第435話 合成魔獣の愛

時は砂漠の国から帰ったアルが風呂に入っていた頃に遡る。


独り湯船に浸かったアルはぼうっと考えていた。ヘルの幸せについて、リンが死んだ事について、砂漠の国で見かけた奇妙な預言者や神性について──考えなければならない事は山ほどあって、それらは着実にアルの精神を蝕んでいた。


『──痛みこそ、愛情。傷跡は愛の証。そんな歪んだ認識がヘルシャフト、所有を望む支配者──か。本当なのか? ヘル……貴方は、本当にそんな事を……』


フェルに聞かされたヘルの歪み。同じ思考を持つスライムの勝手な決め付け。それが何よりも大きく、重く、のしかかっていた。


『私が貴方を傷付けたなら……貴方は、喜んでくれるのか?』


浴槽の縁に前足を乗せる。

ヘルとは違って短い指では彼と指を絡められない。彼の頬を撫でられない。こんな鋭い爪では彼を傷付けてしまう。


『……私が人間だったら、同年代の女だったら、貴方は…………私をどう思った?』


湯船を出て、大きな鏡の前に立つ。くもりを翼で拭い、自分の姿を写す。醜い獣の姿を──


『私の何処が美しいんだ、私の何処が可愛いと言うんだ……私は、こんなにも…………醜い。貴方を想うことすら罪になる程に、醜い』


大きな黒い翼、長く黒い蛇の尾、ふわりと伸びた銀色の体毛、人の頭が容易に入る大きな口、人の皮膚も肉も容易に裂く鋭い牙に爪、その何もかもがヘルにとっては美しく、アルにとっては疎ましかった。

少し前まではアルも自分が美しい獣だと思っていた、毛並みも翼も鱗の光沢も自慢だった。けれど、想い人と全く違うその姿は今となっては全て醜い。

強靭な肉体が無ければ、翼や尾がなければ、今までヘルを守ることなど出来なかった。あっても完全には守り切れていない、無ければきっと二人とも死んでいた。

けれど、それでも、ヘルに愛されたいという激情が溢れ始めたアルには耐えられなかった。いや、耐えられないように仕組まれた。


『…………使い魔失格だ……主人にこんな劣情を抱くなど、主人を守る為の身体が疎ましいなど……』


鏡にもたれかかり、そこに映った魔獣を睨む。


『………………愛されたい。ヘル……貴方に、女として求められたい』


こんなにも想っているのに、ヘルはきっと自分よりもそこらの売女に惹かれるだろう。アルはそう思い込んでいた。

ふらふらと浴場を後にし、ぼーっとしたまま翼と毛皮を乾かし、脱衣場の鏡を覗き込む。


『……どうして、私は』


モデルとなった悪魔のように化けられないのだろう。そうすればヘルの全ての願いを叶えられるのに。

そうでなくても彼女が化けた時のような美女に造られていたらヘルに愛されたのに。


『…………リン』


自分を造った者の子孫は目の前で燃えた。ヘルの恩人でもあったのに、油断と不手際で失ってしまった。


『済まない……』


ヘルにはどう伝えよう。ありのままを伝えたら嫌われはしないだろうか。

好きな者によく思われたくて嘘を吐く、それはヘルもよくやっている事だ。だが、アルにはそんな選択肢が自分の中に生まれたことすら受け入れられなかった。


何よりも美しく、純粋だった。

正義の属性を持つ悪魔をモデルとしたのだ、当然とも言えよう。

けれど、だからこそ、その精神は容易に穢された。


ナイは今まで何度かアルに会ってきたがアルに直接手を出すことはなかった。重要視していなかったのだ。

しかし気が付いてしまった。アルを壊せばヘルに多大な影響を及ぼせる事に。

自由意志を司る天使の名を手に入れる為に、それを足掛かりに創造主の座を奪い取る為に、魔物使いは成長させても天使の名を取り返させてはいけない。

生かさず、殺さず、狂わせなければ。

大切なものを全て踏み躙らせ、目の前で天使を奪い、魔物共をその狂った心で率いらせなければ。


アルはリンが死んだ直後、預言者に──ナイに触れられ語りかけられた時、僅かに精神を弄られた。醜い衝動を幾つも仕込まれた。



カチャカチャと爪を鳴らし、長い廊下を歩く。

リビングの方からは鬼達とベルゼブブが酒盛りをしているのが聞こえてくる。あの小さな姿になっても食欲は衰えない、いや、せめて人間体になる為に食欲は増進しているのだ。


『……弟君?』


黒い砂の入った瓶を抱えたフェルが通りかかる──が、アルを見て踵を返し、別の道から部屋に戻った。


『…………何なのだ』


その背をしばらく目で追ったが、再び歩き始めた。

廊下と擦れ合う度にカチャカチャと鳴る爪を疎ましげに睨みながら、ヘルの部屋を目指した。


『こんな爪……』


ヘルはこの足音を可愛いと思っていた。アルはそれを知らなかった。

ドアノブを蛇に咥えさせて器用に扉を開く。眠っているであろうヘルを起こさないよう、そっと開いて中に入る。

アルの予想に反してヘルは上体を起こし、じっとアルの方を向いていた。アルはそれに感激する、帰ってきた音を聞いて起きたのだと、自分を待っていたのだと。

絨毯やベッド上では忌々しい音も鳴らない。アルは悩みを喜びで塗り潰し、ベッドに飛び乗った。


「だっ、誰……?」


少し怯えたヘルに擦り寄る。


「……誰なの?」


『ただいま……ヘル』


そう言って耳を舐め、牙をヘルの首にあてがった。このまま軽く引いて首に傷を付けたらヘルは喜ぶだろうか──フェルの話を真に受けたアルはそう考えていた。


「ア、アルなの? 怖がらせないでよ、見えてないんだからちゃんと声かけてよ」


ヘルの腕がアルの首に回る。アルはそれに歓喜した。


『ヘル……独りで寂しくは無かったか?』


思い切り甘やかしてやろうと牙を収め、鼻を首筋に擦り寄せ──ある匂いを嗅ぎとった。ヘルの匂いではない、嗅いだことのない、けれども分かる女の匂いだ。

その匂いに気が付いたアルはヘルの返事を聞かず、尾をヘルの胴に巻き付けた。


「ア……ル? くる、し……」


そのままゆっくりと締め上げると吐息が漏れる。

あぁなんて可愛らしい、なんて弱々しい主人だろう。このまま背骨を折ることも、小さな口から血を溢れさせることも、容易だ。

アルは背筋に寒気を感じた。


『…………何処の阿婆擦れだ』


このままでは殺してしまうとアルは力を加減する。


「……アル?」


『何処の阿婆擦れを連れ込んだ、と聞いている。一体どうやったんだ? 兄君の結界は許可されていなければ入れない……まさかアシュメダイ様か?』


「なっ……なに、言ってるの? アル……苦しいよ、そんなに……締めないで、よ。何怒ってるの……?」


苦しそうな困惑した声を聞き、アルは尾を解く。


『…………そうだな。私には怒る権利も、妬む権利も無いな……私は、ただの獣だ』


そう、主人が誰と寝ようが口出しする権利は無い。アルはそう自分を律するが──


「ア、アル? 気に入らないことあったなら言って? ただの獣だなんて……言わないで、僕にとってアルは大切な──っ!?」


──その言葉を聞いて正気に戻りかけたアルはまた狂気に陥る。

大切、大切だと言った。ヘルが大切だと言ってくれた。いや、待てよ、ヘルは何も言っていない。友人とも恋人とも、使い魔とも言っていない。けれどその先は聞きたくない。


『大切な……駒か? 兵か? 乗り物か? 私は……いや、それでいい。それでいいんだ、私は、貴方に利用されるだけで幸せで……幸せな、筈で……』


いや違う、私の幸せはヘルに愛されることただ一つ。

違う、私はヘルの使い魔で、そんな劣情を抱いてはならない。

嫌だ、愛されたい。

駄目だ、許されない。


『…………私は、私……は、どうすれば良い?』


正気と狂気を繰り返す。忠義と愛情が入り乱れる。純粋に大切に想っていた気持ちが歪んでいく。


『私は貴方を……貴方を、どうしたいんだ』


ヘルが尾を引っ掻いても、毛を毟っても、アルは自問自答を止められなかった。


「アルっ……ねぇ、アル……僕は、僕はアルが好きだよ? ねぇ……だからさ、僕は……君に優しくして欲しい、ずっと……そう言ってる。ねぇアル……聞いてよ、アル……」


ヘルが苦し紛れに出した言葉が、兄に殴られない為に磨いた処世術が、アルを現実に引き戻した。


『………………私が好きなのか?』


「やっと聞こえた? そう、好きだよ。僕はアルが大好き」


ヘルは悲しい特技を発揮する。相手が欲しい言葉を並べ立て、相手を気持ち良くさせる特技を。だが、それはいつも良い結果を出せるとは限らないものだった。


『そうか……好きなのか。なら、もっと…………痛みを、与えてやる。さぁ、ヘル……たっぷりと愛してやるからな』


大好き、そう言われてアルは吹っ切れた。

ヘルを押し倒し、牙や爪で痛みを与え、抵抗を封じた。


『愛してる、そうだ愛してるんだヘル! 私は、貴方をずっと想ってきた! ヘル……ヘルっ! 貴方が同じ気持ちで良かった、もう躊躇わない、もう……種族だの主従だのどうでもいい、愛してるっ!』


純粋だった愛情は少しずつ歪んでいき、邪神によって狂わされた。

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