第707話 それぞれの危機、邸宅の場合

酒色の国を覆う結界を解いた後、マスティマの封印を解いたナイはヘルをからかいに行く途中で巧妙に隠されたヴェーン邸を見つけた。光を歪める、魔力視から逃れる、触覚を誤魔化す、自然災害すらも弾く、幾重もの魔法を解いていく。ライアーがかけた魔法はエアのものほど簡単ではないが、ナイには解けた。

少し時間をかけて解いて、陶器製の天使達の下を醜い鳥に乗って通り過ぎ、ヘルの元へと急いだ。



ヴェーン邸のキッチンではフェルがささみを茹でていた。ぷるぷる食感が失われないうちに引き上げて、身を割いてちぎって小さくしていく。炊いておいた米を浅い皿に入れたら、お湯を足してふやかしていく。卵を入れて、細かくしたささみを入れて、スプーンで混ぜる。


『…………ネギ入れたいけど』


味覚のないフェルには味見が出来ないが、触れただけで成分分析は出来るので人の舌よりも正確に味が分かった。ちなみに今作ったささみ卵お粥は調味料無しの薄味、可愛い姪っ子のためのベビーフードだ。


『……ダメだよね』


フェルは視界の端にあるネギに惹かれるが、手を伸ばしはしない。彩りと風味のために危ない橋は渡れない。

アルは合成魔獣で賢者の石をコアとしているから何だって食べられる。けれどその子供のクラールはどうだろう、詳しく調べていないうちから危険な物は食べさせられない。

フェルは体内から「イヌの飼い方」という本を取り出して、他に御法度とされる物はないかもう一度目を通す。次いで「トリの飼い方」「ヘビの飼い方」などなども。


『……ん?』


本から目を離し、異音が聞こえた天井を見上げる。その直後、天井を突き破って白く輝く槍が現れた。


『ぅわあっ!? わ……っと、と……危な……』


フェルは咄嗟に仰け反り、槍は彼の腹部を貫通して床に刺さった。地下一階まで通っただろう。フェルは天井を見上げて第二波が来ないだろうかと警戒しつつ、身体を一部溶かして槍を抜いた。


『……うわ、焼けてる』


フェルは槍が触れた部分が焦げているのに気付き、そこを削ぎ落とした。再生を終えて削ぎ落とした炭のカスを見て、粘液を一瞬で炭化させる槍の力に息を飲んだ。


『…………ぁ、お粥……よかった、無事だ』


槍は他の所にも落ちている。壁から側面が僅かに見えているものもある。フェルは外で起こっていることを想像して怯えつつ、クラール用のお粥を体内に収納した。


『えっと……ヴェーンさんとグロルちゃんがさっき出かけて、鬼と淫魔は全員仕事で……』


家の被害状況を確認するため、パタパタと廊下を走り回る。


『お兄ちゃんは隣の国……お姉ちゃんとクラールちゃんはにいさまが送ってって……ライアーさんは夢に入ってたはずだけど……出ててもお兄ちゃんの方か。ベルフェゴール? とかいう悪魔は起きないし……』


自分を守ってくれる者はこの家に居ない。そう悟ったフェルは恐ろしくなったが、同時に強い魔性が居ないなら狙われないのではないかと逃げ道を見つけた。フェル自身はそう強い魔力を発してはいない、国民の淫魔の約半数はフェル以上の魔力を持っている、部屋で寝ているだろうベルフェゴールから離れたら見つからないかもしれない。


『…………よし、逃げよう!』


自分が他の者を助けに行ったところで意味はない。弱さを免罪符にフェルは家を出る、そして──


「すぅっ、らいむぅーっ! 助けて!」


──逃げてきたアザゼルに見つかった。


「はぁ!? こっちの結界もないのかよっ……やばいやばいやばいやばいっ!」


アザゼルはヴェーン邸の結界だけは無事だと思っていた。隠れられると、逃げ込めると、そう思い込んでいた。

だから、追いかける者を振り切ってから……なんて考えはなかった。


『……最悪。何てことしてくれたんだよ堕天使!』


フェルはアザゼルを追ってきた炎を纏った赤い長髪の天使──ウリエルを見て絶望し、とりあえずアザゼルを責めた。


「知らねぇよ! 何で結界溶けてんだよしっかり守れよお前自宅警備員だろ!?」


そして逆ギレに遭った。


『何か知らねぇがアテが外れたみたいだな? 裏切りモン。調査対象の外来種まで案内してくれてありがとよ』


「そっ、そうだ! 案内してやったんだよ、コイツやるから見逃してくれ!」


『は……? な、何言ってんの!?』


「王様には俺を庇って死んだって言っとく! 株は上げてやる、二階級特進だ良かったな!」


アザゼルはフェルの服を掴んでウリエルの方へ投げ、自分はヴェーン邸の中に逃げ込んだ。ヘルの部屋の結界は残っているかもしれないという希望を糧に、自分のために犠牲になった仲間のことを思って──などは特になく、走った。


『ぁ、あっ、あの……僕、この家で、家事やってるだけでっ……』


『…………外来種、だな?』


『ひ……ゃ、嫌っ、お兄ちゃんっ……!』


逃げようとしたフェルの目前に炎の壁が現れる。踵を返せば後ろにも。四方を囲われ、上を見ればそこも塞がる。炎のドームに囚われ、炎を抜けて入ってくるウリエルを見て、フェルは死を確信する。


『俺さ、基本属性の中で火は最強だと思ってるんだよ。すくみとか言うけどさ、水なんか蒸発しちまうし、氷だって一緒だよなぁ?』


『お兄ちゃんっ! お兄ちゃん、お兄ちゃん助けてぇっ!』


『……スライムへの有効打は火、だしなぁ?』


ウリエルはフェルの二の腕を掴む。フェルの右腕は一瞬で黒く焦げ、ウリエルが軽く指で弾くとバラバラと崩れ落ちた。


『ほれっ』


足を蹴られれば膝から下が右腕と同じように崩れる。全身が燃え上がらないのはサンプルを持って帰りたいウリエルの火加減によるものだった。

断面が焼けているからまずそこを落とさないと再生が進まない。けれど、焦げた部分を落としても落としても四方の壁が表面を焼く。


『……ところでよ、お前スライムだよな? 兄貴誰だよ、スライムか? どこに居んだ?』


サンプルは多い方がいい。呼吸で体内も焦げ付いて話せなくなったフェルの肩を蹴って四肢を失った身体を倒し、踏み躙る。今度はウリエルの足が触れてもフェルの身体は燃え上がらなかった。


『なぁ、お前をこれ以上燃やすとサンプルになんねぇからさ、質問には早めに答えて欲しいんだわ。答えろよスライム、なぁ。お前の兄貴どこだよ! 呼べよほらぁっ! お兄ちゃーんってさっきみたいにバカみたいによぉっ!』


腹を踏んでも、胸を踏んでも、焦げたフェルの口からは何も聞こえない。


『やり過ぎたか……? 兄貴どこなんだよクソッタレ!』


『…………兄貴はここだよクソ天使っ!』


炎の壁を突き抜けてきた白い手がウリエルの首を掴み、飛び込んできた勢いそのままに押し倒す。


『兄さん! フェルの治療、家の中の敵潰し! 安全だったらアルはベルフェゴールに薬打って!』


重力に従って倒れながら指示を出し、ウリエルの首を鬼の力で締め上げる。だが、その手も黒く焦げて崩れる。


『お前……スライムじゃねぇな? 魔物使いか! 大収かっ……!』


ヘルを跳ね上げて、両手を失ったヘルを見て勝ち誇ったウリエルはみぞおちを蹴られて吹っ飛ぶ。ヘルは右足の膝から下を失うが、転ぶこともなく蹴った体勢のままウリエルを睨んでいた。


『へぇ……今まで魔物使いったら本人は貧弱なモンだったが、お前随分強いなぁ?』


『…………う……る、さいっ……うるさい』


『人間でなくなって大問題ってのはマジだったか! イイっ……ねぇ、面白いじゃんよ!』


『うるさいんだよっ……! 黙って、死ね、害虫がぁあっ!』


再生した右足を使って跳躍し、再生途中の腕を伸ばし、猪突猛進にウリエルの首を狙う。


『はっ、トーシロが!』


ウリエルはそれを迎え撃つために指で十字を作り、技を出すタイミングを狙う。その手に触れる寸前で爆炎が上がる──が、ヘルはその炎とウリエルの身体をすり抜けて背後に居た。


『……っ、意外と冷静だなぁっ! けど、俺には触れねぇ……だろ?』


『…………かもね。でもさ、やる気がなくなったらその熱さもマシになるんじゃない?』


『はぁ……? お前みたいな面白いの目の前に居んのにやる気なくなったりするかよ』


『……まぁ、君みたいな強そうな天使に効くかは知らないけど』


主語のない文章を聞いたウリエルは時間稼ぎに訳の分からないことを口走っていると考え、ヘルとの会話は無意味だと判断して、両手に炎を溜める──溜めようとする。けれど、どうにもやる気が出ない。瞼が落ちる。睡眠なんて必要無いはずなのに強い睡魔に襲われる……ウリエルはその場にゆっくりと座り込んだ。

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