第672話 悪夢の再来

自然と人の群れに道が出来ていくのはアルのお陰だろうか。怯え気味悪がる人の顔を見ながら団子を食べ終え、串の処分法に迷う。


『丸一日くらいは経ったと思うけど、植物の国どんな感じ?』


元はと言えばベルフェゴールを仲間に引入れるため、植物の国に結界を張るために向かったのだ。何故僕達は妖鬼の国に居るのだろう。


『ベルフェゴール様が居るし、セネカも置いて来た。問題は無いだろう』


『そっか、じゃあアル用の着物仕立ててから戻ろっか』


『要らんそんな物』


妖鬼の国に用事は無いし、来てすぐの時のように妖怪退治の連中が来ても困る。酒呑を拾って帰ろうか──とサタンを見上げる。


『ね、サタン。植物の国までお願いできる?』


『出来ないな。余が貴様の下僕共を運べたのはレヴィの器があったからだ。今、レヴィの器は土着の邪神封じに使っている』


『え……じゃあどうしよ、植物の国までの船なんかないし、飛ばなきゃかな……』


鎖国状態の植物の国に向かう船などない。ここから飛ぶのも大変だし、近くの島まで船で向かって、そこから飛ぼうか。


『その石の兄君はどうなんだ?』


『さっき何度か試したんだけど出て来てくれないんだよ。空間転移は無理かなー……ベルゼブブが居たら良かったんだけど』


チラ、とサタンを見るも特に反応は見られない。彼がベルゼブブに命令したと決まった訳ではないし、例えそうだとしてもこの程度ではボロを出さない。

移動方法を考えながらサタンに気を配りつつ歩く僕の袖を引くのは布の塊を抱えた女。


『わっ、ヒナさん……? え、何でこんなところに』


彼女の家から歩けない距離ではないが、散歩の距離でもない。何よりあんなことがあってすぐ彼女の父親が彼女を外に出すとは思えない。


「坊やがあなたに会いたいって……ねぇ坊や」


『そう……です、か。元気そうで何より……』


布は汚れ一つない白だ。父親がこっそりと洗濯でもしているのだろうか。


『ヘル、誰だその女は』


『えっと……神社に案内してくれた人』


『何故神社に?』


『望遠鏡探してて……えっと、望遠鏡探してたのはアル探したかったからで、ぁ、望遠鏡はなんか妖怪がなんか……うん、そんな感じ』


説明を諦めるとアルは不機嫌そうな唸り声を上げ、僕の腰に尾を絡めて締め付けた。目を合わせても眉間から鼻先にかけての怒りを表す皺に怯えて目を逸らしてしまう。


『……その坊やとやらは誰の子だ? なぁ、ヘル? まさか貴方のでは無いよな?』


『え……? なんで僕?』


『…………ふんっ』


本当に分からなかったから聞いただけなのにそっぽを向かれてしまった。ご機嫌取りに悩んでいるとまたヒナが袖を引く。


「坊やのお父さんは神様なの……ねぇ、抱いてあげて?」


『え、いや……僕自分の子を……』


神様とはどういう意味だと聞く暇もなく布の塊を押し付けられる。仕方なくクラールをアルの背に置いて布の塊を受け取った。顔を描いてすらない白の無地を見つめてもどうにもならない、適当に褒めて返そうと言葉を探していると、不意に胸に痛みに近い冷たさを感じた。


『ヘル!? どうしたヘル!』


胸部……いや違う、喉の奥から胸の真ん中、肺の形が意識の中で浮かび上がる。それは全て突き刺すような冷たさ──水によるもの。肺を満たした液体が口から溢れて、一部は食道に流れ込む。


『水……? これは一体。おい貴様、ヘルに何をした!』


寒さと苦しさで朦朧とする意識の中、アルの肩の毛を掴み、クラールを見つめ、自由意志の加護を与えると震えない声帯で宣言した。途端に僕の手はアルの身体をすり抜ける。これでアルとクラールは安全だから、ゆっくり集中して僕も透過して水を体外に──


「あぁ、坊やを落とさないで。坊や、坊や……大丈夫?」


『聞いているのか貴様! ヘルに何をしたか言え、まだやっているのなら直ぐにやめろ!』


頭の中で繰り返し声が聞こえて集中が途切れる。聞き覚えのある声だ、憎い──いや、崇拝すべき……違う、憎むべき敵だ。


『運が良かったよ、僕の信者の子孫が居て、その上その子が空っぽの器を作ってくれていた』


ヒナが抱いた布の塊から蛸のような触腕が伸び、僕の顎を持ち上げる。僕にしか見えていないのだろうか、誰も反応していない。


『長く海水に浸かっていたせいかな? ちょっと水の扱いに慣れてきてね……陸で溺死させることだって出来るよ。ま、君は殺せないみたいだけど……永遠に溺れさせることは出来る。ねぇ、そんな苦しみ味わいたくないよね? 僕を信じるなら救ってあげてもいいよ?』


アルとクラールには加護を与えている。彼女達がクトゥルフのテレパシーに侵されることはない、それなら僕が屈する理由はない。


『狼! これでその女の首切り飛ばし!』


その大声の一瞬後に寒さと苦しさが消える。体内を満たしていた水が消えたのだ。身体に不調はないのに気分で咳き込み、顔を上げれば何の変哲もない布の塊が転がっていた。


『ヘルっ、ヘル、無事か、ヘル!』


『ぁ、あぁ、アル……僕は大丈夫、だけど……』


重たい音が落ちる音が背後から聞こえて振り返ればうつ伏せに倒れた酒呑が居た。どうやらカルコスに咥えて運ばれたようだ、隣にはクリューソスも居る。


『頭領、何ともなさそうやな』


うつ伏せから仰向けになって、青い顔をした酒呑が僕を見上げる。


『僕は、大丈夫だけどっ……ヒナさん……は』


首を切り飛ばせと聞こえた気がする。その声は酒呑のものだったと思う。恐る恐る倒れたヒナの首を確かめれば傷一つなく繋がっていて、気絶している以外に問題は無かった。


『あれ……大丈夫、だね』


『む、確かに切った感触があったのだが』


アルは尾に古びた剣を咥えていた。


『天叢雲剣……ま、これは親父を土台に誤魔化したパチモンやけど』


その剣を酒呑が受け取ると途端に剣は萎み、彼の手の中で目を回した小さな蛇の姿になった。


『この通り実体やあれへんからな、ハッタリで相手を切らなあかん。パチモンや知らんかった狼やから気迫出たんやな、ようやったわ』


『……よく分かんないけど助かったよ、ありがと』


気にするな、と笑う酒呑の顔色は悪い。不思議に思っていると彼は突然笑顔を消して、腕だけで大通りの隅に這いずって胃の中身をひっくり返した。そういえば「酔い潰れろ」と命令していたな……なんて他人事のように思い出した。


『痛っ、アル? 何? 急に噛まないでよ』


『……その女は貴方の何なんだ』


『え……? だから、案内してくれた人』


『ただそれだけで貴方に声を掛け、我が子と言い張る気味の悪い物を押し付けて、貴方もそれを受け取りこの女の心配までした』


アルは僕の腕を噛みながら不機嫌に話を続けた。


『貴方は私が死んでいる間にこの国に来た事があるそうだな、その時に関係を持ったのか? まぁ、その時の事なら私は関係無いがな……』


『何が言いたいのさ』


『…………浮気なんてしないよな、ヘル……そんな女に触らないで、私にもっと構ってくれ』


アルがヒナを見た瞬間から不機嫌だった理由がようやく分かった。僕にとってはアルが犬好きの男や雄狼に近寄られているような気分だったのだ。

アルへの僕の愛情と同じかそれ以上の愛を僕に注いでくれていて、とても嫉妬深い。


『浮気なんてしてないよ、アル。信じて。匂いで分かるでしょ?』


『…………済まない、私は……どうしても不安で』


『だーいじょうぶ、アルは誰よりも魅力的だから……僕がアル以外の女の子に惹かれるなんてありえないよ』


大きな体を抱き締めて、分厚い毛皮を撫で回して──仲間達の生暖かい目に気が付いたのは数分後のことだった。

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