第603話 黒猫もどき

酒呑におぶられて元アシュ邸に帰った僕はそのままダイニングのソファに寝かされていた。起きた頃には全員が揃っていて、家の全焼やここを拠点に変えるかどうかについて話し合っていた。


『……あ! だーりん! 目が覚めた? 大丈夫?』


話に参加しなければと思いつつも目を擦ってぼうっとしているとメルが僕の前に屈んだ。冷たい水を渡されて、それを飲んで、ゆっくりと思考を整える。


『ん……平気。今どういう話?』


「俺の家が燃えたからクソ淫魔の家乗っ取ろうぜって話してた。淫魔共が大勢住んでたみたいだが、クソ淫魔が居なくなって粗方逃げたからな、しぶとく残ってる奴も追い出しゃいいだろ」


やはり彼らが一番気にしているのは拠点についてだ。


『ベルゼブブ様、遠くに出張中なのよね? お義兄さんも見当たらないし……ちょっと、不安よね』


『そっか、今この中で一番の戦力ってボクなのか……しっかりしなきゃ』


不安そうな顔をするメルの隣、セネカがぐっと拳を握る。


『…………ぁん? なんやと青二才』


『せやねぇ、いっぺんちゃんと順位決めとかな弱いもんが調子乗るなぁ』


一番の戦力を自称したセネカに鬼達が威嚇する。仲良くして欲しいな。


『ひぇっ……メルちゃん助けて』


戦力面も不安で当然だ。ベルゼブブが居るから皆が安心して暮らせていたような側面もある。アシュもベルゼブブも居ない酒色の国は僕の存在に関係なく天使に狙われるだろう。


『ねぇみんな、家も戦力もどっちの問題も片付くって言ったら信じる?』


「土地価格の暴落もなんとかしてくれ」


『う、うん、多分それも大丈夫……ちょっと待ってね』


首にかけた紐を引き、服の中に入れていた形見の石を引っ張り出す。


『見つけたんだな、良かった』


アルとこの石を探しに出かけた記憶は間違いではなかった。アルに変わった様子はないし、大したことはなかったようだが、僕のあやふやな記憶の整理では矛盾が大量に残る。後でアルに何があったか聞いておこう。


『……兄さん、来て』


じっと石を見つめ、ライアーを喚び出す。黒い霧が視界を包み、セネカの叫び声が響いた。そして、虫の羽音も。


『死っね……っらぁッ!』


霧が消え、割れた机と呆然とする皆という訳の分からない景色が目に飛び込んできた。僕が混乱した一番の理由は目の前で不機嫌そうに翅を鳴らすベルゼブブだ。


『……どこ行った! 出て来いよクソ野郎がぁっ! ビビってんじゃないですよねぇクソがっ!』


口が悪い。やはりバアルが混ざっているのではないだろうか……いや、それよりも。


『ベルゼブブ……? え、出て行ったんじゃ』


『……ぁ、魔物使い様。やばっ』


『え? 何、やばって何? 何がやばいの?』


『…………んなことどうでもいいでしょ!? あのクソ野郎どこに隠したんですか! 出せゴラ殺すぞ!』


『やっぱり君バアル混じってるってぇ! ガラ悪くなってるよぉ!』


胸倉を掴んで振り回され、目眩を起こしながらも僕はベルゼブブが戻って来てくれたことを喜んでいた。自然と笑顔になっていたのだろう、気味悪がって投げられソファで頭を打った。


『ベルゼブブ様! 乱暴です……出て行ったのでは無かったのですか?』


『あぁ先輩。出て行くんですよ、出て行くんですけどね? その前にあのクソ邪神ぶっ殺さないと気が済みません』


アルの制止を無視して座り込んだ僕に近付くベルゼブブは何故か殺気を溢れさせていた。だが、彼女の目の前に執事風の男が現れ、彼女の触角は顎の下まで垂れ下がった。


『……ベルゼブブ様、命令をお守りください』


『…………だっ、黙りなさい! 私は帝王、好きにさせてもらいます! 邪神は殺しますし、魔物使い様の傍に居ります!』


命令? 出て行くのはベルゼブブの意思ではないのか、彼女は僕の傍に居たいと思ってくれているのか。


『好きになさりたいのなら好きになさってください。ただ、その場合……』


『その場合……なんですか?』


『…………彼からの信頼は失墜するとお思いください』


『……っ! ぅ……それ、は』


『最悪の場合、処分が妥当かと』


『はぁ!? 私を!? ぇ……いや、そんな……馬鹿な…………でも、うぅ……分かりましたよ』


ワインのコルクを抜くようなポンという間抜けな音を立て、ベルゼブブは丸々と太った蝿の姿に変わった。

僕は爪先から透けていくアスタロトの腕を掴んだ。


『……命令って何。ベルゼブブに誰が何を言ったの』


『…………離してください』


『ベルゼブブに命令なんて……まさか、サタン?』


『…………お答えできません』


アスタロトは僕が掴んでいない方の手を掴んだ方の肘に添えるとそこから腕を引きちぎり、すうっと透けて姿を消した。残ったのは僕が掴んだ彼の腕だけだ。


『……誰か食べていいよ』


その腕を放り投げ、周囲を見回すもベルゼブブの姿はない。

好きにすると叫んだベルゼブブは僕の傍に居ると言った、結局どこかへ行ってしまったけれど。もし誰かが──ベルゼブブに命令出来るのなんてサタンくらいのものだろうけど──ベルゼブブに意思に反する行動を取らせているのなら、それが僕に不利益なものなら、その相手は僕の敵だ。


『……ぁ、あの、お兄ちゃん。とりあえず机直してみたけど……どうかな』


フェルの声に机に視線を戻せば、真っ二つに割れたはずの机が割れた跡が残ってはいるものの修復されていた。


『ありがと、フェル。じゃあ……とりあえず、話戻そうか』


『ま、待ってお兄ちゃん。その、ね……それはね、土の上で喚び出した方がいいかも』


『土の上……? 分かった、そうしてみる』


だが、外に行くのは面倒だ。僕は観葉植物が植わっている鉢を引きずり、その前に屈んで土の上に形見の石を揺らした。


『ごめんね何回も……兄さん、来て』


黒い霧が土の中に吸い込まれていく。


『えっ……? ちょっ、ちょっとフェル!? これ合ってるの!? 兄さんっ……兄さん?』


霧を吸い込んだ土は黒く染まり、ずるずると鉢の外に這い出た。根が丸見えになった観葉植物を部屋の端に戻し、黒く染まった土をすくい上げて机の上に置いた。


『……のぅ頭領、なんやこれ』


「机に変なもん置くなよ」


『に、兄さん……かもしれない。兄さん……?』


土はぼこぼこと盛り上がって猫のような姿になる。真っ黒なままだし、毛は無い。だが、その美しい背のラインや丸い頭は確かに猫のシルエットだ。長い尾を揺らし、大きな耳をピクピクと震えさせ、こちらを向いた猫に顔は無かった。


『ひっ……!?』


頭はあるのに、耳はあるのに、目や鼻や口などがない、あるべき場所がえぐれている。その不気味な姿に怯えつつ、手を伸ばす。


『にっ、に……兄さん?』


喉らしき場所に触れるとどこからかゴロゴロと音が鳴る。手を引くと茶色い砂が指先に付着しているのが分かった。この猫のようなライアーらしきモノは土で形作られている。


『……ヘル。それは……何だ?』


『…………何だと思う?』


猫のようなモノは僕に擦り寄って来ている。仕草は猫そのもので可愛らしいが、顔がえぐれているということが僕に忌避感を与える。


『も、もしかしてさ、ボクが血を操って固めて剣にできるみたいな感じで、その石に居たのが土で何か作ろうとしたんじゃない? でも土が足りなくて頭がえぐれたのかも……こっちにも観葉植物あるよ』


セネカが今僕が使った観葉植物と対になる配置だった鉢植えを持ってくる。その土に猫を抱き上げて近付けると土は黒く染まって猫に吸い込まれ、猫に翼が生えた。


『……顔優先しろよ!』


つい叫んでしまった。


『そ、そういうデザインなのかも……』


『何そのデザイン……怖いんだけど』


一回り大きくなり、翼が生え、顔が無い。これは本当に猫なのだろうか。猫そのものではないことは確かだ。


『カ、カルコス! クリューソス! 猫科だろ、これ何とかしてよ!』


窓辺で眠っていた二人を蹴り起こし、猫らしきモノを見せる。


『…………スフィンクスに似てるな』


『ぁー……羽の生えた、獅子……毛のない猫?』


『翼が生えた獅子ならお前のことだな。スフィンクスだったとは知らなかった』


クリューソスはカルコスに嫌味を言っていて、カルコスは寝ぼけ眼。


『スフィンクスとは神獣の一種だな、古来は大勢居たと言うが近年では見ない。絶滅したという話だ』


やはりアルは博識で頼りになる。猫共はもうずっと寝ていればいい。


『……顔無いの?』


『私も本でしか見ていないが、あったと思うぞ。人面だったはずだ』


『じゃあ関係ないじゃん! なんなの? 兄さんで合ってる? 兄さんとして扱うよ? ねぇ、なんか喋ってよぉ……』


口がない相手に話せというのも無茶かもしれないが、ゴロゴロとは鳴らすのだから鳴き声くらい出せるだろう。


『兄さんなの? 兄さんだったら手に前足乗せて』


床に置いた猫らしきモノは犬がお手をするように僕の手に右前足を乗せた。


『…………会いたかったよ兄さん』


『待てや頭領!』


思考を放棄した僕の肩を酒呑が掴む。


『い、言いたいことは分かる! 言いたいことは分かるよ!』


『せやったらそれなりの対応せんか! ええんか頭領ほんまに。なんやえらい仲ええ兄貴分やったんやろ?』


『ぅ……うん、じゃあ、とりあえず保留…………この猫っぽいのはとりあえずここに置いておくよ……』


『置いとくなや。頭領錯乱してへんか』


錯乱しても仕方ないだろう、むしろ錯乱させて欲しい。いや錯乱させて欲しいってなんだよ。

もう何が何だか分からない。土に近付けてはいけなかったのではないだろうか。だがフェルを責める気にはならないし、責めても好転しない。

僕はとりあえずソファに戻り、猫らしきモノを膝に乗せた。

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