしてくれる』


言えば食うぞと脅され、ヴェーンは寒気を覚えつつも反論した。


「言わないつもりかよ。言った方がいいだろ」


『……何だ、喰われたいのか? ならそう言え』


「違う違う違うっ!」


『貴様の言い分は理解出来るがな、私とヘルには合わない。だから聞かない』


「…………分かったよ、言わなきゃいいんだろ言わなきゃ」


『……いい子だ』


バツが悪そうにしながらも黙り込んだヴェーンから目線を外したアルは前足で器用に首飾りの石を持ち上げる。傷が付かなくて良かった……なんて考えながら、美しい色のままだから精神状態は良好だな……なんて考えながら、慰められたいという欲を誤魔化した。

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