第677話 家族水入らず

僕をベッドに落としたライアーが部屋を出て行くのを見送って、足音が聞こえなくなったのを確認して、慎重に部屋を出て廊下に蹲る兄の腕を引っ張った。


『……な、何してるの。所有物ならちゃんと着いてこなきゃダメだろ』


『…………ごめんなさい』


口を緩ませて、喜びを滲ませた声で謝って、僕が手を引くままに部屋に入ってきた。僕がベッドに腰掛けるとその手前の床に跪いて、感情の読み取れない笑みを浮かべている。その笑みは僕を殴り始める前、機嫌が良い時のものだ。


『……その、にいさまに見て欲しくて』


ベッドで眠るアルの傍ら、寝惚けてシーツを咥えて吸っているクラールを抱き上げ、膝に置いた。


『…………僕の娘なんだ』


『……アルちゃんとの?』


『うん、あんまり……僕には似てないけど』


『本当、少しも似てないね。僕は君に似てる姪っ子や甥っ子が欲しかったんだけど、まぁ、これはこれで可愛いかな。どっちもペットにしか見えないけど』


一言多い、いや、歯に衣着せぬ……の方が合っているか。もっと厳しく物扱いしなければ元に戻るのか? なんて面倒臭い。


『……姪っ子って……にいさま、にいさまはもう僕のお兄ちゃんじゃないでしょ?』


『ぇ……ぁ、そ、そう……だったね。ごめん……』


しかし兄ではないと否定するのはショックが強過ぎるのか、体の末端が溶けてくる。精神状態が粘性で測れて便利この上ないが心臓に悪い。

少し柔らかくした酷い言葉を重ねるべきか、先に優しい言葉をかけて硬度を上げるべきか考えていると、扉が勢いよく開いた。


『お兄ちゃーん! 掃除終わったから構ってー……ぇ…………にいさま?』


『フェル! フェル、こっちおいで』


兄を気にしながら隣に来たフェルの赤く冷えて湿った手を握り、温める。クラールは一旦枕の横に戻した。


『……にいさま帰って来たんだね……な、なんで床に座ってるの?』


『えっと……色々あってさ』


『久しぶり、フェル。僕は今日から下僕だよ』


『え……? 意味分かんない』


僕と同じ脳のフェルに今の説明で理解しろというのも酷だ。僕も兄が何故こんなにも下僕として振る舞うのに忌避感がないのか分からないのだから。


『……まず、にいさま出てっただろ? その後ライアー兄さんに頼めばにいさまの代わり務まるしなんなら上位互換だったじゃん』


『最下位の下位互換でーす……』


『今そういうのいいしフェルは料理の腕が本体だから。えっと、それでさ、にいさまちょっと勝手過ぎるし要らなくない? ってなって』


『要らなくない? って……お兄ちゃん、酷くない?』


確かに酷いと思うけれどこれは建前なので許して欲しい。


『僕は弟と一緒に居たいから、もう物でいいかなって』


それで大人しく下僕の座に甘んじていると? ありえない、兄のことだ、まだ何か企みがあるはずだ。あれだけ罵倒したのにまだ心が折れていない、いや、本心だと思われなかったのか、後者だとしたら僕の失態だ。


『聞いてもよく分かんないけど……まぁ、僕はにいさまが帰って来てくれて嬉しいよ』


フェルは兄に依存している。どうにか僕にも依存させることで中和してきてはいるけれど、あまり兄に兄らしい働きをされては取られてしまう。


『お兄ちゃんが帰った時とどっちが嬉しい?』


『え? えっと、ぁ……それは、えっと』


『……ごめん、意地悪だったね。いいよ答えなくて』


焦りが外に出てしまっている。やはり僕には兄は越えられないのか、フェルまで取られてしまうのか、そんなことばかりが気になって狙いが外れっぱなしだ。

自尊心が強く、むしろそれだけで構成されていると言ってもいい僕の兄。そんな彼の心をズタズタに引き裂いて、踏み躙って、壊したその手で掬いあげて抱き締める。そうすれば彼は僕に依存するはずで、それは僕に悦びを与えてくれるはずで、それだけが僕に残された復讐の道だったのに、上手くいかない。やられたようにやるだけなのに、手応えがない。


『……にいさま、あの……さ、にいさまの地位はこの家で一番低いんだからね? 僕が一番上で、にいさまが一番下。僕の家族のアルやクラール、フェルには僕が許さない限り話したり近寄ったりしちゃダメなんだからね?』


『…………ちょっと、お兄ちゃん……』


『フェルは黙ってて。弟なら僕の言うこと聞いて。にいさま、分かった? フェルを虐めたりしたら……えっと、怒るからね』


再会してすぐはそれなりに話せていたのに、段々と口下手になってきた。もっと過激な文言で脅したいのに、頭の中で組み立てたものが話す寸前に崩れてしまう。


『分かったよ。僕は君の物、何もかも君の言う通りに……愛してるよ』


手の甲に唇を寄せられて、思わず払い除けそうになって、魔性の王としてこの程度で動揺してはいけないと固く口を閉じて唾を飲み込んだ。


『…………じゃあ、命令。人間の姿でいるのはやめて、あの……ドラゴンにちょっと似た魔物になって』


『……仰せのままに』


一瞬眉を顰めたが、それは幻覚だとでも言わんばかりの笑顔を浮かべた。この表情の誤魔化しの上手さが、激情型のくせに感情を押し殺す上手さが、怖い。

人の形がどろりと溶けて、鮮やかな多色の絵の具が混ざることなく黒い水面を旅するような肌が現れ、尾が五つに分かれるとその先端に手足と同じ鋭い鉤爪が生えた。


『……おいで、エア』


この姿ならまだ兄として接したくなる気持ちを抑えられる。鈴のような鳴き声の返事にそう確信した。



ベッドの真ん中に大の字になって、アルとフェルに腕枕。フェルを寝かせている右腕の先、右手に顎を乗せて床に座り眠っているのが兄。僕が頭を置いている枕の横で眠っているのがクラール。暑苦しく重たい幸せな眠りは早々に終わりを迎えた。


『あぅう……わぅぅ、わう! おとーた、おとーたぁ』


『痛たたた……痛い痛い、髪引っ張らないで』


腹が減ったのか夢見が悪かったのかはたまた別の理由か。クラールは二、三時間毎に起きる。透過を使ってアルとフェルの拘束を抜け、ベッドの横に立ってクラールを抱き上げる。りりっ、と鈴に似た音が鳴る。


『にいさ……ぁ、いや…………エア、起きたの?』


言葉を操ることの出来ないドラゴンにも神獣にも似た美しい獣に話しかける。


『起きたならちょうどいいや、爪剥がして』


獣の眼前に人差し指を立てる。首を傾げて目を丸くする獣を見つめて頷くと、三角柱を横に倒したような頭部の先端が僅かに割れて口が現れ、指の先を咥えた。開いた口から指を抜けば爪が剥がれて血が滴り、痛々しい出来となっていた。


『うん、完璧。ありがとね。さ、ご飯でちゅよークラールぅー』


痛覚は予め消しておいた、何も問題はない。クラールの舌や口内を傷付けないように爪を剥がして咥えさせているのは正しいのだろうか。しかし、化け狸に与えては危険な僕の血をごくごく飲むクラールは上級魔獣と言っていい強さを持っているのではないだろうか。


『もういい? ん、ごちそうさまでした……言ってごらん』


『ごちしょー、たま、でった……いって、ぉらん』


『んふふっ、ごちそうさまだけでいいんだよ。お粗末さまでした』


爪を再生させ、クラールを縦に抱いて背を優しく叩くように撫でる。このまま眠らせようかとゆっくり歩いて揺らしていると、うとうとし始めたところで扉が叩かれた。


『何……もう、誰?』


「よ、魔物使い、俺だ。帰ってそうそう悪いが用事がある、来い……なんだその仔犬、拾ってきたのか?」


『いや、娘。用事って何?』


「……むすめ?」


『その話は後で、用事って何さ』


話し声で眠れずにクラールが唸り出して、僕の苛立ちも湧いてくる。無意識に声を低くさせて早口になった僕にヴェーンは腑に落ちない表情をしながらも用事を話し始めた。

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