第236話 悪意なき民衆

先程、僕が兄の前世だという女に向けられた感情、殺意。

それはメルに向けられたもの、自分に向けられたものでなくとも肌が痛いくらいに感じ取れる。

大勢で気を大きくした、一人だけではやる気はない、誰かがやれと叫ぶ集団の殺意。

いや、民意。


『嘘……待ってよ、そんな……ワタシ、今まで』


涙を溢れさせながらの弁解に意味などない、誰も聞いていない。

聞きたくないことなんて、聞かない。


『…………魅了』


羽を広げ、呟く。

民衆は勢いを失い、ぼうっとメルを見つめだす。

メルの足元の豪奢な絨毯にぽたぽたと涙が落ちる。


『……魔術のせいってだけじゃなくて、本当に愛されてるって、思ってたのになぁ』


「メル……あの」


『いいの、分かってた。ワタシはどうせ悪魔なんだから』


部屋の外からはまだまだ大勢の足音が聞こえる。

メルは魅了を使っているからと羽や角を晒してきたのだろう、だから民は今回の惨劇はメルが元凶だと決めつけ、押し寄せる。


「……何で来たんだろ。メルは術解いてないよね?」


『そんなに強力なものじゃないもの、前にだーりんが来た時はワンコの足止めのために強化したけど……いつもアレじゃ暮らしていけないから、好意的に思うくらいに留めてるのよ』


「そっか……じゃあ、強めたら?」


『…………無理矢理やっても、きっとダメよ。皆ワタシが悪いって思ってるもの』


「そう、なのかな」


『魅了なんて、好意を膨らませるだけで、不信感は消えないし記憶も消えない。長く同じ術に曝されていれば耐性もできる。そうなったら、ワタシ……は』


『殺される、と』


メルが言うのを躊躇った言葉をベルゼブブは簡単に吐き捨てる。

ベルゼブブの視線には同情も何もなく、口は事実だけを述べる。


『リリムは人間寄りの悪魔ですからねぇ、脆いし弱いし、首を落とせば簡単に死ぬ。ここって処刑器具ありますか?』


『い、いえ。働かなくても食べてはいけるので、犯罪率も低いですし、そんなものは……ありません』


木も岩も川も全てお菓子、生きるために盗む必要はない。

食欲が煽り立てられれば、他の欲求は自然と下火になる。

皮肉にもお菓子の国は『暴食の呪』のおかげで平和だった。

ベルゼブブの翅、髑髏の模様が嫌に目に付く。


「どうするの?」


『殺されたくはないわ、でも、逃げたって……どこも変わらない。人間の中にも悪魔の中にも入れないのよ、ワタシは』


人間は悪魔を受け入れない。人間寄りの弱い悪魔は実力主義の悪魔の世界では生きていけない。


「……酒色の国は? ほら、セネカさんも居たし、大丈夫じゃないかな」


『お話の途中申し訳ございませんが、そろそろ抑えられないのでは? 長く術に曝されてきた国民はある程度の耐性を持っていますし、好意があればあるほど憎悪も大きくなりますよ』


『迷ってる暇は、ないのね。宛もなく逃げるか、王女として死ぬか……どっちも嫌ね』


「逃げようよ! 死んじゃダメだよ!」


『でも、夢が叶わないのなら、生きていたって……』


メルの表情から希望が消えていく。

アルに会う直前の僕と同じ、アルが死んだ直後の僕と同じ、生きていながら心を殺された者の顔。

やはり、メルはどこか僕に似ている。


「な、なら僕が叶えるから! 僕がやる! だからお願い。死ぬなんて言わないで!」


『……もう、だーりんったら。仕方ないわね、じゃあ、もう少しだけ…………夢を見ているわ』


メルは僕を抱きしめ、目を閉じた。

それと同時に魅了の術は解け、怒りで我を失った民衆がなだれ込む。


『任せるわ、だーりん』


「任せるってそんな! 僕に何をしろって……」


なだれ込んできたのが魔獣ならともかく、人間なら僕にはどうすることも出来ない。

大口を叩いておきながら、情けない。そんな事をしている暇はないのに、また自己嫌悪を始めた。


『ふむ……間食ならこの程度でも構いませんよ』


ベルゼブブが指を鳴らすと、無数の虫が壁となって民衆を文字通りに食い止めた。


『さてヘルシャフト様、このまま私がいただいても?』


「食べるってこと? ならダメだよ!」


正義を盾に暴走していようと、彼らは善良な民衆なのだ。

無差別に理不尽に殺戮するなんて許されない。


『そうですか……残念です』


散開する虫、皮膚が一部剥がれた民衆。

幻想的なお菓子の国は小さな地獄へと姿を変えていた。地獄の帝王が地下から這い上がってきたのだから、丁度良いといえばそうなのだろう。


『ならどうするのですか?』


「今考えてる!」


『そんな暇などありませんよ』


「分かってる!」


『……私を使い魔にしますか?』


考え込む僕の顔を覗き込む、悪戯っ子のような微笑み。


「…………へ?」


『契約、しちゃいます? まぁ差がありすぎますからね。仮も仮、一時的ですけど』


使い魔の契約、それをしてどうなる。

ベルゼブブに民衆を落ち着かせることができるのか? 喰いつくせなんて命令を出す気はない。

どうする、どうなる、どうすれば──


迷っている暇なんて、ない。


「分かった、契約する! じゃあ……今すぐ僕らを、僕とメルとにいさまとセネカさんを、メルとセネカさんが平穏に暮らせるところへ連れていけ!」


『……承知』


そう言ったベルゼブブの顔は、どんな悪魔よりも悪魔らしい、とびきり邪悪な笑みだった。

だけれどその笑みは、僕には美しく思えた。


ベルゼブブが指を鳴らす、無数の虫が視界を閉ざし、一瞬の浮遊感に胸を締め付けられる。

ゆっくりと目を開けると、そこは豪華絢爛な見たこともない部屋だった。

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