第166話 一万年も前のこと
検査で分かったことだが、傷口に吸血鬼の血が混じっていたそうだ。
そのせいで痛みがなく血が早く止まったのだという。
治療でその血も抽出したため、痛みは戻ってきた。
一応痛み止めの魔術陣を包帯の上に描いてもらったが、それでも痛くて仕方がない。
『……歩けるか?』
「ちょっと……無理」
『そうか、ならやはり乗るしかないな』
「うん、あんまり揺らさないでね。痛いから」
『分かっている』
病院を出てからアルはずっと嬉しそうにしている。
僕は痛みに落ち込んでいるというのに。
「何がそんなに嬉しいのさ。」
『ヘルを乗せるのは久しぶりな気がしてな。このところ離れることも多かった、貴方が傍に感じられて嬉しくて嬉しくて……幸せだ』
「……痛いって言ってるのに」
『ああ、悪いな。だが嬉しいのだ。怪我をして私を頼るしかない貴方が愛おしい』
「怪我してなくても頼ってるよ」
そっと右眼の……いや、右眼があった位置に手を当てる。
眼帯の感触が返ってきた。
ゴワゴワとした粗い目の包帯、こちらにも魔術陣が描かれている。
「ね、どこ行くの?」
『とりあえずアシュメダイ様に挨拶に行くつもりだ、それが終わったら国を出る』
「……にいさまを探すの?」
『どうしたい? 私は別に貴方が魔物使いでなくとも良いと思う』
気がつかなかったくせに、なんて言いかけてやめた。
アルの真剣な言葉を茶化すのははばかられたし、いくら何でもしつこ過ぎると思ったからだ。
『貴方が魔物使いでなくなれば、天使も悪魔も貴方を狙わない。貴方は静かに暮らせるだろう』
「…………アルは?」
『私も傍に居る、貴方がどうなろうとずっと傍に』
それは嬉しい言葉だ。
だが、本当にそれで良いのだろうか。
僕は魔物使いだ、何故かは知らないが僕だけが魔物使いだ。
何故僕なのか、それには理由がある気がしてならない。
別に静かな土地に永住したって構わない、むしろ望んでいる。
だが、何故か僕を急き立てるものがいる。
使命……なんて言葉は使いたくないけれど。
『ヘル、貴方はどうしたい? このまま普通の人間として暮らすか、魔物使いに戻るために兄を探すか』
「僕は……どう、しようかな」
『無理に今決めなくてもいいさ、貴方の兄が何処にいるかは分からないからな』
「うん、そう……だよね」
ぼうっと空を見上げる、青く澄んだ空は何処までも高い。
アシュに聞いた話の中で頭にこびりついたものがある。
ヘクセンナハトの話だ。
過去の魔物使いと対立した魔法使い……おとぎ話のような昔話。
一万年以上前の魔物使いは、魔王になったと言っていた。
魔物を総べて、彼は、いや、彼女かもしれないが、どう思ったのだろうか。
対立してどうなったのだろうか。
蘇生魔法を扱えるのなら死ぬことはないだろう、寿命は……どうなっていたのか分からない。
誰が勝って、誰が幸せになったのだろうか。
「ねぇ、アル。魔物使いって何かやることとかあると思う? 世界平和とか?」
『……さぁな。分からないが、誰も貴方に強制はしない』
「前の魔物使いはどうだったのかな」
『分からないな、私はまだ生まれていない時のことだ』
「……誰か、居たのかな。隣にいてくれる誰か。僕にとってのアルみたいな」
『…………さぁな』
「居たといいね」
『そうだな』
何故こんなにも心を乱されるのか分からない。
一万年の前のことがやけに気になる。
───して。
「ん……?」
『どうした、ヘル』
「あ、いや。何でもない」
今、誰かの声を思い出した。
誰かは分からない、少女の声に思えた、どこか懐かしく聞き覚えのあるその声は──
思い出して。
「っ!? ぁ……」
『ヘル? どうした』
「……何でもない」
『本当か? 声に元気がないぞ』
「僕はいつでも元気がないよ……それに今は怪我してるし」
『そうか? まぁゆっくり休め、寝ていてもいいぞ』
アルの言葉に甘えて僕は眠ることにした。
アルの体に横なって、首に腕を回す。
翼と尾に足を置いて、背中も翼に支えてもらう。
この体勢はとても寝心地が良いのだ、傍から見れば信じられないだろうが。
数秒で僕は眠りに落ちて、そして柔らかな夢を見た。
光に包まれた世界。
見回す限り白い部屋。
僕はそんな檻の中に横たわっていた。
誰かが檻の前で手招きしたから、僕はその人のところに這いずった。
『……捕まっちゃったね』
眩しい、何も見えない。
ただ少女の声だけが認識できる。
『君が死んでもう何千年経ったか……あの後どうなったか知ってる? 神魔戦争が始まった。君の仇討ちってね。でももう終わったよ、だから気にしないで』
檻の隙間から差し込まれた手が僕に触れる。
冷たく、優しい手だった。
『本当に気にしなくていいよ、君が心を痛める義理はないんだ。でも君は気にするだろうね、お優しいことで』
むに、と細い指先が弱く僕の頬をつねった。
少女の声はどこか寂しく、また嘲っているようにも聞こえた。
『退屈だ、本当に退屈だよ。退屈過ぎて死にそう』
少女の声は疲れきっていた。
『早く君に会いたいね』
目の前に居るのに。
『僕の名前を引き換えに出してあげるんだから、感謝してよね』
かしゃんと音がして、檻の扉が開いた。
少女が開けたらしい。
『ほら、早く出てよ。早く生まれないと。早く僕に会いに来てよ』
少女に手を引かれて檻から出される。
『ねぇ、普通に人間として生きようとは思わないの? そうした方が幸せだよ、絶対。神魔のことなんて気にしないで、僕と一緒に生きて死のうよ。まぁ……ダメなんだろうね』
どんと突き飛ばされ、穴に落とされる。
暗い暗い穴の底に落ちていく。
『早くしてね、僕は待つの嫌いなんだ』
何かにぶつかって、その夢は終わった。
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