第649話 嫉妬の悪魔に跨って
傷を癒した茨木はゆっくりと立ち上がり、もうほとんど溶けてしまった神虫を見下ろす。特に何をする訳でもなくただ眺める。
「鬼のお嬢さん、傷はもう平気かな?」
神虫が倒れても震えていたセネカを背に抱え、ウェナトリアが茨木の前に降りる。
『せやなぁ……もうすっかり。ふふ、術や何やと便利やねぇ』
鬼は悪魔や合成魔獣程の再生能力を持たず、通常なら治癒の術も使えない。もしカルコスともっと早くに出会っていればこの手は自前だっただろうかと手を眺め、それでは素晴らしい兵器を手に入れられなかったと笑みを零す。思考する虚ろな瞳と上品で可愛らしい笑みは非常に美しい淑女のものだった。
「……っ、あ……えぇと、それで、鬼のお嬢さん。服が破れてしまったようだね、乙女がそれではまずいだろう、どこかから貰ってくるよ」
茨木の服は腹の部分が破れており、逞しい腹筋が覗いていた。
『おおきに』
くれると言うなら遠慮なく。大した興味はなかったが、癖で男心を擽る妖艶な微笑みを返した。
『…………酒呑様どーぉ?』
『傷は治したが、起きん。疲労だろうな、あのガキが居れば魔力を与えて休眠状態を短く出来るが……全く、どこに消えたんだ』
酒呑は大の字で眠っていた。それはただの睡眠ではなく、魔物特有の休眠状態。獲物を探せないほどに魔力を失った時、獲物が近くを通るか自然から魔力をある程度吸収するまで代謝を落として眠りにつくのだ。
『虫も片付いた、早くヘルを探そう』
『どこに居るかも分からんものをどう探せと言うんだ、少しは考えて話せ雌犬が』
『……貴様のように寝転がっていても何も好転しないがな。まぁ、育ち盛りの仔猫が眠たがるのは仕方の無い事か』
アルとクリューソスは互いに牙を剥いて翼を広げ、尾を揺らして威嚇を始めた。その様子を眺めていた茨木は低い唸り声を鼻で笑って酒呑の腹の上に腰を下ろした。
『い、一度、さ……酒色の国に帰らない? ほら、弟君が居場所占ったり出来るかもだし、ひょっとしたら先に帰ったのかも……』
『ヘルが私を置いて帰ったと言うのか? 人魚とクラールを連れて?』
『……ぅ……い、いや、帰ったとはボクもあんまり思ってないけどさ。一度帰って、弟君とかに頼った方がいいかなって』
ヘルが居らずに苛立つアルに押され、セネカは声を震わせ次第に小さくしていった。だが、探す手が無いのも事実。セネカの案が採用されるだろうと獣達も思っていた。
重苦しい無言の時を終わらせたのはシュピネ族の女から服を貰ってきたウェナトリアだった。
「この大きさなら入ると思うんだが……どうだろう」
蜘蛛の脚を出す為に背中が大きく開いた若草色のドレス。それを受け取った茨木は丈が長いのはいいが半袖なのと背中が空いているのが気に食わないと眉を潜めるが、血や土で汚れ腹が破れているよりはマシかとため息をついた。
「まっ……待て待て待てここで着替える気か!? 正気か君は! 男が何人居ると思っ……て…………」
躊躇なく服を脱ぐ茨木を止めようとしたウェナトリアは陽光の元に晒された肉体に絶句する。
「………………男?」
『女だと思っていたのか?』
『お前目が悪いんじゃないのか?』
『我が診てやろうか?』
獣達がここぞとばかりに嘲笑う。
「いっ、いやいやいやいや! 仕方ないだろ!」
反論するウェナトリアの後ろで茨木はドレスを着終え、ぱっくり開いた背中や首周りに眉を顰める。筋骨隆々な肉体を女性的に見せるには首と手と足は隠さなければならない。身体のラインを誤魔化すのも重要だ。胸元が開いた服なんて以ての外。
『……どないやろか』
「う、うん、確かに……よく見ると男だな」
『…………やっぱりこの服やったら男に見える?』
ハッキリ浮かんだ首筋に鎖骨、筋張った手、ごつごつとした背中は髪で隠せるとしても、裾から覗いた膝下の足の筋骨の逞しさは女性では獲得し得ない。そもそも薄い素材のドレスは身体のラインを浮かび上がらせる、今の茨木は女性には見えない。
「え、ぁ……いや、凄く鍛えている女性傭兵の休日、と言った具合だ……大丈夫だよ、綺麗だ、お嬢さん……」
『無理せんでええよ?』
「いやいやいや! 無理はしてないとも! 美しい女性だ、うん! 私がもう少し若ければ声をかけていただろう!」
『……男もん頼めば良かったわぁ』
茨木は異性装にそこまでの拘りはない。主義や性的嗜好、心体の性の不一致……と言った理由は一切無い。似合うから、ただそれだけ。つまり似合っていて美意識にも合っていれば男物でも良い。
『……もういいか? ヘルを探さなければならん。服など気にしている暇は本来無いのだ』
『そらいっつも全裸な狼はんは気にせんでええやろけど』
『ボクなんか水着のままなんだよ……? 服貰ってこれるなら早くそうすれば良かったぁ!』
「好きでしてるのかと……貰ってこようか?」
『お願いします! 羽と尻尾出せて露出少ないのお願いします!』
ウェナトリアはまた民家に向かい、アルは深い深いため息をついた。服を手にした彼が戻ってきて、相談が再開される。
「待ってくれなくても良かったのに……私は意見を出せないぞ?」
『真面に話せる者が必要だ、貴様には纏める力がある』
「そうか……? ところで、お嬢さん……座っていて……彼、大丈夫なのかい?」
茨木は酒呑の腹の上に座っている。大の字になって気持ち良さそうに大口を開けていた彼だが、茨木が乗ってからは顔を顰めている。
『うち軽いから平気よ』
「うーん……そう、かな。まぁ、乙女に体重の話をするほどの勇気は私にはないよ」
小声で酒呑に謝ると、ウェナトリアはその隣の木に背を預ける。そうして会議が始まった。ヘルを探しに酒色の国に帰るとしてもヘルがまだ島に居る可能性もあるし、帰ったところでフェルが本当に探せるかどうかは分からない。そんな内容だった。
『お兄さんがどっか行かなければ良かったのになぁー……どうして喧嘩なんかしちゃうんだよぉ』
結論が出ず、セネカが愚痴を漏らしたその時だ。円を描くようにしていた彼らの真ん中に黒い焔が揺らめいた。一瞬にして人の大きさに到達すると、眠っていたベルフェゴールが飛び起きる。
『なっ、なっ、ななっ……なんで……』
焔が収束し、黒いスーツに身を包んだ褐色の男が現れる。真っ直ぐな黒髪を金色の瞳の上に、小さな蛇と生理的嫌悪感を湧かせる花束をその手に、男は柔らかい笑みを浮かべた。
『なんでここに居るんすか! サタン様!』
『魔物使いに届け物……のつもりだったのだが、何処ぞの蛸に唆されたか』
『どうやって出てっ……結界、結界は!?』
『今貴様の目の前に居る余は分身だ』
ベルフェゴールは一瞬納得しかけたが、頭を激しく横に振った。
『分身でもあの結界は抜けられないはずっしょ!? サタン様みたいなごつい悪魔は結界何やっても通れないはずっす!』
『そこな狼が異界の戦神と共に結界を破ってな』
『マジっすか……え、じゃあ魔界帰れる……?』
『この島の穴は魔界に近い、そこから出て来た。近くに居てくれて助かったぞ、目印になった』
ポンとベルフェゴールの頭を撫で、サタンはアルに視線を移す。アルは姿勢を正し、褒められたと叫ぶベルフェゴールを意識の外に追い出し、サタンを真っ直ぐに見上げた。
『……まず、おめでとう』
サタンは柔らかい笑みを浮かべて花束を差し出す。アルは目を丸くしながらも頭を下げ、尾で花束を受け取った。赤黒く脈打ち腐臭を放ち、風邪もないのにゆらゆらと花弁を揺らす花──祝いに思えないのは人界の常識で考えているからかとアルは頭を悩ませる。
『次いで報告、レヴィアタンが完成した。器だけだがな。魂は天使に回収されてしまって……アシュメダイは器も魂も行方知れず。全く……疲れさせてくれるな、魔物使いは』
『…………申し訳ございません』
『よい』
サタンは持っていた小さな蛇を手慰みに振り回す。だが目を開けたままの蛇は身動き一つしない。
『……ここに居る余は魔力の塊、言わば質の悪い霊体よ。レヴィの器を使って動く事が出来る。そして、魔物使いの居場所も分かる。レヴィの真の姿は巨大な海蛇だ……貴様等をそこまで運ぶ事が出来る、が……どうする?』
嗜虐的な笑みを浮かべるサタンに誰も何も言えなかった。だが、選択肢はなかった。肯定の返事はなくとも意思を感じ取り、サタンは笑みを湛えたまま崖の方へと歩き始めた。
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