第312話 どん底に堕ちる前に

ミナミは手袋を外し、僕に傷だらけの腕を見せた。


「……自分でやったんです。カッターとか包丁とか、色んな物で。手だけじゃなくて他のとこにも傷があります」


「そうでしたか。すいません、早とちりしちゃったみたいで」


「…………何も言わないんですね」


「僕もやりましたから」


ミナミはハッとして僕を見つめる。暗く沈んだ表情に光が射したように思えた。


「ヘルさんは、どうして?」


「……構って欲しかったんです」


話してしまったら少しは楽になるかな、と口を開く──直前に膝と机の間にアルが顔を突っ込んできた。


『私は知らんぞ! 貴方が自傷したなどという話は聞いていない!』


「…………アルが悪いんじゃないか」


『わ、私が? どういう意味だ?』


「アルが僕の傍から離れたから、アルが僕を放ったらかしにするから、アルが僕から目を離すから、アルが悪いんだよ」


アルは呆然として僕の話を聞いている。ミナミは真剣な様子で僕の顔を見つめている。


「足が動かなくなって、力もなくなって、アルが傍にいてくれなくなった」


『あ、あれは……貴方の傷を治す為に、貴方の兄を探していたから』


「…………そんなのその時は知らなかった。僕のこと嫌いになったんだって思った。アルがいなくなったらって考えたら怖くて、心配してくれるかなって、構ってくれるかなって、だから、ランプで……反省はしてるよ」


その時は足の感覚がなかったから、痛みはなかった。痛みがあったらとてもではないが出来なかっただろう。


『あの時か……やはり、貴方は嘘をついていたんだな』


「…………自分でやったって言ったら、アルに嫌われるかなって」


あの時は何もかもが怖くて仕方なくて、考えるのも嫌になるくらい何も信用できなかった。


「……似たような、ものですね。私にはヘルさんの狼みたいに心配してくれる人いませんでした。羨ましいです」


「心配されたらされたでまたやるし、されなかったらされるまでやるんだよね」


「…………そう、ですね」


「そんな自分が世界で一番嫌い」


「…………そうですね」


明るい照明の下で、派手な装飾に囲まれて、他の客の笑い声に包まれながら、僕達は共に落ち込んでいく。


「…………消えたいなぁ」


だが、僕はそれが心地よかった。僕は食事をジュースで流し込み、ヘルメスに声をかける。


「すいませんヘルさっ……メルクさん、先に帰ります」


「……君ね、それわざとだろ。まぁいいよ、また今度ね」


席を立つ僕の腕に傷だらけの腕が絡む。


「……帰っちゃうんですか?」


「はい、すいません。もう眠いんで」


ここに来る直前まで寝ていたけれど、眠気は来ていなかったけれど、心が疲弊してしまって帰りたくなった。


「……また、来てくれますか?」


「…………多分もう来ません。それじゃ」


考え方は似通っていたし、居心地が悪かった訳でもない。居心地が良かったからこそ、もうミナミには会いたくない。

暗い奴は暗い奴と長く話さない方がいい、どんどんと落ち込んで、その果てはきっと絶望だ。


『随分と冷たいな。あの女は貴方を気に入っていたようだぞ?』


「……ミナミさんは僕に似てるから」


『そう……か?』


「僕が一番嫌いな人、分かる? 何度か言ったと思うけど」


『…………ルシフェルか?』


あぁ、嫌いだ。アルを殺したから、大嫌いだ。

だが一番ではない。アルが死ななければならなかった理由、一番大きな罪を持つ者は彼女ではない。


「僕だよ」


『……前に聞いた』


「わざと外してくれたんだね、ありがと」


『あまり言わないでくれ、私は貴方が大切なんだ』


「…………ごめんね」


僕は言わないという約束も、大切に思ってくれている事への感謝も言わず、俯いたまま宿に帰った。

シャワーを浴び、バスローブを着て、濡れ髪のままベッドに寝転ぶ。アルはそんな僕の頭にタオルを巻き、隣に寝転ぶ。


『……後でちゃんと乾かしておけ、濡れたままでは風邪を引く』


「分かってるよ」


風邪を引いたらアルは何て言うのかな。

私の話を聞かないからと怒るかな、ほら私の言った通りだとふんぞり返るかな、大丈夫かと慌ててくれるかな、心配してくれるのかな。


「…………アル、僕が風邪引いたら看病してくれる?」


『やれるだけはやるが、私は不器用だからな』


「アルは器用だよ。僕よりずっと」


『貴方のように自由に動く指も腕もない、爪と肉球で何が出来ると思う? 貴方は風邪を引かない方がいい、熱を測ろうと置いた前足で額に傷をつけられたくないのならな』


「……アルの爪の痕なら欲しいかも。顔はちょっとやだけど」


『馬鹿を言うな、早く髪を乾かして暖かい服に着替えて布団を肩まで被って寝ろ』


僕の背の下に尾を潜り込ませ、無理矢理起き上がらせる。せっかくもう少しで眠れそうだったのに。僕は胴に巻きついた黒蛇を撫でて、アルの頭も撫でた。


『……早く髪を乾かしてこい』


「分かったよ」


この国には髪を乾かす為の機械がある、機械に疎い僕でも操れる単純な仕掛けの物だ。それは洗面所から動かすことはできない、ベッドに寝転がって使えたなら最高だったのに。


「あー……面倒臭いなぁ、髪切ろっかな。でも切ったら目隠せないし、光避けに出来ないし、切ったら切ったで似合わないだろうし」


あれこれ理由を付けては変化を避ける。

まだ髪が湿っているのに、機械を止めてバスローブを脱いだ。気持ち悪いくらいに白く細い四肢には傷一つない、今まで味わった苦痛は全て夢だと言われているようだ。


「……傷跡残して欲しかったなぁ」


魔法で完全に治してしまわずに、痕跡くらいは残して欲しかった。そうすればどれだけの苦痛を味わったのか、その様を見ていなかった人にも伝わるだろうから。


「そしたらみんな、優しくしてくれるだろうな」


何の苦労もしていないガキなんて馬鹿にされるだけだ。自称人生経験豊富な先輩方に。


「……魔物に食われたかけたこともないくせに、悪魔に血を要求されたこともないくせに、天使に襲われたこともないくせに、神に付け狙われたこともないくせに」


居ない誰かに話しかける。


「…………下に見るなよ」


全てに向けて吠える。


「僕が……僕が支配者なんだ、僕が……」


する、と素肌に柔らかい毛が触れる。


『何をしているんだ、ヘル。早く服を着ろ』


「…………ぜいにくチェック」


適当な言い逃れを用意する。妄想に閉じこもって独り言だなんて格好悪いことは言えない。


『無いぞ、少しは付けろ』


「筋肉欲しいなぁ」


『鍛えろ』


「それは面倒」


朝起きたら程よい筋肉があったらいいのに。

朝起きたら優しく挨拶してくれる兄がいたらいいのに。

朝起きたら手作りの朝食が用意されていたらいいのに。

そう考えれば生まれてしばらくの間は満ち足りていた。あの頃に戻りたい。


「……アル、一緒に寝よ」


でも戻れないから、僕は唯一無二の大切な親友で暖を取る。


『私は構わんが、暑くないか?』


「寒いんだよ。早く来て」


『寒い? 肉が無いからだ』


「体毛がないからだよ、アルみたいにもふっとしてればそりゃ暑いだろうけど」


『まだ夏毛だぞ』


「はぁ……もふもふ、これ増えるの? わぁ冬楽しみ」


『動き回っているからな、私がどの地域の季節に対応するのかは私も分からん』


柔らかい銀色の毛。窓から微かに入る月明かりがアルの輪郭をぼやかして表す。僕はぼんやりとした視界と思考でアルを抱き枕にして眠った。今日はいい夢が見られそうだ。

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