欲望に満ち満ちた悪魔共
第470話 髪留め
酒食の国、ヴェーンの邸宅に戻ってきた。一体いつまで彼の家に居座るのか、ここを本拠地としてもいいのか、ここに戻るといつもそう考える。
『ヘル、これあげる』
兄に細長い布を渡される。表面は滑らかで全体的に柔らかく、上等な物だと分かった。
『普段はポケットにでも入れて置いて。何かあったら目に巻いて、引っ掻くでも噛むでもして怪我をして。そうしたら魔眼が再生するようにしてある』
「ぁ、ありがと……でも、なんで?」
以前は魔眼だけは再生しないように魔法を仕込んでいたのに。誤発動したけれど。
『…………もし、だよ?』
真剣な声色に気圧される。
『見つからないように魔法はかけてあるから大丈夫だとは思うけど、もしも何か強力なモノがここを嗅ぎ付けたら魔眼が必要になるかもしれない、僕は咄嗟に治せないかもしれない。だから念の為、本当に万が一にもの為、自分だけで戻せるようにしておいた方がいいと思ってね』
自分の強さを盲目的に信じている兄とは思えない言動だ。見つかるかもしれない、治せないかもしれない、そんな想定が兄にできたなんて知らなかった。
『それと、魔眼が治ってる間に縫合した犬神だけど──』
以前目隠しの誤作動で魔眼が治った際、僕はカヤの完全修復を試みた。僕の力だけでは切れた胴の接着が上手くいかず、僕は兄が魔法で作り出す糸での縫合を頼んだのだ。
『──もう糸抜けそうだね。眼はなくても犬神は出せるの?』
「うん、来てくれると思う。カヤ!」
背筋に悪寒が走り、左腕に柔らかな短毛の感触が与えられる。
『……うん、大丈夫…………糸抜いたら完全な不可視に戻るからね』
魔法の糸はあくまでも物体で、可視の存在だ。だから不可視のカヤの傷をそれで縫うと可視の紐だけが浮いて着いてくるように見えるのだ。しかし、それも今無くなった。
『ヘルシャフト様、ちょっといいですか? 戦力増強についてなんですけど』
「あ、うん。いいよ、何?」
『ほら、娯楽の国に吸血種の悪魔居たでしょう? 性別コロコロ変わる……異性が苦手な、ピンクの』
「セネカさんのこと?」
『名前は知りませんけど。彼、彼女……? 相当強いと思うんですよ、吸血種は血を吸わせれば吸わせるほど強くなりますから……それに、貴方様とは契約を済ませているようですし、叛逆の可能性もありません。連れてきたらどうです?』
セネカとの契約……? 血を与えて身体を変質させた時のことを言っているのだろうか、アレは契約にあたる行為なのか。
「そうだね、顔見せないとだし、メルにも会いたいし」
『待って、ヘル。娯楽の国には天使が常駐してる』
『あー、そういえばそうでしたね。じゃ、私がパッと行ってパッと帰ってきます。あの国のは不真面目なので素早くやれば気付きもしませんよ』
連れてくるだけなら僕は必要無い、話はこちらに来てからすればいい。空間転移は転異物が重ければ重いほど消費魔力が増えるし、一人でいいなら節約すべきだ。
「うん、お願い……あ、待って、マンモンさんは?」
『彼は一応国を支配している立場ですから、そうほいほい離れられないでしょう。声はかけて何かあったら呼べるようにはしますよ。じゃあ行ってき……兄君、二人が入れるように結界の設定変えてください。とりあえず家の前に転移しますから、外出といてください』
『分かった。早めに来てよ』
不快な羽音が無数に鳴り響く。ベルゼブブが転移の術を使っているのだろう。兄は面倒臭そうに重い足取りで玄関に向かった。
『……頭領、俺もう寝んで』
「あ、うん、おやすみ」
『何やあっても知らんで、起こさんといてや』
「何かあったら起きてよ……」
乱暴な重たい足音が遠ざかり、代わりとでもいうようにコツコツと革靴の音が近付いてくる。この音はヴェーンだ。
「よ、おかえり。早速だが狼さんよ、買い出し頼むぜ」
『……分かった。メモを寄越せ』
アルはメモを受け取ると皆と同じように家を出ていく。カチャカチャと可愛らしい足音が恋しい。
「見えて……ないのか。頼まれてた髪留め完成したぞ。鬱陶しい前髪しやがって丁度いいだろ」
「完成したの? ありがと。ほんと、ちょうど欲しかったんだよ」
今は目が無いから視界の邪魔だとか目に刺さるだとかはないけれど、頬や鼻が擽ったいなどの害はある。本当に丁度、髪留めが完成しないかと思っていたところだ。
「ん、じゃあ来い」
手首を掴まれ、ぐいっと引っ張られる。
「……地下?」
髪留めだけなら持ってきてくれたらいいのに。
「おう、地下だ」
しかし「お前だけ行って取ってこい」なんて横暴な口がきけるほどの度胸はない。
僕は黙って腕を引かれるままに足を前後に振った。
…………何だろう、前に地下室に行った道とは違う気がする。長いような、階段が多いような、行き道が違うだけだろうか。
「ヴェーンさん……あの、まだ?」
「……あぁ、ここだ」
キィ、と扉が開く。この音も前に聞いたものと違う気がするが──まぁ、扉の音など一々覚えてはいないだろう、気のせいだ。
「ほら、これ。どうだ? いい感じだろ?」
ヴェーンが何かを持ってきたようだが、僕には何も見えない。
「ん……? あぁそうか、俺の目使えよ」
「あ、そうだね、なんで忘れてたんだろ。じゃあ…………ヴェーン、視界を寄越せ」
くら、と目眩が起こる。力の使い過ぎか? いや、視界共有は丸一日やっていても平気だったし、何よりぐっすり寝たばかりだ。
揺れている視界は僕のものではない、僕の頭が痛いのではない、ヴェーンが目眩を起こしているのだ。視界を借りたいだけの僕にも伝わるとは……不便な点もあるのだな。
「髪、どう留めるよ」
「あ、じゃあここで分けて……ぁ、反対反対、他人の視界で手を動かすの難しいね……」
ヴェーンは四つの髪留めと二つのヘアゴムを作ってくれていた。僕は右眼を隠す為だった左の長い前髪をそのうち一つの髪留めで横に流し、左側より少し短い右のハネ髪を二つの髪留めで目の少し上に留めた。
「予備で持っとけ。あと……後ろ結ぶか? 鬱陶しいだろ」
「あ……うん、お願い出来る?」
「はぁ? 仕方ねぇな……」
余った髪留めをゴムに引っ掛け、手首に通す。
「この辺の髪全部まとめていいんだよな?」
「うん……あ、首スッキリするね、これ……」
ヴェーンの手は優しく僕の後ろ髪を集め、梳いていく。髪型を整えられるのには慣れていない、アルにはよく毛繕いをしてもらえるけれど、あれは正直迷惑だ。
この感覚はどこか心地好い、童心に帰るような温かい気分になる。幼い頃は母や兄に髪を整えてもらっていたのだろうか。
「出来た。これで文句ないな?」
「文句言った覚えはないけど……うん、ありがと、ヴェーンさん」
後ろ髪は後頭部の中程でまとめられ、いつも熱がこもっていた首周りに涼しさを与えた。頭を振ると肩に毛先が触れる……この髪が揺れる感覚は少し楽しい。
「わっ……あ、あの、ヴェーンさん?」
髪を振って遊んでいるとヴェーンに肩を掴まれた。視界が僅かに明るくなる、僕のうなじ周りが特に。皮膚の下を流れる赤いものが透けて見えるような感覚だ。
「あ……血、欲しいの? どうぞ……」
頭を横に倒すと首筋にチクリと痛みが走る。その痛みはすぐに消え、力が抜けていく感覚だけが残る。
「ぁ……あっ、ちょっ、ちょっと、ヴェーンさん、待って……倒れる、かも……」
頭を押しのけようとするとヴェーンは僕の手を押さえ、僕の前に回って僕の頭を抱きしめるようにして固定した。
一瞬口が離れ、荒い呼吸が聞こえ、またすぐに別の場所に牙が突き立てられる。
「ぅ……」
視界共有が切れ、僕は暗闇に戻される。
まずいな、やはり体調が優れなかったのか? それとも僕の力が増したからだろうか。ヴェーンは僕への気遣いと節制を忘れて僕の血に夢中になっている。
「ヴェーン、さんっ……そんなっ、吸ったら……お腹壊すよ……」
混血だからと、吸血鬼の血は薄いからと、あまり飲めないと言っていたのに。
本格的に窮地だ、このままだと意識を保てない。だが魔物使いの力を使ったり手足を暴れさせたり出来るほどの体力はもうない。
「…………ちゃんと、部屋に運んでよね……」
僕に出来たのはヴェーンに倒れた後のことを念押すことだけ。僕は彼の返答を聞くことも出来ず、意識を手放した。
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