第185話 逃走、失策
伸ばした手に触れた体は冷たい。
雨に濡れているのだから当然だ、そう自分に言い聞かせる。
芯の温かさすら感じられない不気味な腕を引く。
ぐちゅっ、と嫌な音が聞こえた。
同時に人影が倒れ込む、支えるためにもう片方の手を伸ばした。
両手と体を使って支えても、やはり体温が全く感じられない。
「大丈夫、ですか?」
震えながら安否確認の声をかける。
『…………り・リ、………………リ?』
鈴の音──違う、この音は。
重く冷たい体から、ずるりと何かが這い出る。
背中を引き裂いて現れたのは黒い粘着質の液体。
定まらない形、どこまでも伸びていく。
それが完全に這い出た時、僕が支えていた体が急に軽くなった。
『ヘル! 下がれ!』
指先も動かなかった僕の体は、アルに引っ張られて部屋の中に戻った。
明るく視界を遮るもののない部屋の中で見た自分の体。
真っ赤な液体が染み込んだ服に腕。
『……テけ? ……開ケて、あけ? アケ、開けて』
たどたどしく、低く高く変化する声。
扉に絡みつく粘性の液体、鈴の音に似た鳴き声。
窓を叩いていたのは死体だ、体内に潜り込まれて無理矢理動かされていた死体。
僕はそれを掴んで、それを支えて、怪物を中に招き入れた。
「あ……アル、アル!」
半狂乱になってアルの翼を掴む。
濡れた羽根は僕の手に上手く収まってはくれない、するんと手のひらから逃げてしまう。
『…………あ、ル? ある、アル!』
僕の声を真似る黒い塊、それには無数の目と口がある。
溶けた肉塊から細長い虹色の光が伸びている。
『黙れ、ヘルを騙るな。不愉快だ』
アルは僕を後ろに隠して唸り声を上げる。
水を吸って重くなった翼を持ち上げ、精一杯の威嚇を見せる。
知性が感じられない塊に威嚇が意味を成すのかは分からない。
生物かどうかも分からないようなコレが''人喰いの怪物''だと?
『ハート、ヘルを連れて神降の国まで逃げろ。此奴は私が引きつける』
「……アル? 何言ってるの……?」
『ここに居れば貴様も死ぬぞ? 一人で逃げるような真似をすれば私が貴様を殺す。これは願いでも取引でもない、脅迫だ』
「アル! 馬鹿なこと言わないでよ! また僕を一人にする気!?」
『……いや、大丈夫だ。勝算はある』
信じられない。
勝てるなら僕がここに居てもいいじゃないか、少し離れていろって言えばいいじゃないか。
神降の国までなんて、そんなの……勝てないって言ってるようなものじゃないか。
叫びたい言葉は一つも声にならず、僕の体は宙に浮いた。
……違う、ハートに抱えられたのだ。
腹に回された腕、僕は下を向いたままだ。
窓を破って外に出る。
土砂降りの雨が後頭部に打ち付ける。
ハートは僕なら選ばないであろう獣道を駆け下りる。
尖った岩を蹴り、細い枝を踏み、崖を躊躇なく飛び降りる。
枝葉が頬を切る、冷たい雨が体の奥底まで染み込んでいく。
ふと上を見ると、空に魔法陣が見えた。
山の端から端までの大きさはある巨大な魔法陣、その上だけに現れた黒い雲。
雲から落ちる大量の水。
僕は直感した。
この雨は自然現象ではないと、誰かが降らせたものだと。
ただそれに気がついたとしても、僕にはどうすることも出来ない。
何が狙いかも分からない、誰がやったかも分からない、僕は再び下を向いた。
横に見えるのは濁流と化した川、下に見えるのは丸い石。
僕なら間違いなく転んでいるだろうな、なんて他人事のように考えた。
「……着いた!」
久しぶりに聞いた青年の声は希望を思い出したようだった。
落とすように下ろされて、泥を払いつつ立ち上がる。
真っ白い巨大な城壁、越えることも開くことも出来ないその上には、大きな大砲が設置されていた。
雨は止んだ……いや、魔法陣の下を抜け出しただけか。
後ろを振り返れば雨のカーテンに隠された山が見える。
その奥には光、雷のような速さでこちらに向かってくる虹色の光の筋。
轟音を立てて崩れる城壁、落下する鉄の塊に暴発する火薬たち。
生物らしさのない光は狂喜し舞い踊る。
僕はまたハートに抱えられていた。
突進される直前にハートは僕を抱えて横に跳んでいた。
城壁を辿るように走っても何もならない、だが他に手もなくハートは走っていた。
「何だよあれ、何なんだよ!」
恐怖は苛立ちに変わり、ハートの足を突き動かしていた。
『ヘル!』
進行方向に落ちる黒い影、それは濡れた翼で無理矢理飛んだアルだった。
「お前……! ふざけるなよ! 全然引き付けられてないじゃないか!」
『……悪い、彼奴はヘルを狙っているらしい。理性も知性も無いのに……本能か、彼奴……』
アルが倒されてはいなかったことに安堵する、危機は全く去っていないというのに呑気なことだ。
恐怖のあまり思考が他人事になっている、だがこれは好機だ、他人事なら冷静になれる。
光と肉の塊は再び姿を変える、手足に頭、生物らしさを得ていく。
その姿は美しく神秘的で、神獣にもドラゴンにも見えた。
首を巻くように浮かんだ天使に似た光輪、額に輝く宝石。
そしてその神聖さとは真逆の紅く鋭い爪、五本に分かれた尾にまで同じく紅い鉤爪が生えている。
「…………エア?」
アスガルドで会った魔物、兄と同じ目をしていたからと兄の名をつけた美しい魔物。
魔物は鈴の音のような鳴き声を上げながら、見せびらかすように尾を振るった。
僕はアルを片手で制止し、下がるように目で伝える。
ハートは僕が何も伝えずとも巻き込まれないように逃げるだろう。
乾いた大地をびしょ濡れの靴で踏みしめて、魔物を刺激しないようにゆっくりと近づいた。
一歩、また一歩と近づく度に魔物の声は美しく高くなり、目は嬉しそうに細められる。
魔物が行った行為を直接見ていなければ簡単に魅了されただろう。
「ひ、久しぶり、かな? そうでもない? えっと……元気だった?」
重くのしかかる空気に耐えられなくなり、感情を乗せられない言葉を羅列した。
『……り…………へル?』
鈴のような意味のない音は人の声に変わり、僕の名を呼ぶ。
「…………にいさま?」
その声は兄によく似ていて、僕は思考よりも早く返事をした。
それが魔物を悦ばせるとは知らずに。
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