第197話 実質的天使長

放たれた魔法はハートには当たらなかった。

ハートが結界を張った? いや違う、ハートの結界で兄の魔法を防ぎ切れるとは思えない。

誰かがハートを弾道から逸らした? いや違う、魔法は銃器と違って真っ直ぐ飛ぶとは決まっていない。

なら、誰かが庇った? それなら半分正解だろう。

誰かではなく何か、物……剣だった。


兄の魔法を受け、人間の背を優に超える剣がオレンジと白の光を放つ。

異様な熱気……兄が使ったのは炎系統の魔法だろう。


その巨大な剣を持っているのは、僕よりも幼い子供だった。

だがその背中には、今まで見たどの天使よりも美しく大きな翼が揺れていた。


「天使? 何でこんなところに……い、いや、先に礼か」


ハートは戸惑いながらも「ありがとうございます」と恭しく頭を下げる。

ハートとは思えないほどに礼儀正しく上品だ、それは相手が天使だから。

神獣の末裔である獣人は天使の恩恵を受けることが多かったから、天使への感情も人間とは全く違う。


『どいつもこいつも……僕の邪魔ばっかり! なんっなんだよ! 何がそんなに気に入らないんだよ! 何で僕に逆らうんだよ!』


兄がこの世で最も嫌うのは、自分に従順でないことだ。

全く自分勝手な性格をしている、その上気に入らない者を簡単に消すことが出来るから始末が悪い。

まぁ、今は上手くいかなかったが。


『獣人の住む村の二つが壊滅的な被害を受けた。肉食性の方はラファエルが対応し、死者は人口の半分。だが草食性の方は蘇生可能な者がおらず、彼を除いて生きている者はいない』


先程アルに喰いちぎられた左肩の再生を終え、カマエルは淡々と報告を続ける。


『また、神降の国での競売に獣人が出されたとの情報もある。そしてこれは私の意見だが、魔物使いの力は確実に強くなっている。以上だ』


熱が冷めた剣を軽々と持ち上げ、幼げな天使は地上に降り立つ。

そして子供らしい無邪気な笑顔と可愛らしい声で、こう言った。


『カマエル! 叛逆者へのたいおう、そのいちをぜんいんにはつれい!』


『壱を? ……分かった』


全員、というのはまさか全ての天使ということか。

その命令を伝えるためなのか、カマエルは大急ぎで天に帰っていった。


「ね、ねぇアル、とりあえず逃げない?」


『賛成だ、天使ならハートに危険は無いだろうしな。それに暫くは貴方の兄が引き付けてくれそうだ』


『にげられる、なんて。ほんきでおもってるの?』


いつの間にか天使は僕の真後ろに立っていた。

人懐っこい笑みを浮かべながら、その巨大な剣を振り上げる。


『僕の物に……触るな!』


幾重にも展開された魔法陣は天使の攻撃を防ぎ、同時に炎や氷、風を巻き起こした。

兄の後ろに引き下げられた僕の腹に黒蛇が巻き付き、アルの背に固定される。

アルは天使に背を向け、走り出す。


『きみ……がいらいしゅかぁ、ならえんりょなく』


未練がましく兄の方を向いていた僕の目に映ったのは、信じられない光景だった。

魔法を全て受けても天使には髪の毛程の傷も付かず、それどころか再び剣を振るった。

巨大な剣が振るわれた後には、兄が消えていた。

異常なまでの速さと質量が兄の体を消し飛ばしたのだろう。


「嘘……やだ、にいさまぁ!」


そう叫んだ僕の眼前に剣が迫る。

だがそれは先程集まった魔獣達の生き残りに阻まれる。

勝ち目がないと分かっているのに、肉壁として少しでも時間を稼ごうと僕と天使の間に割り込んだ。

血と肉のシャワーが僕の目と心を閉ざさせる。


「おいアル! 兵器の国だ、今のあの国ならそう簡単に手出しはされない」


『今の……? 分かった、信じよう』


瞼の裏側を見ながらアルとハートの短い会話を聞いた。

アルは翼を広げ、どんどんと高度を上げていく。

一気に高度を上げなくては、神降の国の対空兵器に撃ち落とされてしまう。

雲を抜け、僕の呼吸も苦しくなる。


『兵器の国は……こっちだな、ヘル、しっかり掴まっていろ』


言われた通りにアルの首に手を回す。その直後、アルは僕が今まで味わったことのないような速さで飛んだ。





壁となった魔獣達の姿はもうない、あるのは大量の灰だけだ。


『……ね、きみさっき、なにかいってたよね。なにをいったのかはわからなかったけど、きみも叛逆者なのかな?』


剣に纏った炎を消しながら、天使はハートに微笑みかけた。


『それにきみからはおかしなけはいをかんじるんだ。どうするべきかなぁ』


ゆらゆらと剣を揺らし、無邪気に首を傾げる。

天使は目線を上に向け、しばらく何かを考え込んでいたが、それが終わると剣を振り上げた。


「待て! そこの天使、この騒ぎは何だ!」


天使はハートへの攻撃を止め、城門から出てきた男を見上げる。


「獣人の競売の件なら対応済みだ、今後の課題についても会議を予定している! 獣人に被害はなかった、我が国が責められる謂れはないぞ!」


『あぁ……そう? まぁ、神降の国はいま、どうでもいいよ。あとでこうしょうやくの天使をおくるから、そのこにいってもらえるかな』


「その剣を誰に振るう気か聞いてもいいか?」


天使は黙って首を振り、ハートに向き直る。

男は悔しそうに天使を睨むが、彼に天使を止めることは出来ない。


『……きみ、だれ?』


ハートの背後に真っ黒い子供がいた。

その子供はハートの首に腕を回し、笑みを浮かべる。


『通告者だよ。でも、まだこの子を殺されるわけにはいかないから、この子は回収させてもらうね』


『そんなこと、ゆるされるとおもってるの?』


天使は子供に構わず剣を振るう、が、ハートと子供は剣が触れる前に姿を消していた。

当たった感覚がないのに気がついた天使は、後に残った黒い液体を眺める。

泡立つそれは少しずつ地面に染み込んで薄くなっていく。


『先に鹿っ子ちゃんだけ帰させてもらったよ、君には一つ言っておきたいから』


黒い液体が消える頃、天使の背後に突然子供が現れる。


『きみ、なに?』


悪魔ではない、勿論天使でもないし、人間である訳がない。

なら、聞くべきは「誰か」ではなく「何か」だ。

子供は天使の質問に答えず、嘲笑を顔に張り付けた。


『ボクに……神様に勝てると思わないでね。キミも分かってるはずだ、神の干渉は災害と同じ、ただ祈って通り過ぎるのを待つしかない……っくく、はははははは! 憐れだねぇ! あっはははははは、ははは! はは……あぁ、本当に……惨めだよねぇ、可哀想に』


『神……きみが?』


天使の顔色が一気に変わる、天使にとって神を名乗っていいのはヤハウェの神だけだからだ。

天使が子供に向かって剣を振るうのは当たり前の反応であったし、またその剣が子供に当たらないのもまた当然のことであった。


また忽然と姿を消した子供に苛立ちながらも、天使は自分のやるべき事を整理する。

やるべきなのは魔物使いの処刑、そしてその魂の捕獲。

深呼吸をして、彼らを追うために飛び立った。



天使が飛び立ち、誰も居なくなった大地。

乾留液に似た液体が寄り集まり、鈴のような美しい音を奏でていた。

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