第602話 自分が自分である証明
白い昼間。そんな言葉が似合う曇り空。この国は昼に眠る、店内はともかくとして外を歩く人はとても少ない。
僕は酒呑と二人、元アシュ邸に向かっていた。
『……こっちや』
酒呑は曲がり角に立つと目を閉じ、勘で方向を決める。これで辿り着けるかどうかは不安だが、僕はホストクラブから元アシュ邸への道のりなんて全く分からないから彼に頼るしかない。
『せや頭領、家燃えたん玉藻が何や言うてたけど、玉藻また絡んできよったんか?』
『うん……井戸に落とされたり、アル騙されたり、色々……逃がしちゃったけど』
『頭領仕留めてへん分かっとんのやったらまた来よるやろ。そん時でええか?』
『ぁ、うん……』
酒呑は属性としては水だったか。火を操る玉藻とは相性が良いだろう。
拠点がまた燃やされるなんて、とことん火属性とは相性が悪い──また? またって何だ。僕はいつのことを「また」と言ったんだ? 魔法の国のことか? いや、今の思考は──そう、あの森を──
『……ょう! 頭領! 何ボケっとしとん』
『…………ねぇ酒呑、森……ンガイの森って知ってる?』
『はぁ? 知らんわ』
『だよ、ね。何だったんだろ、今の記憶……あれ? 何の話してたっけ?』
『玉藻が家燃やした言うて、なんちゃら森知っとるかとかなんや意味分からんこと言うとったで』
森……? そんな話をしていただろうか。玉藻が家を燃やしたと酒呑に話したところまでは覚えているのだが。
記憶が数十秒飛んだのか? 歩いていた道もいつの間にか変わっている。角を曲がったのか? いつ?
『…………っ……』
髪をかき上げるようにして頭皮を引っ掻くも、ヒリヒリとした痛みが残るだけで何も変わらない。
『……せや、頭領。前から気になっとってんけど──』
酒呑は僕の様子がおかしいことを敏感に察知し、話題を変えた。
『──その形見や言う石、誰の形見なんや?』
『兄さんのだけど……ぁ、にいさまじゃなくてね、その……血は繋がってないし、そんなに長い期間一緒に居た訳じゃないんだけど、兄さんって呼んでた人が居てね、その人に貰った物なんだ』
『ほーん……兄貴分言うやっちゃな』
ライアーとの関係の説明は難しいし、自分でもよく分からない。少し優しくされたからと言って、庇護対象として見られたからと言って、どうしてああまで懐いてしまったのだろう。僕の彼への好意はどこか不気味だ、他の者達へのものと違って出処が分からない。
『兄さんはね、僕が殺したんだよ。滅多刺しにしてさ、馬乗りになってね、トドメは喉、抜いた時にすっごい血が出て……目の前真っ赤になったんだ』
何の繋がりもない他人を兄と慕っていても酒呑は違和感を覚えなかったようだ。彼にも似たような経験があるのだろうか。
『頭領……?』
『このくらいのナイフでさ、ザックザックやったんだよ。皮膚とか筋肉とか上手く刺せるとちょっと気持ち良くて、骨に当たるとイラッとしたなぁ。喉は何か、ゴリってして、ブツってして、ぶしゃってなったよ』
酒呑はかなり情に厚いようだし、僕のことも子供扱いしながらも上に立つ者だと認めてくれているように感じる。僕を長として認めてくれているのは彼くらいのものではないのか? いや、小烏もその気があるか。
『…………頭領?』
『……ん? 何、酒呑』
『自分……頭領、やんな』
『うん……? うん、酒呑はそう認めてくれてるよね、嬉しいよ』
酒呑は訝しげな目で僕を見つめている。僕は何か変なことを言っただろうか。形見の石は兄と慕っていた他人に貰った物だと伝えただけなのだが。
『…………すまん、俺のド忘れやったらええんやけど、頭領……名前、何やった?』
『ヘルだよ、ヘルシャフト・ルーラー。みんな忘れてるんだよね……気にしないで、僕の名前は覚えられないものになっちゃったみたいだから、忘れるのは酒呑のせいじゃないよ』
名前を奪ってしまったことで存在が置き換わるなんて、名前がそんなに重要な役割を持つものだったなんて、知らなかった。『黒』が消えてヘルも消えた、そう考えるなら順当なのだろうか、婚姻を結んでこの世界から出て行ったと考えてしまおうか。
なら、ここに居る僕は、置いていかれた僕は、誰なのだろう。
『……すまん、何やて?』
『ヘルシャフト、覚えられない?』
『…………すまん』
『別にいいよ、仕方ないことだし……』
アルの尾の刻印だけは残っている。だからアルだけは僕の名前を覚えてくれている。特別感が湧いて、名前が消えたこともそう悪くなかったと思えてくる。
自然と笑みが零れ、アルの元へ帰る足が弾む。そうしてしばらく歩き、一人になっていることに気が付いた。
『……酒呑?』
振り返ると酒呑は道端に佇んでいる。
『酒呑……どうしたの、早く帰ろうよ』
駆け寄って腕を引くも、その手は振り払われた。ロッカールームでの出来事と違ってそう強い力ではなかったが、何故かあの時よりも強い拒絶を感じた。
『…………頭領?』
眉間に皺を寄せ、眉を顰め、口の端を不自然に釣り上げて、震えた声で呟いた。まるで怯えているようだ、僕の感想はそれだった。
『な、何さ、そんな顔して。僕はヘルだよ? 魔物使いだ。魔物使いはこの世に一人しか居ないんだからさ……だから! ねぇっ……そんな顔しないでよ』
『……何やろな、薄気味悪いんや。なぁ……自分、想像出来るか? 見知った人間が全く別のモンに入れ替わっとる……確信のない不安っちゅーやっちゃ、分かるか?』
『入れ替わってないってば! 僕は僕、ヘルシャフト! 魔物使いだっ……!』
薄気味悪い? 別モノ? ベルゼブブもそんなことを言って出て行った。これ以上仲間が減るのなんて嫌だ、何としてでも分からせなければ。僕は僕だということは僕だけが証明出来る、僕には僕が変わっていないことが分かっている──のか? 本当に? 僕は自分が僕だと本当に言い切れるのか?
『僕っ……は、僕は、僕…………って、何?』
僕は──僕、は、ぼく…………ボクは、何者でもない。
『………………ボクは』
『……自分、何や』
『ボクは、無貌の神……』
ガシャァーンっ! と、耳のすぐ近くで響いた。いや、頭蓋骨を伝わって聞こえた。
道に緑色のガラス片が散らばっている。ぽたぽたと髪や頬からアルコール臭い液体が滴り落ちている。頭皮にヒリヒリと刺激的な液体が染み渡っていく。
『臨、兵、闘、者──』
足元に作られた酒溜まりに蛇の影が八つ揺らめいた。
『──在、前! 八の叡智の水神よ、此者を浄化し給え。急急如律令!』
その蛇の影は僕に向かって飛び出してきた。黒いはずのそれに襲われて何故か目の前が真っ白になり、気が付けば僕は大きな背におぶられていた。
『起きたか、頭領。すまんな、もうちょいはよ気付いたったらよかったわ。何重にも浄化したからもう平気や思うけど……なんやおかしいな思たらすぐ言いや』
『……しゅ、てん? 僕……』
『おぅ、何や』
『…………なんでおんぶされてるの? えっと……何か、蛇に噛まれた覚えはあるんだけど。あれ……外に居たんだっけ? 僕……』
ホストクラブから出て──いや待て僕はどうしてホストクラブに居たんだ? 僕はホストになった覚えもホストにハマった覚えもない。
酒呑に会いに行ったんだったか。何の用事で?
帰り道に蛇に噛まれて気絶したのか。こんな街中で?
『……噛まれた跡とかはないし……あれ? 夢?』
『夢とちゃうか? 頭領は店で俺待っとる間に寝てしもてん、今はおぶって帰る途中や』
『そう……だっけ。ぁ、そうだ、家焼けちゃったんだよ、玉藻が燃やして……』
『知っとる知っとる。で、とりあえずの仮がここなんやろ? それは聞いたわ』
酒呑の頭越しに見える鉄柵、その向こうの豪邸。フェル達が待っているはずの元アシュ邸だ。
『ごめんね、何話したか全然覚えてないや……』
『……ええんや、頭領。何も気にしぃな』
今までに聞いた覚えのない酒呑の優しい声。その低さに眠気を思い出されて、今まで眠っていたはずの僕はまた眠りに落ちた。
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