第196話 但し逃走は失敗

蛇が跳んですぐに僕も振り返る、そこにあったのは陶器の破片や羽根などの幻想的な最期ではなかった。

吹き出す血に飛び散る肉、生々しい死の間際だ。


『……ルシフェルを封印した時ぶりか、人間の間隔でいえば「久しぶり」なのか?』


薄紫色の髪を揺らし、重厚な甲冑を身にまとった天使は瀕死の蛇を踏みつける。

蛇はちぎれかけた体を天使の足に巻き付かせ、へし折ろうと力を込める。


『私はカマエルだ、覚えているか?』


だがカマエルは蛇を一瞥もせず、僕を見つめている。

力を抜いて垂れ下がったカマエルの手に、魔法陣のようなものが現れる。

声を出す間も無く、毒針が蛇の頭を貫いた。

だが、蛇の体はカマエルの足に巻きついたままだ、死んでもなお僕に尽くそうとしているように。


『爬虫類というものは、案外死んでも動くものだ。魚や虫ならそれはもっと顕著だな』


彼女はこんなにも会話を楽しむような性格だったか? 天使の中でも天使らしい、話を聞かず滅するような性格ではなかったか?


『……私は貴様が神にとって害になるとは思えなかった、だが今、その考えが間違いだったと気づいたよ。魔物使いは魔物使いだ、魔物を支配し、操り、魔王として君臨する。やはり彼は正しい、流石だな。さぁ……魂の投降を願おうか』


魔法陣らしきものから引きずり出される二本の剣、それは僕の前に展開された"本物"の魔法陣に弾かれる。


『何っ!? そんな馬鹿な! 魔法を扱えるなど聞いていないぞ!』


ローブに刺繍された魔法が発動したのだろう、心の中で兄に感謝する。

そして、この状況を打開するために言葉を紡いだ。

無意識的に、口だけが勝手に動くように感じた。


「僕の元へ集い、僕だけに従い、僕のために…… 死 ね 。愛しい愛しい魔物共」


森が、揺れた。


『これは……! 貴様、もうここまで!』


右眼に鋭い痛みを感じる、自分が吐いた言葉を侮蔑する。

でも、それでも、僕は異様な多幸感に支配されていた。


大小様々な魔獣がカマエルに飛び込んでいく、だが森に住む魔獣程度ではカマエルには敵わず、次々に肉塊へ変えられる。

僕のせいで死んでいく、僕のために死んでいく魔獣達を眺めながら、僕は途方もない罪悪感と救いようのない快楽に陶酔していた。


「……僕、今、とっても愛されてる」


意思に反して口が勝手に笑い出す、自身の言動に嫌悪感を覚えながらも、自分自身を支配できない。

動け、今のうちに逃げろ。

叫べ、魔獣達を逃がせ。

理性的で比較的善良な思考も、掻き消される。


「ふふっ……はは、あはははは! 幸せ。僕、今までで一番幸せ! もっと、もっと、おいでよ! 僕への愛を示してよ!」


幸せ? まさか、自分のために大量の魔獣が死んでいるのに、幸福を感じる訳がない。

だというのに抑えようのない本能が僕を支配する。


魔獣を振り払い、カマエルは僕に向かって剣を振り下ろした。

大量の魔獣の血と油で鈍った剣、硬い皮や鱗を裂いて刃こぼれした剣。

またもや魔法陣に弾かれ、天使は剣を捨て大量の毒針を飛ばす。


『これも駄目なのか……!』


史上最強の魔法使いが紡いだ結界がそう簡単に崩れる訳がない、カマエルは防護結界の破壊手段に気を取られ、突進する魔獣に気がつかなかった。


『ヘル! 無事か、乗れ!』


カマエルの左肩を喰いちぎり、尾で突き飛ばし僕をすくい上げる。

大樹の枝に飛び乗り、翼を広げた。

僕はアルの首に手を回し、何も言わずにただ顔を埋めていた。


『……ヘル? 大丈夫か?』


「平気」


『そうか?』


狼に言える訳がない。

自分のために死ぬ魔獣を見て悦んでいました、なんて。

軽蔑されるに決まっている、僕だって僕を軽蔑している。

いつものように無能だからだとか、考えすぎるからだとか、そんな生まれ持った欠点が理由なら少しは救いもあった。

人格を疑うような、あんな言動。救いようがない。


『ハート、おかげで助かった。礼を言う』


「……どうも」


鬱陶しそうに片目を開き、面倒臭そうに呟いた。

ハートの腕の傷は変わらず酷い、数分目を離しただけで治るとも思っていなかったが、改めて見るとまた罪悪感が湧く。

胸を締め付けるような罪悪感が……罪悪感? 本当に? 悦びだろ?

違う、絶対に違う。僕はあんなこと考えていない。

堂々巡りの自問自答は、いつも以上に深く暗く沈んでいく。


『……しかし、見つからなかったのはそのローブのせいか、魔力が全く感知できん』


「脱いだほうがいい?」


『防護結界や治癒魔法もあるのだろう? 貴方の安全のために着ていた方がいい』


「……なぁ、お前が魔力探知できないなら、あんだけ魔獣寄ってくるのもおかしくないか?」


『いや、そうでもない。魔力を閉じ込めている訳ではなく、匂いを消しているだけだからな。使うことについては問題は無い』


「ふぅん? まぁ魔法なんて知らないけどさ。それって……術者は魔法陣の場所分かる、とかないよな?」


背筋が凍る、兄が僕の居場所を探知できる? もし僕を追ってきていたら、今度こそ殺される。

兄と認めて、仲直りとも取れる言葉を沢山吐いた。

その上で逃げたのだ、これでは最上の裏切りと思われても仕方ない。


『……まさか。と、とりあえず脱げ、ヘル。森の中にでも捨ててこよう。念の為に』


「ま、待って、なんか脱げない……袖、離れないし、前開かないし」


『当然だろ? 勝手に脱がれちゃ困るからね』


背後からの冷たい声に振り返ると、兄が僕を失望したような目で見下ろしていた。

その目を見ていると、僕が無能だとバレた時のことが思い出されて、泣き叫んで縋りたくなる。


『……また、逃げたね』


頬に触れる手は、ゾッとするほど冷たい。

死体に触られているような、陶器の人形に触れているような。


「違うよ、バーカ。俺が攫ったんだよ」


『…………へぇ?』


ハートが会話に割り込んできたことで、兄はさらに不機嫌になる。


「お前こいつが一人で逃げられると思ってんの? あの紐がまず解けないって」


『紐のこと知ってるんだ、なら嘘じゃないのかな?』


確かめるように僕を見て、僕の頬から額に手を動かす。

微かな痛みを頭の中心に感じた。


『ふぅん……本当みたいだね。わざわざ言う理由が分からないけど、大人しく攫われたのも気に入らないけど』


「記憶まで見れるわけ? これはこれは……口先だけじゃダメそうだ」


何故、ハートは僕を庇っているのだろうか。

彼は魔物ではないのに、僕は何も命令していないのに。

僕が逃げたと責められないように、自分が攫ったと言い張っている。

何故? 僕には彼の言動が全く理解できない。


『……詳細は分からないけど、僕の"所有物"を盗んだってのは確かだよね?』


「所有物、ね。何のことか分かりきってて吐き気がするよ」


『知ってるかな、盗人への罰は指や手を切り落とすのが多いそうだよ? どこの国でも手癖が悪いなら手を落とせってのは共通みたいだ』


兄は僕を物扱いしている、そのことについて大した不満はない。

全くとは言い難いが、物だろうと大切に扱ってくれるのなら良かったから。

まぁ実際のところ、僕の扱いは雑だ。壊れたところで治せばいいのだから。


『盗むのは手が悪いのかな? 違うよねぇ、悪いのは頭だよね? 知恵がなければ盗みなんて出来ないよね 』


「まぁ、人間の長所と短所は頭脳だよな」


『……切り落とすべきは、頭だよね?』


「鬱陶しいよな、お前も。やりたいならやればいい、グダグダ言ってる時間が無駄だとか思わないんだな」


兄の長ったらしく遠回しで、情報の少ない殺害宣言。

聞いている相手を怖がらせて面白がるためのものなのに、ハートが思い通りに怖がらないから兄は不機嫌だ。

その不機嫌に任せて必要以上に強力な魔法を放つほどに。

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