第471話 裏切りの連続

気が付くと僕は柔らかいものの上に寝かされていた。おそらくはベッドだが、僕の部屋ではない。シーツの感触とマットの沈み具合が違うし、何より僕の部屋はもっと獣臭いはずだ。この部屋は甘ったるい香りに満ちている、アルが居るのに香など焚く訳がない。


「おぅ、起きたか」


胸の横あたりのマットが沈む。誰かがベッドに座ったのだ。


「仕方ない奴だな。用心しろって言ったろ?」


「…………ヴェーン、さん?」


上体を起こそうとするも、身体に上手く力が入らない。血を吸われ過ぎたからだろうか。


「なぁ、俺言ったよな。この国で結界の外に出るのは危ないって、アシュメダイに気を付けろって、誰を信じられるか考えろって、言ったよな」


「……なんの、話?」


「俺は忠告はしたよな? って話だ。聞かなかったのはお前の責任で、俺は何も悪くない。俺を恨むなよ?」


頭がボーッとして何も考えられない。ヴェーンの言葉は理解出来ないまま頭の中をぐるぐると回る。


「…………にいさま、呼んで。治してもらう……」


兄なら失った血も元に戻せる。


「悪いな、無理だ」


「……ここ、どこ?」


「………………クソ淫魔の本邸だ」


「どーして……?」


「……アシュメダイはお前を狙ってた。で、お前が俺の家に住み着いたのはアシュメダイの紹介。俺はアシュメダイのペットで、忠実な部下……ここまで言えば分かるだろ?」


言葉は意味を持たない音として頭の中をぐるぐると回るだけで、しばらく経つとどこからか消えていってしまう。何も分からない。


「考えようによっちゃ最高だぜ? 普通に生きてちゃ味わえないような、アブノーマルに生きても人間だけじゃ味わえないような、まさに脳が焼き切れるような快楽の中で死ねるんだからよ」


「…………死ぬ?」


ふわふわと空を漂う思考が唯一掴んだ言葉は「死」だった。


「……そ。お前はここで死ぬ。吸い尽くされて……な。勿体ないよなぁ、せめて目は寄越して欲しいよ。目……そう、もっかい見たかったなぁ………………ごめんな」


もう一つ引っかかる。そう「目」だ。


『ダンちゃんお疲れ様ぁ~、ダンちゃんがジュージュンな子でぇ、アシュちゃんとっても嬉しい!』


扉が開き耳障りな高く甘ったるい声が響く。鼓膜が胃もたれしそうだ。アシュ……か。僕を狙っていて僕が死ぬというのなら彼女は僕を喰おうとしているのだろう。兄に貰った目隠しが早速役立ちそうだ。全くタイミングが良い、流石は天才とでも褒めておこう。


『ん~……やっぱり最初はちゃーんと味わいたいしぃ、アシュちゃんだけでするね? 二回目はダンちゃんも一緒にしよ~?』


「いや、俺はいい。お前と違ってアレ大して好きじゃねぇんだよ」


『やだ~もぅ見栄っ張りだなぁ、大好きなくせにぃ~』


……まずいな。目隠しはポケットに入れているのだが、手に力が入らない。指先すらピクリとも動かせない。


「俺の緊縛血術なんてそう持つもんじゃねぇし、とっととやることやっちまえよ」


身体が全く動かないのはヴェーンの術なのか? だとしたら、アシュの力でないのなら、魔眼がない今でも解けるはずだ。

指一本すら動かなくても集中は出来る。


『え~と~、名前なんだっけぇ』


「ヘルだヘル、ヘルシャフト」


『そ~それ~、ヘルちゃあ~ん、分かる~? 今からとぉーっても気持ちイイことしてあげるからねぇ~?』


胸元に誰かの手が置かれる。子供のような小さな手だ。アシュだろうか? 彼女は確か小柄だったはず……ダメだ、こんなことに脳を使うな、術を解くのに集中しろ。


『ふふっ、ふふふふ……すっごいイイ匂い』


頬に生温く湿ったものが触れる。舐められたのか、気持ち悪いっ……!


『ほ~ら~、口開けて?』


顎を掴まれて口を無理矢理こじ開けられる。口内に弾力のあるものが──長い舌が入ってくる。舌が触れた場所からピリピリと痺れていく。

ダメだ、気にするな、集中しろ……

暗闇の中、必死にヴェーンが掛けた術らしきものを探す。すると、不意に身体が縄のようなものでぐるぐる巻きにされていると理解し、途端にその縄は四散した。


「……っ! クソ淫魔、解けちまったぞ」


身体の自由が戻る。僕は口の中を好き勝手に這い回る舌に噛み付き、上に乗った身体を殴った。だが、手首を捻っただけでアシュは全く動じなかった。


『……乱暴だなぁ。嫌いじゃ、ない……ふふふふっ』


「あーぁ、馬鹿だな。マジにさせちまってやんの」


アシュはまだベッドの上にいる。僕の太腿を跨いで座っている。

僕はポケットに手を伸ばし、細長い布を引っ張り出す──が、アシュに腕を掴まれた。


『……なぁに? これぇ~』


「…………あぁ、目隠しだな。巻いてやれよ、その方が興奮する……んだろ? なぁ?」


『眼、無いんだからどーでもいーじゃーん』


「……えっと、ほら……気分だよ気分、な? いいから巻いてやれって」


掴んでいた目隠しがヴェーンに奪われる。アシュは僕の足の上でむくれているらしく、今僕に目隠しを巻こうとしているのはヴェーンだ。


「…………なんか仕掛けあるんだよなコレ。どうすればいいんだ?」


ヴェーンは僕の義眼を抜き取り、目隠しを巻き、アシュに聞こえないように小さな声で囁いた。


「……怪我、したら……眼が治る」


「………………分かった。アシュ様、巻けたぜ。ちょっと相談なんだが……ヤる前にもっかい血ぃ飲ませてくれよ、やっぱ純潔のが美味いし」


『え~? もう、仕方ないなぁ……』


アシュはそう言いながら立ち上がる。


『……とか、言うと思った?』


頬や髪に触れていたヴェーンの手が消え、一瞬後に足下の方で大きな物音が鳴る。


『全部聞こえてるよぉ? 眼が治る……ねぇ。治してどうする気ぃ? ねぇダンちゃん、アシュちゃんを裏切る気なのかなぁ~?』


「いっ……てぇ、なぁ…………クソ淫魔ぁっ!」


再び大きな物音が鳴り、僕の肩にアシュの足が乗る。どうやらさっき壁に叩きつけられたヴェーンがアシュに飛びかかっているらしい。


「てめぇは最初っから大っ嫌いだったんだよっ! 今なら勝てる、この力なら……!」


鈍い音が響き、僕の上に重い身体が覆い被さる。ヴェーンの声が途切れたことからして、一撃で殴り倒されたらしい。


『……生意気言わないでよねぇ~。七十二柱が一柱、しかも大罪の悪魔なアシュメダイ様が人間混じりの薄汚いゴミ吸血鬼なんかに負けるわけないじゃ~ん。ほらどいて? アシュちゃんはヘルちゃんと気持ちイイことするの。アンタもう要らなーい』


ヴェーンは僕の顔の横に手をつき、ゆっくりと起き上がる。その息は荒く、僕の顔にぽたぽたと落ちた液体からして、酷い怪我を負っていると分かった。

よろよろとベッドから降りる──その途中、僕の手の甲を引っ掻いた。


「……ざま、みろ…………てめぇでも、魔物使いには……」


眼孔に僅かな熱を感じ、目隠しをずり下ろす。

見える。目に悪いピンク色の部屋が、珍しくも不機嫌そうなアシュが、頭から血を流して倒れているヴェーンが。


「 動 く な !」


僕を押さえようと小さな手が迫る──眼前で止まる。


「……止まった? ヴェーンさん! ヴェーンさん、返事してっ、ヴェーンさん! あぁ、酷い傷……ちょっと待って、この目隠しをあなたに巻けば……多分」


首に引っかかっていた目隠しを引っ張り、結び目の部分を前に持ってくる。焦っているせいかなかなか解けない。


「……後ろっ!」


「へっ……? ぁ……」


ヴェーンの声に振り向くと眼前に踵が迫っていた。魔物使いの力を振るう暇も、腕で防御する暇もなく、僕は頭を蹴られて吹っ飛んだ。


「ぅ……」


吹っ飛んだ先でも頭を打って、脳震盪を起こす。視界が揺れる、意識が飛びそうだ。


「助け、て……誰か……助け……」


僕に出来た足掻きはそう呟くことだけ。だが、それだけで僕は僕を助けるものを喚ぶことが出来た。

背筋に悪寒が走り短い毛が身体に擦れる。


『……なぁに、これ。犬の霊……? こんなのでアシュちゃん倒せると思ってるのぉ?』


視界が少しずつクリアになっていく。頭痛も消え、アシュに蹴られて切った瞼の血も止まる。

倒れ込んだ僕の側だけ、薄ピンク色の絨毯に短い草が生えていた。


『これ、そこの山の……どうして!? 魔物使いが神性の加護なんて貰えるわけない!』


アシュが僅かに後ずさる。その眼は珍しくも驚愕に見開かれていて、鬱陶しい口調も人並みに短くなった。

僕は微かな笑みを零して立ち上がり、形見の小石を見つめた。

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