第667話 魚退治は咀嚼で

白米に焼き魚、刺身に煮物、蟹鍋に河豚鍋──目の前で料理が完成させられて、最高級品の出来たてが味わえる。酒も上等な物らしく、酒を飲む者は大喜びだった。


『クラール、起きた? 食べる?』


身をほぐして冷ましておいた焼き魚を左手に盛り、クラールの口元に。クラールは後ろ足で首を掻くと、まだ寝惚けているような動きで魚を食べた。


『美味しい? クラールお魚食べたがってたもんね』


『……おしゃかな?』


『そう、お魚だよ、おーさーかーな。好き?』


クラールは咀嚼していた物を吐き出し、籠から飛び降りて僕の太腿に乗り、前足で腹を引っ掻いてきた。


『なっ、なになになに? 吐いた……よね、大丈夫?』


嘔吐ではないから味が気に入らなかったか何かだろう。


『おしゃかな……おとーたぁ! おしゃかな、や!』


『な、何? 何か言いたいの?』


『おしゃかなっ、おしゃかなぁ!』


『ぅ、うん……お魚だよ、食べる?』


焼き魚の気分ではないのかと刺身を摘み、口元に持っていく。するとクラールは僕の浴衣の隙間に顔を突っ込んで黙ってしまった。クラールが何を伝えたかったのか僕には分からない。


『アル……お酒とか楽しんでるところ悪いんだけど、通訳頼める?』


翼の端を引っ張ってアルを呼び、抱き上げたクラールをアルの傍に置く。


『クラール、お母さんだよ。お母さんに言ってみて? ごめんね、お父さん分かんないんだ』


『……おかーしゃ? おとーた、おしゃかな……ゃ……わぅぅ……』


右前足を上げて招き猫のように動かし、必死に何かを伝えようとしている。伏せてクラールを見つめているアルには伝わっているようだ。どうして僕には言葉が分からないのかと落ち込んでしまう、たった一人の愛娘なのに……


『……ヘル、クラールは「お魚はお父さんを虐めた奴だから、怖いし嫌いだ」と言っている。魚に何かされたのか?』


『魚……クトゥルフ、いや、ツヅラさんは人魚だけど……やり合った時は魚っぽくない、なんか海の怪物って感じだったし……そもそもクラールには見えてないはずで……』


『クラール、もう少し詳しく言ってご覧。お父さんにお魚と何があったのか、何が嫌なのか……しっかり考えて話してご覧』


幼い子供にそれは無茶だろう。そう思っていたが、クラールは僕の耳には届かない声でアルに何かを話し、アルはそれを理解した。


『ヘル、貴方の体内に魚が潜り込み、貴方が痛みに叫び、貴方の血の匂いがしたと。心当たりは?』


『ある……けど』


『…………そうか』


黒い翼が僕を抱き寄せる。僕を哀れんでくれているのだろう。


『……それでクラールはお魚食べられなくなったの? 前は、ここに来てすぐは、美味しそうに食べてたのに……僕のせいで好物じゃ無くなっちゃったの?』


なんてことだ。自分勝手に連れ回してトラウマを植え付けるなんて、父親失格だ。絶叫を堪えてクラールに話しかけていても、夥しい出血はクラールを怯えさせてしまっていたのだ。


『……なぁ、クラール? お父さんは今は何とも無いし、その魚と今此処にある魚は違う。それにな、魚を食べてやっつけてしまえば、お父さんは魚に虐められないんじゃないか?』


『おしゃかな……?』


『そう、噛んで、潰して、飲み込んでしまえ。そうすれば魚はお父さんを虐められないよ』


クラールは踵を返し、僕の膝の上に飛び乗ると僕の手から刺身を奪い、自分から籠に入った。前足で踏んで食べやすい大きさに食いちぎり、念入りに咀嚼して飲み込むと、僕の胸に前足を当てて首を傾げた。


『大丈夫なのかと聞いている』


『ぇ、あっ、大丈夫だよ、ありがとうクラール。お父さん、クラールのお陰で痛くないよ』


『……クラールは魚を気に入っているようだ。これからも食べさせてやってくれ』


籠に腰を下ろし、魚を食べるクラール。そっと頭を撫でると首を回して手を舐められた。

僕が体内に潜り込まれて苦痛を与えられたから、魚を食べると同じように痛みがあるんじゃないか……そう怯えていたのではなかったのか? 僕を心配していただけなのか。なんて可愛い子だろう。


『そっか、クラールはお魚好きなんだね、アルはお肉好きなのにね。ヘルシー志向なんだ』


『ヘルシーなど豚の餌だ。クラールも肉を食えば良さが分かる』


『豚の餌がヘルシーって言ってるみたいだよ……? クラールはアルと違って賢者の石とか無いんだから、バランス良く食べさせないと』


『ヘル、貴方はクラールが狼だと忘れているようだな。それとも狼が肉食獣だと忘れたか?』


『狼も魚食べるでしょ。それに僕も半分混じってるんだからさ、雑食だよ。ねークラールぅー? お野菜も食べるよねー?』


前足や角に僕に似た部位が出るのなら、内臓が一部似るなんてこともあるだろう。その場合、姿勢や内臓同士の関わり合いを考えると不安になるな。帰ったらフェルに調べてもらおう。


『頭領ー! 河豚の肝試しやるけどやらんかー』


『何それやるやる』


自己肯定感が芽生え始めたり、クラールの好物が増えたり、今晩は良いことが多い。怪しんでいた宿だが、泊まってよかった。

夕飯が終わると僕達は寝室を教えられ、それから娯楽室や更衣室の場所も知らされた。娯楽室にあるボードゲームやらは好きに使ってよくて、個々の利用料金なんてものは要らない。更衣室では様々な国の民族衣装から普段着には適さない舞踏会用のドレスのようなものまで揃えてあって、好きに着ていい上に撮影も可、気に入れば購入も可能。全く素晴らしい宿だ、態度に出して怪しんだ過去の僕の頭を叩きたい。


『なんや遊べるらしいやん、酒賭けてやろうや』


『なんか手痺れてるから先に服見ようかと思っててさ、後でね』


痺れているのは手だけではないが、特に手が酷い。これではボードゲームなんてろくに出来ないだろう。


『舌もなんかピリピリするんだよねー……』


『河豚の肝など喰うからだ! 人間なら死んでいる量だぞ、全く……』


『酒呑も茨木も何ともなかったのに』


『偶然、いや、何かしらの方法で毒を躱したな。賭け事はやめておけ、負けを刻むだけだ』


アルに怒られつつ更衣室に辿り着く。先客はサタンと茨木だ、獣達は娯楽室の方だろうか、もう寝ているかもしれないな。


『服色々あるけど……こんなんあるんやったら悪魔はんら連れて来たら良かったなぁ、男ばっかりでなーんも楽しない』


悪魔と言うのはセネカやメルのことだろうか、茨木はベルゼブブと仲が良かったし、彼女の方かもしれない。やはり女物の方が見て楽しめる衣装が多い気もするし、女同士で服選びなどしてみたかったのだろう。メルとセネカの買い物に付き合った時も彼女達は彼女達だけで楽しんでいた覚えがあるし。


『茨木、茨木、女の子居るよ、二人。なんかお揃いとか着る?』


『二人なんか二匹なんか……全裸やないの』


『この辺スカートばっかりだね』


何かと服が破損することが多いから僕もそろそろ服が欲しいのだが、見える範囲にあるのはどれも女性用に見える。


『男もん向こうやったよ、頭領はんこっちの方が似合いそうやけど』


『女装して色々あって死者が十人以上出たことがあってね』


『……意味分からへん』


『君も関係者なんだけどな』


女装写真をばらまかれて勘違いした男と揉めて殺して逃げて、はぐれた鬼達が警官を大勢殺して──苦い思い出だ。


『女装かぁ……リンさん思い出すなぁ。ね、アル、アルはどんなの着たい?』


故人に一瞬思いを馳せて、人の物とは形の違う服を見つけて足を止める。


『私に着れる服などあるものか』


『見てよこれ、四足歩行用じゃない?』


『何故あるんだ』


『そういう人も来るのかなぁ?』


何かと怪しいこの宿、動物変化の妖怪が泊まりに来てもおかしくない。人間に化けた時だけでなく、本当の姿も飾ってみたいと思うこともあるのかもしれない。


『サイズ色々あるからクラールのもありそうだし……ぁ、これどう?』


『要らん! 私には毛皮がある、自前で十分だ』


『えー……僕、可愛い服着たアル見てみたいなぁ。この着物とか最高だよ?』


名前の分からない花の模様の赤い着物。アルはふいっと顔を背けてしまったが、諦めず見つめ続けて数分、ため息と共に了承が得られた。

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