第706話 それぞれの危機、蝿の場合

ナイがヘルに接触した頃、エアはナイを探しに酒色の国の上空に居た。髪を伸ばした触手を胴に巻き付け、背中側で翼のような形にし、魔法を使わずに飛行していた。


『邪魔っ! どこっ……どこに、あの邪神っ……!』


通りすがりに鳶のように旋回している陶器製の天使達を触手で薙ぎ払い、今はない結界の範囲外だった山中に着地する。目印として布を巻いた枝を見つけ、その木の根元を探る。抉れたそこには何も居ない。

エアはここにマスティマを封印していた。天使である彼女を殺すことはエアには出来ず、けれども二度とヘル達に近付けないように、結界の外で封印したのだ。

けれど、その封印も解かれてしまっていた。魔法を主として呪術も魔術も混ぜたのに、ナイはそれを容易に解いた。


『…………どうしよう』


ヘルに嫌われる。エアの頭はその文章でいっぱいになった。


『嫌、嫌だっ……つ、次は上手くやるから……』


次があるとは限らないし、あったとしてもナイを超えることなんて出来ない。エアは自分で自分を追い詰めていく。


『ごめっ……ごめんなさい、ごめんなさいっ、上手く出来なくて、約立たずで……期待に応えられなくて……』


四肢の末端が溶け始める。何年もの間ヘルに言わせ続けていた謝罪を、何年もの間娯楽として消費し続けた謝罪を、誰にも聞こえないのに繰り返す。

この失敗が許されないのは分かっている、自分なら許さないから。

激痛と共に責められるのも分かっている、自分ならそうするから。


『許して……ヘル、許して……!』


もう二度とヘルと兄弟にはなれないと確信し、激痛を最期の思い出として消されると確信し、それに怯える。

自分ならそうするから、思い込んだ恐怖は決して拭われない。


『溶けてんじゃ……ねぇっ! ですよ、兄君』


まだ固体だった胴に蹴りを食らって、エアは自らの肉体だった液体の中に頭を落とす。


『……蝿?』


『はい、ベルゼブブです。本体ですよ、お久しぶりです』


飛行していた勢いのままエアを蹴ったのはベルゼブブだった。久しぶりに見たムカつく顔にエアは人の形を取り戻す。


『天使が大勢来てます、名前のある奴も何体も。私では捌ききれませんから、貴方も倒しなさい』


『…………嫌だよ。面倒臭い……こんな大失敗して、もう挽回出来ないのに……どうしてそんな徒労』


『そうそう兄君……私、ここに来る前に魔物使い様に顔見せたんですけどね、その時に「仲間が心配だ、でも兄様が助けてくれると思う、なら安心かな……?」って言ってましたよ』


『……失望されてなかった? 結界解けちゃったのに……』


『頼ってました頼ってました』


もちろん嘘だ。ベルゼブブはヘルに会ってすらいない。だが、エアは信じ込んだ。そしてまだ僅かに溶けていた足首から下の液体の体積を増やし始めた。


『ふっ、ふふ、ふふ、ははははっ! やった、やった、やった……! あの偽物より、あの邪神もどきより、やっぱり僕の方がいいんだ!』


『さ、天使共バッタバタ薙ぎ倒しましょ、そうすりゃ魔物使い様は「きゃーお兄ちゃんカッコイー」って感じで抱きついてきますよ』


『あっははははっ! 兄様って呼びなよ!』


増えた液体は盛り上がって神獣にもドラゴンにも見える魔獣の姿になる。


『行け! さ、蝿、行こ!』


『はいはい。扱いやすい人ですねぇ……』


魔獣は全部で十三体、それぞれエアに接続はされておらず、唯一の命令である「天使を殺せ」だけを忠実にこなす。エアは手頃な木の枝を折って浮かせ、腰掛ける。箒に見立てたものならば箒には劣るがそれなりに速く飛べるのだ。

ベルゼブブはため息をつきつつも不敵な笑みを浮かべる。その姿は蜃気楼のように揺らいだ。次の瞬間には少女の姿はなく、無数の小さな蝿が霧のように山中から街に向かった。


黒い霧……いや、蝿の群れと陶器製の天使が接触すると群れが移動する頃には天使は消える。食い尽くされるのだ。イナゴの群れが通った後の農場のように、それよりも激しく飢えて、毒になる天使すら口寂しさを癒すために齧り尽くす。

帝王として君臨する少女の姿よりも、強敵と相対した際の巨大な蝿の姿よりも、余程『暴食の悪魔』らしかった。


『……見ぃつけたぁ! 見つけましたよ名前持ち!』


無数の蝿は屋上で何をするでもなく佇むレインコートを着込んだ天使を見つけ、少女の姿になって前に降りる。


『ベルゼブブ!? あぁ、やっぱり来るんじゃなかったな……』


『サボるなら参加そのものを見送るべきでしたねー、さ、骨までしゃぶり尽くして差し上げます!』


神力を固めて雨傘を作り出し、それを広げて目くらましと盾にする。レインコートを着込んだ天使──ザフィエル、彼は傘を置いて屋上から飛び降りた。一瞬とはいえ視界が遮られれば撒ける、そう考えたのだ。しかし、ザフィエルが着地したその背後には欠伸をしているベルゼブブが立っていた。


『……お久しぶりです、とろい名前持ちさん』


振り返る間もなく腹に腕が突き刺さり、翼の付け根に噛み付かれる。少女の小さな口では肉を僅かに抉るに終わるが、その口から溢れ出る幾本もの刺々しく長い舌が体内に侵入すれば激痛と再生に手間取る傷が与えられる。


『んっ……く…………ふぅ、苦いです』


悪魔にとって食えば毒になる天使、それも名前と属性を持つ者。しかし今のベルゼブブにはスパイス程度に感じられる。


『……さ、ここまで喰えばいいですかね。殺すのは無理なので……ぁー、兄君連れてくるんでしたね。私封印出来ませんよ……』


その辺りに居やしないかと空を見上げる。ザフィエルは激痛の中、再生に回すべき神力を使ってもう一度雨傘を作り出した。


『驟雨よっ……! 全ての罪を浄化せよ!』


途端に滝のような雨が降り出す。視界を塞ぎ身体に冷たさと痛みを与え、槍によって崩れた建物を更に壊す、酒色の国の民にとっては絶望の雨だ。


『……まだそんなこと出来たんですか』


自分の甘さを認め、それを他の誰かに悟られないうちに消してしまおうと、ベルゼブブは地面に寝転がしてあるはずのザフィエルに向かって拳を振るう。だが、その拳は舗装された道路を壊しただけだ。


『傷を……負わせて、くれて……助かった。奥の手だ……お前みたいな強い悪魔には、倒せないで、持ち帰られるから……見せたく、なかったんだが』


途切れ途切れの声は苦しそうで、誰の耳にも重傷だと分かる。ベルゼブブはその声の方向を特定できない──いや、四方八方から聞こえてくる。


『…………損傷を負って肉体と霊体の癒着が剥がれれば司る驟雨と同化できるって訳ですか』


喘ぎ混じりの嘲笑が響く。


『……嫌いなタイプです』


しかしベルゼブブには勝算があった。彼女は暴食だけでなく、バアルを取り込んだことによって嵐の属性も手に入れていたからだ。雨雲ごと吹き飛ばしてやればいい、そう考えて暴風を巻き起こそうとしたその瞬間、雨粒一つ一つに炎が宿った。


『あぁ……もう、お前ら全員終わりだ。浄化の雨に浄化の炎、これから逃げられる悪魔は居ない』


『この炎っ……! まさかウリエル!? 馬鹿な、アレは門番のはず……!』


『詳しいな…………もう天界は神魔戦争を回避する気はない。人界に損害を与えてでも魔物使いの魂を回収し、お前ら悪魔を魔界に閉じ込めて、訳の分からん外の者共を追い出す……』


ベルゼブブは眼前の建物の窓を割って中に飛び込む。槍が当たらなかったこの建物は中に雨も炎も入っていなかった。しかし、降り続ける雨はやがて建物内に浸水するだろう。ベルゼブブはそれまでに手を打たなければいけない。


『本当に忠誠心があったんなら俺に手を出すべきじゃなかったな。俺はあの子を優しく殺すつもりだった、天界でもちゃんと世話してやるつもりだったんだ』


『……気持ち悪いこと言ってんじゃないですよ』


『………………お兄さん、なんて呼ばれたの初めてだったからな。多少は情が移るさ』


『はっ……このショタコン童貞が、ちょっと優しくされただけで惚れちゃって憐れですねぇ』


ザフィエルの声が止む。雨と同化できるとは言え意識を拡大できる訳ではない。きっと別の場所へ、それこそ魔物使いを仕留めに行ったのだろう──ベルゼブブはそう予想して、邪魔が入らないことを確信し、嵐を引き起こそうと集中し始めた。


『ベルゼブブ様! ご無事でしたか、報告したい事が……』


しかしその集中はまたもや妨害された。


『…………確か、サタンのところの……』


『はい、サタン様の側近のマスティマです!』


『……手短にお願いします』


ベルゼブブは報告を聞くため、雲を睨んでいた視線をマスティマに向け、雲に向けていた手を下ろした。

マスティマが後ろ手に剣を持っていると気付かずに。

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