第436話 所有を望む支配者
鳥の鳴き声が聞こえる。
目を開けても闇の中で、それでも澄んだ空気と外からの音で夜が明けたのだと察した。
全身の痛みに耐え、上体を起こし、隣に眠るアルを撫でた。
「あーぁ、服破っちゃって……」
見えなくとも自分が着ている服がどうなっているかは分かる。牙や爪で引き裂かれ、尾や口で破られ、ズタボロだ。
「…………ふふっ、ふふふっ……あっははははっ!」
笑いが止まらない。いつも優しく寄り添っていてくれたアルに乱暴にされて、僕の価値などこんなものかとの自嘲が止まらない。一番信頼していたアルにすら、あんなふうにされるなんて──
「あはっ、はは……は…………ふっ……ぅ……何で、何で……どうしてっ……」
痛い。
爪の痕が、牙の痕が、血を滲ませている。
腹や胸、背中の皮膚がボコボコと凹んでいる。これは鱗の痕だろう、アルが巻き付け締め上げた尾の痕だ。
痛い。
ヒリヒリと、ズキズキと、肌に肉に痛みが与えられている。
アルは金属だろうと噛み砕く顎を持っているのに、腕を噛んでも骨は折らず、皮膚とその下の何層かの肉にだけ穴を開けた。
アルの尾は大木だろうとへし折れる力があるのに、僕の背骨は折らず、内蔵も傷付けず、呼吸を危うくさせて痕を残すだけに留めた。
その気遣いがたまらなく嬉しい、あんなにも興奮していたのに加減したアルが愛おしい。
そう思わなければやってられない。
「アル……大好きだよ、大好きだよアル、大好き……」
僕はアルの首を無理に持ち上げ、抱き締める。途端に今まで動かなかった身体が起きた。
『ヘ……ル?』
「おはよ、アル。よく眠れた?」
無理矢理明るい声を出したのに、アルはするりと僕の腕から抜け出す。手を伸ばしてもその度に逃げていく。
「アル? どうしたの?」
『……私、は…………私はっ、何て事を』
「僕今何も見えないんだって、傍に来てよ」
『そんなっ……私は、私は……貴方を守りたかったのに…………貴方に少しの血も流させまいと……』
伸ばして振り回した手が柔らかい毛に触れる。もう逃れられないようにと強く掴んで、ベッドを膝立ちで進んでアルを抱き締めた。
「つーかまーえた。アル、大好きだよ、だーいすき」
『…………ヘル。貴方は、嬉しいのか? そんな……傷を負わされて。痛かったろう? 本当に喜んでいるのか? 演技なんて要らない、嫌なんだろう?』
何を言っているんだろう。
どうしてアルは辛そうな声を出しているのだろう。僕を痛めつけたのはアルなのに、アルは怪我をしていないのに。
喜んでいるのかなんて、そんなの決まっている。
「……何言ってるの? とっても嬉しいよ、アルが愛してくれた痕なんだよ? 嫌なわけないじゃん」
アルは不思議な事を言う。嫌に決まっている。
けれど、アルも僕を傷付けて愉しむのなら、アルが悦ぶのなら、アルに嫌われない為に耐えなければ。
きっとここで正直に嫌だと言えばアルは僕を愛してくれなくなる。
『……そうか。フェルが言った事は本当だったのか、私の考えも間違ってはいなかったのだな』
アルの尾が胴に巻き付く。今度はどれくらい締めるのだろうと怯えを隠して待っていたが、いつまで経っても締めてこない。
『愛しているよ、ヘル……けれど、私は貴方が望む行為は出来ない。私はこれ以上貴方を傷付けたくない』
どういうこと?
まだ試しているの?
昨晩はあんなにも悦んでいたのに、今朝は正反対な事を言って、アルは何を考えているのだろう。
アルは何を言って欲しいのだろう。
「…………僕を愛してるんだよね?」
『あぁ、けれど私は貴方に痛みを与えず貴方を愛したい』
僕もそうやって愛されたい。けれど、僕は痛み以上に伝えられる方法はないと思う、傷痕以上に愛の証となるものはないと思う。
本当は優しくされたいけれど、それだけではどうしても不安になってしまう。面倒な性格だと自分でも思う。
『……治してもらおう。兄君……いや、弟君を呼んで──』
「嫌だよ! 何言ってるのアル、ダメだよ。せっかくアルが付けてくれたのに……ダメ! 治さない、絶対治さない!」
兄はよく僕に付けた傷を嬉しそうに眺めていた。アルも同じような趣味なら傷は残さなければ。
『…………痛くないのか?』
「痛いよ? でも残したいの。えっと、隠さなきゃだよね。にいさまとか絶対治そうとするし……秘密にした方が、何か、いいもんね」
ズタボロに裂けた服を脱ぐ。露出度のとびきり低い服をアルに持ってきてもらって、それを着た。
『……顎の下に見えるな、手の甲も……少し』
鎖骨周りや首筋の傷は隠せたが、顔に近い部分や手はどうしても隠れない。
「しょーがないな……フェル呼んできて、ここだけ治してもらう」
フェルの治癒魔法はごくごく小範囲だ。腕や首の傷は残るだろう。
そんな僕の予想は当たって、アルに呼ばれてやってきたフェルは手と顔周りの傷だけを治した。見えなくても触らなくても、身体の傷が残っている事は痛みで分かる。
『……ん、治った。なんでこんな怪我してたの? 見えなくて転けた……とかじゃないよね? 狼さんの牙とか爪っぽかったけど……』
「アルが寝ぼけて甘噛みしてきたんだよ。たまにあるんだ、今までは大体服の上からとか毛布越しとかが多かったから何ともなかったけど、今回は顔噛まれちゃって……あはは、まぁとにかく、ありがとうフェル」
フェルは黙ったまま動かずにそこに居るようだ。僕に対する返事はなく、部屋を出ることもなく、立っている。目が見えない今ではそんな微かな空白の時間も気になってしまう。
『…………僕が言ったこと真に受けて狼さんが何かしたのかと思ったけど』
「……アルに何か言ったの?」
『別に。お兄ちゃんは痛いことされても割と喜ぶよってだけ』
「別に喜ばないよ……僕はそんな変態じゃない」
アルに入れ知恵したのはフェルなのか?
アル自身は僕を傷付ける趣味はないのか?
アルは僕が喜ぶと思ってやったのか?
いや、昨晩のアルは僕が血を流す度に昂っていた。僕が痛いと言う度に悦んでいた。きっかけが何であろうと、あれがアル好みのやり方だという事は変わらない。それなら僕は耐えなければ、嬉しいと嘘を紡がなければ。
「あ、変態と言えば、リンさんには会った? 元気だった?」
『えっ……? ぁ、あぁ、うん、元気だった』
声だけで分かるほどにフェルは動揺している。
「フェル……何かされなかった? 変な写真撮られたり変な服着せられたりしてない?」
『しっ、してないよ。そんなことは……言ってた気もするけど』
「ふぅん……? リンさんには大分僕の事情説明してたけど、双子だって普通に思ってくれた?」
魔法の国が滅びた当時のことやその時に両親が死んでしまった話、リンには僕の事情を初対面の時にほとんど話した覚えがある。
『生き別れだと言っておいた』
「あ、そうなの? 流石アル、頭良いなぁ。それ今度からも使おう」
『う、うん、今度からもそうして。えっと、じゃあ、僕これで……ばいばいっ!』
フェルはバタバタと足音を立てて去っていく。何か急ぎの用事でもあったのだろうか。
そういえば、フェルが置いて行った
「お腹空いたな。アル、乗せて。ご飯食べに行こ」
『……あぁ』
アルは翼と尾を使って器用に僕を背に乗せた。揺れや傾きに極限まで気を使って、僕に移動を感じさせない。
こんな気遣いの出来るアルが、昨日あんなにも取り乱して、僕にこんなにも多くの傷を付けたなんて──
「………………何で」
『ヘル? 何か言ったか?』
「…………大好き、って言ったよ」
『そ、そうか。私もだ、ヘル』
僕を落とさないようにと太腿に巻かれた尾に力が入る。わざとではなく、照れているらしい。
あぁ、やはり今のように優しいアルが良い。愛情表現は嬉しいけれど、無ければ不安になるけれど、でも、いきなりあんな……いいや、アレで良かった。常に感じるこの痛みが僕に「愛されている」と思わせてくれる。昨日のアルは必要だった、そう思わなければならない。
「……ねぇ、アル。今晩も……するの? あれ……」
『え? ぁ……当分は…………いや、貴方が望むなら、どうしてもしたいと言うなら、幾らでもしよう』
「…………望まなかったら?」
『もう二度とやらないつもりだ』
「……そう」
『あっ、ち、違うぞ。貴方を愛していない訳ではなく、貴方を愛しているから、だからこそ、貴方の事は大切にしたくて……』
「うん、そんな勘違いしないよ。大丈夫」
くしゃくしゃと首元の毛を撫でる。アルは甘えた声を出し、蛇の頭で僕の背を擦った。
僕は今安堵している。愛情ならば痛みは嬉しい事だけれど、それでも痛いものは痛い。どんなに嬉しくても、そう思い続けようと自分に言い聞かせても、痛みは怖い。
僕の中にはいくつもの矛盾した感情や欲望がある。だから僕は幸せにはなれないと、満たされることはないと、そう思うのだ。
愛されたいけれど、その過程での痛みは怖い。優しくされたいけれど、愛されていないのかと不安になる。好きな人の全てが欲しいけれど、そうすればその人は不幸になってしまう。好きな人には幸せになって欲しいけれど、そうすると僕が捨てられてしまう。
──ままならないものだ。
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