第186話 我を忘れて
魔物が僕の名を呼んだのはそう不思議なことでもない。
魔物は先程僕の声を真似てアルの名を呼んだし、死体に潜り込んでその声と姿を騙った。
声真似が得意でそれなりの知性があると考えれば、アルが呼ぶ僕の名を覚えたとも考えられる。
だが兄の声でというのはこの理由では納得がいかない。
「ねぇ、君……にいさまに会ったの?」
会っていたとして、その記憶が残っているのか? だとしてもアルの声の方が新しい記憶で真似やすいだろうに。
『ヘル! 戻れ、こっちに来い。其奴に構うな!』
背後からアルの声が聞こえた、すぐ後ろのはずなのに何故か遠く聞こえる。
僕はアルに逆らって魔物にまた一歩近づいた。
少し遠いが手は届く、恐る恐る右手を突き出した。
魔物は首を伸ばし、僕の手のひらに頭を擦り寄せた。
「そういえば君人喰いだったね、お腹減ってたの? だからって……あんなの、ダメだよ」
人しか食べられない魔物に人を喰うなと言うのも酷な話だ。
飢え死にしろなんて流石に言えない。
言う権利があるのはせいぜい「必要なだけ」だとか「無駄に嬲らずに」だとかその程度。
死体に潜り込んでその人を騙って誘き出すなんて、残酷すぎる。
疑似餌と考えればそうでもない? だが僕は人間だから、どうしても人間の味方をしてしまう。
残酷だから何? 人の方が余程残酷だろ? なんて声に耳を塞いでしまう。
『……ヘル、ヘル、ヘル!』
「わ、分かってるって、僕がヘルだよ」
魔物は僕の名を何度も繰り返す、僅かな気恥ずかしさを感じながら制止を促す。
だが魔物は落ち着くどころか激しさを増す、それは僕に魔物使いの力がないからなのか、前なら止められたのか、分からない。
『ヘル………お腹、空いタ』
兄の声が歪んで、魔物の顔が割れる。
口先から四つに割れて首も裂けて、まるで花のように開いた。
裏返る体内には鋭い牙が並んでいて、その中心から長い舌が何枚も伸ばされる。
『……り・リっ………………リ?』
途切れ途切れの鈴の音、僕の腕に絡みつく舌。
それらは僕から現実感を奪い、行動を止めさせた。
腕が喰いちぎられるまでにそう時間はかからず、僕はその間突っ立っていた。
アルが魔物に体当たりを仕掛け、僕の腹に尾を巻き付けて後ろに転がした。
ハートは傷口を縛って血を止めようとしているらしいが、どうにも上手くいかない。
大量の出血と尋常ではない痛みは僕の意識を薄れさせる。
「おい! しっかりしろ、起きろ!」
ハートの声を最後に僕の意識は途絶えた。
山上の空に配置された魔法陣が薄れ、雨雲は消えた。
地上が僅かに明るくなり、地に広がった赤い液体が彩度を増した。
ヘルの腕から流れ出た血はアルを憤らせるのには十分過ぎたし、咀嚼音はさらにそれを煽った。
『……随分と知能が下がったな、怪物化が進んだからか? それとも腹が減ったからか?』
だがアルは我を失って飛びかかるような真似はしない、目の前の魔物が探していた人物だからだ。
今や人物と呼ぶに値するかは分からないが、確かにヘルの兄だった生物なのだ。
『聞いた言葉を繰り返すだけなど、まるで鳥のようだな? オウムだったか……まぁ、それはどうでもいい。私は貴様を探していた』
『……探し……テい………る、ぅた』
『長々と説明しても理解出来まい、単刀直入に言おう。
ヘルに回復魔法をかけて欲しい、失った魔物使いの力とお前が喰った腕を戻すためにな』
『喰った……? くった、クッた!』
『聞いているのか? 回復魔法をかけろ、と言っている。早くしろ、出血が酷い』
頻頻に振り返りながらアルは落ち着いて頼みを伝える。
言葉が理解出来ているとも思えないが、他に方法はない。
「おい狼! 話してないでこいつを背負って神降に入れよ! 一応傷口は縛ったけど、早く病院かどっかに連れて行かないと!」
『……少し待て、此奴に傷を治させる』
「はぁ!? そんなの出来るのかよ……どうなったって俺は知らないからな」
出血を止めるために傷口を押さえ、体温の低下を遅らせるために背を擦る。
ハートはほとんど効果のない行為を惰性で繰り返していた。
『縛魂石、だったか? 石を何のために使ったか思い出せ、記憶を……知識と感情を留めるためだろう? 今の貴様はそれを失っている』
縛魂石はその名の通り魂を縛り付ける石だ。
生物の魂は通常、肉体の中心にある。それは天使や悪魔でも変わらない。
肉体が滅び生物的な''死''が訪れると、魂は各々の死後の世界へ旅立つ。余程のことがない限り数百年のブランクを経て生まれ変わる。
だが縛魂石に縛られた魂は生まれ変わることはない──いや、死後の世界にすら行くことはない。
石が砕けない限り、肉体がどうなろうと魂はそこに在り続ける。
石が砕けたら? それが縛魂石に縛られた魂の終わりだ。この石は魂を物質化しているとも言えるのだから。
『……思い出せぬなら、ここで砕くぞ』
今の魔物の状態は、縛魂石と怪物化した肉体の接続不良と言える。
怪物化が進む中で脳という器官そのものが一度失われ、人を貪るうちに再び脳を作り出した。
新しい脳には当然人間の頃の記憶や知識はない。
彼はそれを見越して縛魂石を使っていたのだが、そのバックアップは未だ役に立っていないようだ。
アルが魔物をすぐに見つけられなかったのも、縛魂石の中の魂が休眠状態にあったからだ。
魔力を頼りに探すアルでは、名残で動いているだけの肉体が彼だと分からなかったからだ。
『…………ばク、こん? 砕く、キオク……知識?』
『早く復元させろ! ヘルをこのまま死なせる気か!』
アルには人間がどれだけの血を流せば死ぬのか分からない、それだけに焦っていた。
『死ぬ? ………駄目、ダメ、僕の……ヘルは僕の、僕ノ許可なク……死んでイいわけナい』
ぴく、と魔物の耳が立つ。
瞳に赤い逆さ五芒星が現れ、額の石が怪しい輝きを放つ。
『……返セ、返せ……ソレは僕のだ』
アルは注意深く魔物を観察する。
魔物の言動はこれまでとは違い繰り返し言葉ではない、明らかな自我がある。
縛魂石との接続が上手くいった、目の前の魔物はヘルの兄に戻った、そう考えられる。
だが声の端々には知性が感じられない部分がまだ多い。
そもそもヘルの兄は信用の置ける人物ではない、回復魔法をかけるかは分からない──いや、疑っている時間はない。
アルはヘルを……腕から流れる血を見て、結論を出す。
『回復魔法をかけろ、いいな? 頼むぞ……』
道を塞ぐのをやめ、魔物をヘルの前に誘導した。
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