美食家な地獄の帝王
第218話 空腹は耐え難く
浮遊感が終わり、足が地面の感触を確かめる。
鼻に甘い匂いが届き、ここがお菓子の国だと即座に悟る。
『着いたよ』
ビスケットの壁と水飴の壁が目に飛び込んできた。
見たところ店ではない、民家だ。早く出なければ。
「にいさま、ここ誰かの家だよ」
『そうなんだよね、まぁ問題ないんじゃない?』
兄はそう言って目線で教える。
腹が裂けた死体の存在を。
「ひっ……な、何、何これ!」
『内臓が引っ張り出されたみたい、かな? 中身はどこに行ったんだろうね』
内臓はどこにも見当たらず、穴になった腹部にはグラスに注がれた酒のように血が溜まっていた。
「そ、そんなこと言ってる場合じゃないよ! 何で、この人……死んで、殺されて……!」
『そんなの僕の知ったことじゃない。さて、ヘル。僕はこれから食事だ、少し後ろを向いていてくれないかな』
「ま、まさか、この人食べるつもりじゃ……ない、よね?」
『お腹が空いて仕方ないんだよ、僕だって新鮮な方がいいよ。それとも何? ヘル食べていいの?』
頷けば兄は何の躊躇いもなく僕を喰らうだろう、僕がどうなったって魔法を使えば簡単に治せるのだから。
僕は黙って後ろを向き、俯き、耳を塞いだ。咀嚼音が聞こえないように。
少し経つと兄に肩を叩かれる。
『ヘル、僕少し出かけてくるから、お留守番よろしくね。人が帰ってきたら、適当に隠れておきなよ。僕が帰ってくるまで大人しく待ってるんだよ。分かったね?』
何も知らない他人が見れば、きっと優しい人だと思い込むであろう微笑み。
だからこそタチが悪い、兄がどんな人間かを事細やかに説明しても、一般的な考えを持つ人は僕が嘘をついていると怒ってしまう。
「どこ、行くの?」
『それを聞いてどうするの? 僕は分かったかって聞いてるんだけど。分かったの? 聞いてたの? 勝手に動けないように手足取ってもいいんだからね?』
肯定以外の返事に兄は不機嫌になる。僕が今、兄に質問するのは許されていない。
優しく緩んだ口元が真一文字に戻ってしまう、僕だけを映す黒い瞳に浮かんだ魔法陣が鈍く輝く。
「ひ、ひとりは、寂しいよ……誰か来るかもって、怖いよ」
『……ふふ、そう? そっか、僕がいないと寂しいよね。でもごめんね? 連れて行けないんだ。どうしてもダメ。ローブの魔法は前よりも強いのにしておくから、我慢してね』
咄嗟の言い訳は兄の好みに合っていたようだ、慣れたものだと自分を褒める。
お得意の自分を優しく見せる微笑みを浮かべて、僕の頭を撫でる。
兄の指先がローブに触れると、汚れた箇所が元に戻り、魔法陣が微かに輝いた。
『ヘルはいい子だから、我慢できるよね?』
「…………うん」
『出来るだけ早く帰るから、ね?』
僕は目深にフードを被らされ、狭まった視界で家を出ていく兄の後ろ姿を見た。
外出の目的は分かっている、食事だ。つまり、人を喰う。人が死ぬ。
だが兄を止めることなど僕には出来ないし、あれは食事なのだから、止めては兄が死んでしまう。
僕を食って、治して、それを繰り返せば誰も犠牲にならない? 痛覚を消してしまえば楽なものだと?
でも僕には、どうしてもそれが出来ない、勇気がない。
痛覚を消すなんて、兄がしてくれるはずがない。
僕を食べるなら味だけでなく僕の反応も求めるはずだ。僕が痛いと泣く姿が兄は何よりも好きなのだから。
「……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
勇気がなくて、自身を犠牲に出来なくて、止められなくて、見殺しにして、ごめんなさい。
部屋の隅でうずくまって、何も見ないように聞こえないように、誰かに向けて謝り続けた。
そうしているとガタガタと窓が揺れ、外れた。
顔を上げると、真っ赤な髪とドレスの少女と目が合う。
「……メル、何でここに」
『だーりん久しぶりー! 何でって、私の国よ? 入って来たら分かるわよ』
「そ、そうなんだ」
『それよりだーりん、何でここにいるの? 普通のお家なのに』
僕が今一番聞かれたくなかった事だ。住人は死んでいたので兄が食べましたなんて馬鹿正直に話したら、メルはどんな反応をするか──想像もしたくないほど恐ろしい。
「え……あ、それは、その」
『家主さんはー? お留守?』
「……そんなとこ」
メルは僕に合わせていた目線を上げ、死体が落ちていた綺麗な床を見つめる。
血のように赤い瞳に映った室内は当然赤い、それが真の姿であるように。
『……そっか、留守かぁ』
「あ、あの……僕は何も!」
『分かってる、だから呼んだの。来てくれてありがとう』
ここで死んだ人がいたことを、僕がそれを知っていることを、それを隠していることを、メルは全て分かっている。それでも僕に笑顔を向けてくれた、礼を言ってくれた。
『だーりんが急に来てびっくりしたわ、前みたいに船で来ると思ってたもの。空間転移なんて高度なの使えるなんて知らなかった』
「……それは僕じゃないけど。あの、何があったの?」
『呪が急に強くなったのよ、本当に突然。その影響でセネカも暴走しちゃって……今はお菓子で誤魔化してるけど、あまり時間がないわ』
「呪……『暴食の呪』だよね、ここのは」
『ええ、そう』
「……ベルゼブブ。地獄の帝王、だよね」
『そう……だから、その、私にはどうにも出来ないの』
書物の国で調べた、聞いた。
お菓子の国に呪をかけた悪魔は、悪魔の最高指揮官だと、地獄の帝王だと。
そんなもの相手に僕に出来る事なんてありはしない、そうあの時思った。もちろん今も。
まず問題は会話が出来る程の知能があるか、それをクリアしたら次の問題は話を聞いてくれるような性格か。
あの残酷な呪いをかけ、その上強めたならそんな性格ではないと分かったようなものだけれど。
『みんなね、まずは食用のお菓子を食べたの。でも我慢出来なくて、お家や草木を食べ始めたの。それでも我慢出来なかった人は、人を食べたの』
メルの細い指先がビスケットの壁を這う、慈しむように艶めかしく。
『このお家が残っているのは、もうみんなお菓子には興味をなくしちゃったから。少し街から離れたこの家には、そんなに人は来なかったんだと思う』
じっくりと観察してみれば、机に歯形が確認できた。
その他の家具にも欠けた場所や歯形がある。
床に落ちた砂糖菓子だと思っていた白い欠片は人間の歯だった。
『それに、家用のお菓子は丈夫だから。人を食べる方が楽なの』
「……人、を。セネカさんは?」
『お城には特別魔力の高いお菓子を用意してるの、呪に……地下に、近いところから採ってきたのをあげてるから、まだ人は食べないと思う。でも、だーりんは美味しそうだから、会わない方が……いいと、思う』
「そっか、僕が言えば正気に戻ったりしないかな」
『分かんない、今のセネカは上級悪魔の中でも強い方くらいの力はあるから』
安全策をとってセネカには近寄らないようにするべきか、視認されなければ大丈夫か?
陰に隠れて……いや、やめておこう。
突然呪が強くなった元凶を探るべきだ。
そしてそれにあたり、解決すべきことがもう一つある。
僕はその解決策をメルに話し、時を待った。
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