第623話 血腥い宴会

顔に生温く湿った弾力のあるものが押し付けられ、擦り付けられる。それが何度も繰り返されている。顔の前にあった何かを押しのけながら目を開け、くぅん……と寂しげな声を聞く。


『……アル、ぁっ……』


鼻や歯が折れた顔なんて見せたくないと顔を隠すも、触れた顔に不自然な凹凸はない。


『傷はライアーが癒していたぞ。ここは寝室だ、皆は食堂で夕飯中、行くか?』


『僕、ルシフェルに…………違う、ウェナトリアさんに訓練頼んで』


結局、一太刀も当てられずに気絶したのか。情けないことこの上ない、アルも呆れただろう。


『……ヘル、貴方にあそこまでの根性があるとは思わなかった。捨て身な戦法には言いたい所もあるが、まず…………おめでとう、成長していたんだな。私は過保護だったのかも知れん』


『…………アル、呆れてないの? 僕、負けて……気絶までしちゃって』


『訓練なんだ、勝ち負けは気にするな。一朝一夕で勝てる相手でもないのだからな。私は貴方の訓練への姿勢が素晴らしいと褒めている』


『……アルにかっこいいところ見せたかっただけなんだ。見せられなかったけど』


『いいや、見せてもらったさ。格好良かったよ、ヘル……私の為に強くなろうとしてくれた、それだけで、もう……』


試合に負けて勝負に勝った、なんて言葉をたまに聞く。僕はウェナトリアに勝てなかったけれど、アルに格好良いところを見せたいという目的は果たせた。あの言葉は負け惜しみではなかったらしい。


『…………さ、ヘル。夕飯を食べに行こうか』


『待って。その前に……一回だけ、ね』


首周りの皮を掴んでアルを引き寄せようとして、背後でもぞりと動く気配に気付いた。


『……っ!? だっ、誰!?』


慌てて飛び起き、周囲を見てみれば数人が眠っていた。ここは雑魚寝用の部屋だったらしい。


「……んだよ、うるせぇな」

「寝かせろ……」

「まだ、まだ寝たい……」

「嫌だ、もう少し……」


ぽつぽつと文句が上がる。その声は男のものだった。


『…………アルメー、さん? 男性居たんですね……』


「うるせぇ……死ね」

「黙れ……寝かせろ……」

「てめぇが死ね……」

「どうせ全員死ぬ……」


かなり眠いようだし僕達は部屋を出るべきだ。アルに乗って彼らを踏まないように廊下に出て、ふぅと胸を撫で下ろす。


『……外でも中でも見るの女の人ばっかりだったけど、男の人居たんだね。まぁ居ないってのはおかしいけどさ、全然見なかったから居ないと思っちゃってたよ』


『私もそう思っていた』


『…………あの部屋で何してるんだろ』


『さぁな』


外で見かけず、廊下でもすれ違わないということは、彼らは家の改築係なのだろうか。それなら僕達が立ち入るような場所には居ない。


『ぁ、魔物使いくーん! おはよ、具合どう?』


『セネカさん……おはようございます。具合は、まぁ普通です』


僕の仲間達以外、食堂に人は居ない。食料不足だとか言っていたし、遅くまで出払っているのだろう。


『……飢饉とか言ってたのにご飯ご馳走になっちゃっていいのかな』


『大丈夫大丈夫、ほら座りなよ』


ライアーの隣に誘われ、素直に座る。机の上には酒と何かの肉が置かれていた。


『飢饉って言ってたけど島の食料が減ってるわけじゃない、自分達で取れば問題無いだろ? ちゃんと場所と宿の分は払ったよ』


『そっか……流石兄さん』


『ちなみにこのお酒は鬼が隠し持ってたやつ。はい、どうぞ』


スキットルが目の前に置かれる。向かいに座った酒呑の恨みのこもった視線を感じつつ、食堂を見回す。セネカとライアーは席に着いてはいるものの何かを食べる様子はなく、鬼達は赤く血の滴る肉を食べ、ベルフェゴールは机に突っ伏して眠っている。


『ヘル、あーん』


ライアーが机の中心に置かれた赤い肉塊から一口分切り分け、魔法で火を通し僕の口元に持ってくる。


『ぇ、あ……ひ、一人で食べれる…………ぅう、あー……ん』


微笑みに押し負けて肉を食べれば頭をぽんぽんと撫でられた。


『……ふむ、兄弟!』


椅子に登って僕の左肩に顎を置いていたアルの前、机の上にカルコスが飛び乗った。口には鹿と思しき足がある。


『……あーん』


『要らん気色悪い』


『…………あーん』


『押し付けるな! やめろっ……やめ、やっ……やめろと言っているだろう鬱陶しい!』


アルは鹿の足を奪い取り、音を立てて貪りながらカルコスを睨み上げる。

なんだかんだ仲は良いようで何よりだと微笑ましく思っていると、机の下からクリューソスが顔を覗かせた。


『……おい下等生物、雌犬にこれを喰わせろ』


『直接あげなよ。カルコスみたいにさ』


『声が大きい!』


声が大きいのはそっちだ。


『下等生物め、その残念な知能では俺の崇高な目的など理解出来ないだろう。いいから受け取れ、そして雌犬の口に押し込め』


太腿に赤くぶよっとした手のひら程の大きさの塊が押し付けられる。どこのものとは分からないが鹿の内臓だろう。ズボンが汚れていくのに耐えかねてその肉を手に持てば、想像以上に不快な感覚に襲われる。分厚いゴムのような弾力に指を滑らせる血のぬめり、そして空洞だろう中の状態を想像させる柔らかさ、何もかもが吐き気を煽る。隣でライアーが焼いた肉の熱さを確かめているが、もう口を開きたくない。


『アル、あーん……』


『ヘル? 貴方までそんな…………ぅぅ………………ぁ、あーん……』


早く手の中から消えて欲しくて手を突き出すも、アルは何故か躊躇ってなかなか食べてくれなかった。けれど一度口に入れれば手のひらに残った血まで舐めとってくれる。


『…………美味しい』


『そっか、良かったね。これクリュぅっ!?』


右腕に唸る虎が噛み付いている。口を閉じてじっと見つめると離してくれたが、腕に空いた穴は当然のことながら塞がっていない。


『なんてことするんだよ。かなり痛いんだよこれ』


『そうは見えないな。下等生物め、俺の名を出せば台無しだと何故気付けない』


傷を再生させつつ傲慢な態度のクリューソスから説明を聞く。


『物を喰わせるという行為の相手はな、手渡しだろうが口移しだろうが兄弟より恋人の方が嬉しいに決まっている』


『……妹思いだよねー』


微笑ましくなって額を撫でれば前足に払われる。微かに当たった肉球の感触には昂った。


『黙れ! お前がいつまでもヘタレだから知恵を貸してやってるんだ。この童貞が』


『どっ、どう……!? ちっ、違うよ!』


『……違うぅ? お前っ……よくも俺の妹に!』


『へっ、ちょ……違っ、そういう意味じゃ……痛い! どっちにしろ僕が気に入らないだけじゃないかぁ!』


その後、アルに「うるさい」と怒鳴られるまで口喧嘩は続き、怒られた僕達は落ち込みながら肉を食う作業に戻った。


『……ヘル、ヘル、あーん』


肩に頭突きをされて振り返れば、アルはよく噛んだだろうドロっとした肉らしき物を舌に乗せて期待に満ちた目を僕に向けていた。


『うん……ごめんねアル。それはちょっと無理かな』


『…………そうか。欲しくなったら言え、数日なら消化せず置いておける』


『やめて、消化して。流石に吐瀉物はキツい』


これは種族の問題……で、いいのだろうか。違う気もする。


『お前は雌だろう駄犬め。コイツはお前の子供ではないしな』


『……それもそうだな』


種族の問題らしかった。僕が未だに子供扱いされているのも分かった。訓練の姿を格好良いと言ってくれたから油断していたが、アルにとっては僕はまだ庇護対象なのだ。


『アル、僕はまだ子供?』


『それは…………まぁ、貴方は嫌なのかも知れないが……事実子供だろう』


『…………そう』


肉体の成長が止まってしまった以上、見た目で納得させることは不可能。成人の年齢に達すると言っても国によって違いがあるし、アルの年齢には遠く及ばないしその距離は縮まらない。


『…………今夜、子供じゃないって証明する』


『え……ぁ、それは、ヘル……その』


『兄さん、お酒ちょうだい、弱めのやつ』


目に見えるもので大人を証明出来ないのなら、行動で示さなければ。

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