第538話 自由の放棄は責任の放棄

兄が務めていた国だと分かっていたのに、兄の気配を感じてしまうと分かっていたのに、いざその時が来るとやはり涙が溢れてくる。

この時空で兄を優しいままに生存させる方法はいくらでもあった。祭りの日に呼ばなければいいだけだ、来てしまったとしても早くアルを呼べばよかっただけだ。僕のせいで死んでしまったのだ。


「あの人さ、弟いるって言ってなかったっけ」

「あー……身分証がどーとか、連れて来るとか言ってたけど」


兵士達の話は予想外に僕のものになる。


「……巻き込まれちゃったのかなー、やっぱ」

「家買ったばっかで逃げるってのもなー……」


兵士達は揃って深いため息をつく。


『ね、ルーラー君どこ行ったか知りたいの?』


そんな二人の肩を叩いたのは研究者ふうの男、僕が最初に出会ったナイだ。足音だとかは聞こえていたはずなのに接近に気付なかった、もし透明化していなかったら──と自身の迂闊さを責める。


「はっ、はい、そりゃ……上司ですし」

「知ってるんですか?」


『……昨晩、侵入者が居たって聞いた?』


「あ、はい。犬型の魔獣とツインテの女の子と白髪の悪魔……でしたっけ」

「まだ見つかってないんですよね? やばくないですか」


『それがルーラー君の弟君』


ナイの深淵のごとき瞳は僕を捉えていない。彼の目にも映らないのかと思うと一安心だが、話の内容には安心できない。


『ルーラー君、魔物の襲来に巻き込まれてね、弟君庇って死んじゃったんだよ。ふふっ……』


兵士達は「何を笑っているんだ」とでも言いたげな目を向ける。僕も同じ気持ちだ。


『悪魔って言われてる奴が弟君ね、他のはお友達かな? 流石はルーラー君の弟君、 兵士投げたりレンガ凹ませたりなんて人間業じゃないよね』


「なんでそんな事知ってるんですか?」

「……弟さんが来た理由って分かりますか?」


『魔法の国の様子を観察してた知人が居てね……来た理由は知らない。まぁ、お兄さんが移住した国なんだから来てもおかしくないよね? 正当な手続きを踏まず魔獣連れて兵士薙ぎ倒して侵入したってことは……ふふ、はははっ、あはははっ』


「……訃報届けに来たって訳じゃなさそうですね」

「遺品取りに来たでもなさそうだよな……」


ナイはそれ以上何も言わず、何がおかしいのか一人で笑いながら去って行った。僕は黙り込み俯いた兵士達から聞けることはもうないだろうとナイの後を追った。

階段を下り、地下道を行き、再び階段があって僕は見覚えのある地下研究所に辿り着いた。竜の背から落ちてナイと再会した場所、僕の怪物化が始まった場所だ。


『……あれ、来てたの?』


書類が散乱した机の上には美しい少女が座っていた。黒い髪に黒い瞳、黒で統一された服に、それらから浮いた白い肌──僕と出会った当初の姿の『黒』が居た。


『レヴィアタンかベヒモス起こそうとしたんだけど、上手く暴れてくれそうになくてさ、暇なんだ。君に会ったら何かあるだろうと思ってね』


『悪いけど兵器はまだ完成してないよ。まぁ、もう少しだからしばらく待ってて。そうそう、キミの下の書類が必要なんだけど』


太腿の下に敷かれていた紙の束を投げ、『黒』はつまらなさそうに足をぷらぷらと揺らす。ナイは資料を取りに来ただけのようで、その書類の他にも幾つかの紙を持って出て行った。

僕は重厚な扉をすり抜けて顔だけでナイの様子を伺い、戻って来そうになかったので『黒』の目の前に立って実体化した。


『…………や、久しぶり』


一瞬目を見開き、それから微笑む。いい退屈しのぎを見つけたと言わんばかりの笑顔だ。


「……会いたかったよ、『黒』」


机に座ったままの彼女の腰に手を回す。


『随分慣れてるね? まぁ、人生やり直したようなものだし、力も手に入れて……色々好き放題やってるのかな?』


「あんまり、かな。失敗ばっかりだよ」


やり直した、か。最も良い未来への道も分からないで目先の幸福に囚われて、最悪の選択を繰り返した。人生の改悪だ。


「……名前、どうやったら返せるのかな。このままじゃキミは消えちゃうんだよね」


『僕はもう僕の名前を覚えてはいないけど、君にあげたってことは分かってるし僕にも微かに力は残ってる。存在の引き継ぎって素早くは行われないものなんだね。だから……僕と君が望めばいつでも名前は僕に戻るよ』


「そうなの? なんだ、簡単だね、良かった……じゃあ、早速」


ナイだけが扱える特殊な術──なんて展開にならなくて良かった。

僕は返すべき名前を呟いた。しかし、僕にも『黒』にも変わったところは見られない。


「……あれ? えっと、戻った?」


『…………僕はこのまま消えたい』


「……え? な、何言ってるの『黒』! 僕、まだ君に指輪あげてない。そうだよ、僕は君の名前を取り戻すために──」


『君は勘違いしてたみたいだね。まぁ、僕の計算なんだろうけど』


そう言いながら『黒』は机から降りて、僕の頬に手を添える。身体の前面がほとんど密着して、顔が熱くなるのを感じた。


『指輪って言うと一万年前の件だよね? あれは……確かに、きっかけだよ。指輪のせいでって悔やんだし、僕は確かに指輪が欲しい。君から贈られたい』


「なら! 消えたいなんて言わないでよ……!」


『……僕は多分、最初っから君に名前を押し付ける気だった。君に「名前を取り戻して欲しい」なんて嘯いて「結婚指輪が欲しい」なんて猫かぶって』


「な……なんだよ、それ、どういう意味だよっ!」


『暇で、退屈で……酷い苦痛だ。唯一愛せる君には数百年……下手を打てば数千年数万年会えないで、ようやく会えても二十数年でまた別れて…………もう、疲れた』


弱々しい声を出して、震える腕を僕の背に回す。僕を抱き締めて落ち着いたらしく、そのまま話を続けた。


『指輪が欲しいのは本当だし、君を愛しているのも本当。でも、取り返した名前を扱うのは僕じゃない、君だ』


「…………本当にそれでいいの? このままで……消えていいの? 『黒』は……本当に、消えたいの?」


『何万年も前からずっと機会を狙ってた。君に会う前から……意識が芽生えた時から、ずっと消えたかった。多分……僕は、そういう性格なんだろうね。夜眠る度に目覚めませんようにって祈る……そんな性格。消えて後悔することなんてないよ、その時には後悔する意識はもうないんだからさ』


「指輪は……どうするの?」


『…………欲しいね。最期に……思い出としても持っていられないけど』


震える声も僕にしがみつく腕も、『黒』の何もかもが「消えたくない」と言っているように思えてならない。それは僕の「そうあって欲しい」という願望でしかないのだろうか。


「どうして……? このまま悪魔を従えて、人間と魔物を共存させて……そしたら僕は魔王みたいなもので、そうなったらもう心配なんてないのに……僕と、僕……と、結婚、しなくていいの?」


自意識過剰な言い方になってしまったが、『黒』の願いだったはずなんだ。指輪が欲しいと言ってくれた、婚約者だと名乗った、僕と添い遂げてくれるはずなんだ。


『名前を僕に返したら、そのうち君は死んじゃう。また転生するまで待つの? 魔物使いの力が目覚めて……悪魔と天使が君を利用しようと取り合うのを傍で見るの? 嫌だよ、もう……これで終わりにしたいんだ』


「……僕を、独りにするの?」


『…………ずるいよね、君。独りじゃないくせに……僕より好きな女の子がいるくせに。僕は子供なんて作れないし、そういう行為すら出来ない、伴侶には向かないよ。君も本当は僕なんてどうでもよかったんだ、前世の記憶なんて無かったんだから』


どうでもよかった? 違う、それだけは違う。僕は初めて『黒』に出会った時から、寂しげな瞳を見た時から、ずっと恋い焦がれていた。そのはずだ。そうでなければならないのだ。


「僕はっ……僕はずっと君が好きだった! 今だって、好きだよ……ねぇお願い、結婚してよ、傍に居て!」


『…………嘘吐き』


「どうしてっ……? どうして、なんで信じてくれないの!? 本当に、僕は……君のこと」


『……僕とあの狼、どちらか一方しか助けられなくて──見捨てた方は転生も出来ず永遠に消滅しますってなったら、どうする?』


「…………え? な、何それ……例え話? だよね?」


『君が選ぶのは狼だ』


「違っ……違うっ!」


反射的にそう叫んだ。でも、僕は、本当にそんな選択を迫られたら、きっと──


「僕はっ、僕、は…………僕が、身代わりになる……」


『二択を勝手に三択にしないでよ……ふふ、でも、君のそういうところ、好きだよ』


「僕のこと少しでも好きなら僕と一緒に居てよ! 僕は君の頼み聞いたじゃないか……君も僕のお願い叶えてよぉ!」


『……嫌だよ。君のことは好きだけど、それ以上に苦痛なんだ。この世の全てが……そう、僕が消えるか、全て滅ぼすか、僕が僕という存在を認識したその瞬間から僕にあったのはその二択だった。あの邪神を喚んで……僕を代償に全て覆す、そんな一択になった。でも君は世界を救った、おめでとう』


『黒』の身体が離れ、彼女の表情が見える。大粒の涙を溢れさせた美しい笑顔だ。


「待って、嫌だっ! 嫌だよ『黒』……僕は、僕は君とっ!」


手を掴むと逆に引っ張られて、一瞬の口付けが交わされる。


『そんなに僕と一緒に居たいなら君に呪いをかけてあげる』


掴んだ手が消える──いや、すり抜けている。『黒』の姿が段々と薄まっている。


『……君は僕を代償に世界を救うんだよ、僕だけを捨てて……このつまらない世界を存続させるんだ』


そんな言葉を残し、『黒』は僕の前から姿を消した。

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