第193話 愛玩
瞳を閉じて、嫌な音だけを聞いている。
骨と肉が崩れる音、粘性の高い液体が床を這いずり回る音。
僕の兄がこの家の主を喰っている音。
『……ゴチそうサまでした……っと。さて、ヘル』
人間の姿に戻った気配を感じ取り、恐る恐る目を開けた。
女はいない、血すらも残っていない。
『改めて、僕を兄だと認めてくれてありがとうね』
「……うん」
『でも、さ。ヘルはさっき僕の言うこと聞かなかったよね? ほら、君が逃げて……待てって言っても、戻れって言っても、逃げたよね?』
「……うん」
嫌な予感がする、だが僕はもう逃げられない。
浴室の唯一の出入口は兄に塞がれている。
『罰が必要だよね? 僕の言うことだけをちゃんと聞く、いい子になるためには……躾が必要だ。そうだよね?』
「……うん」
殴るでも蹴るでも好きにすればいい。
兄は僕のために自らを怪物に堕としたのだから、そう思えば少しくらいの痛みは我慢できる。
『じゃあ……そうだ! ねぇヘル、お兄ちゃんお腹空いてるんだ。後で回復魔法かけてあげるから、躾ついでに食べていいかな?』
「…………うん」
また、腕を喰われるのか?
あの痛みはよく覚えていない、ショックと出血ですぐに気を失ったからだろうか。
それとも大怪我は後になって痛みが来るというやつだろうか。
興奮状態に陥っているからとかいう、イマイチ納得がいかない例の説。
「また、腕? どれくらい食べるの?」
『今日はやっとヘルを手に入れた記念日だからね。そのヘルに負担をかけるのはよくない、そんなに食べないよ』
安堵のため息が漏れる、それなら耐えられるかもしれない。
兄はそっと僕の手を取り、指先を口に含んだ。
『爪十枚。それだけでいいからね』
兄は僕が喜ぶと心の底から信じているような笑顔でそう言った。
「……爪? ま、待って! にいさ」
べり、と爪は呆気なく僕の指から離れ、兄の喉を通った。
自分でも訳が分からないくらいに叫んで、半狂乱になって兄の手を振りほどく。
『どうしたの、ヘル。爪だけでいいって言ったろ? 元はと言えばヘルが悪いんだから……ちょっとくらい我慢しなよ』
僕の手首を掴んで、先程爪を剥がした指先を舐る。
痛みに耐えかねて無意識に兄を蹴ったが、兄はそんな僕の反応を楽しそうに眺めるだけだった。
何時間、何日もそうしていたような気がする。一時間も経っていないのに。
兄は爪を喰った後、ぐにゃぐにゃの指先を弄ぶのだ。
噛みちぎるわけでもなく、歯は決して使わずに、唇と舌だけで痛めつける。
今、回復魔法をかけられているが、その痛みがあったという事実と心の傷は癒されない。
『……ん、終わり。もう大丈夫だよ、ヘル』
僕の爪は元に戻り、今は痛みも血もない。
黙ったままでいると兄は僕を抱き上げ、赤子をあやすように揺らした。
『ヘールー、聞こえてる? お返事は? ヘルは返事もできない悪い子だったかな?』
悪い子、悪い子には、罰を。
いい子になるように痛めつけて、言うことを聞かせないと。
幼い頃からよく聞いていた、兄の独り言が思い出された。
「ご、ごめんなさい! ちょっと、聞こえ……にくくて」
『そう? まぁなんにせよ、すぐに謝れるならいい子だよ』
兄はそう言って僕の頭を撫でている、これ以上ないほどの優しい笑顔で。
思わず甘えてしまいそうになるが、先程の痛みが思い出され僕の動きを止めた。
兄は僕で遊びたいのだ。
悪い子だからなんて理由をつけて、痛めつけたいだけだ。
そう分かっていても、気まぐれな優しさからは離れられない。
『さて、まだお腹も空いてるし、ヘルのお昼も必要だ。どこかへ買いに行かないとね』
僕の分の食材はともかく、兄が食べたいものは売っていないだろうな、なんて考えて吐き気を催した。
『ああそうだヘル、ちゃんとフードを被っておくんだよ? そうじゃないと魔法が完璧に発動しないからね』
「何の魔法?」
『君は知らなくていい』
朝食を食べながら聞いた時には答えたくせに。
魔法陣は僕にはほとんど読めない、回復魔法や防護魔法はありがたいが、別のものがあるならローブは脱ぎ捨てたい。
……そういえば、アルは僕を探しているのだろうか? 離れてからもう何時間も経っているはずだが、アルはまだ僕の前に現れない。
また兄が魔法で隠しているのだろう、そしてその魔法陣はローブに描かれているのかもしれない。
そうだとしたら脱がなければ。
だが兄が見ている前で脱ぐことなど──
『じゃあ僕は買い物に行ってくるから、待っててね』
微笑んだ兄の手には奇妙な色の縄が握られていた。
兵器の国で僕を縛り付けたのと全く同じ縄だった。
外出中に僕が逃げ出さないように、だろう。
縛られたのではローブが脱げない。
「にいさま、僕も買い物連れてってよ」
『何で?』
何か理由を、兄が納得するような、機嫌を良くするような理由を。
「えっと……ね、久しぶりに会って、すぐに置いて行かれるのは寂しいなって。にいさまと一緒に買い物したことなんてないし、してみたいなって、思ったんだけど……ダメ、かな」
甘えるように見上げながら、そう言った。
上手くできたのではないか? これでダメならどう足掻いても不可能だろう。
『……いいよ。そんなこと言われちゃ連れてかないわけにいかないよね。兄心をくすぐるズルい文句を覚えたねぇ、可愛い可愛い』
嬉しそうに口を歪めながら、兄は縄と同じ色の布を持ってきた。
手のひら同士を合わせ、指を組ませ、布で両手を包む。
手首を布の上から縛ると、袋のようになった布からはもう手を出すことが出来ない。
強く強く縛られ、鬱血するだろうなと予測した。
兄は縄の端を握り、自分の手首に軽く巻きつけた。犬のリードを離さないようしっかりと持つように。
『よし、行こうか。ちゃんと着いてくるんだよ』
玄関に向かって歩き出す兄、引かれる縄、勝手に前に突き出される両手首。
転びそうになりながら、兄の斜め後ろに追いついた。
僕のフードを目深にかぶり直させると、兄は機嫌良く鼻歌を歌いながらドアを開けた。
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